ジガバチ再考


『詩経』小雅「小宛」第三章に、「蜾蠃」という蜂が歌われています。

中原有菽,庶民采之。 中原に菽有り、庶民 之を采る。
螟蛉有子,蜾蠃負之。 螟蛉に子有り、蜾蠃 之を負う。
教誨爾子,式穀似之。 爾が子を教誨し、穀(よ)きを式(もっ)て之に似す。

この詩をめぐって、ジガバチが「象我象我」という呪文をかけて、青虫を蜂へと変身させるのだ、という説が慧琳『一切経音義』や『東宮切韻』に見えていることを、かつて紹介したのですが、最近、吉川忠夫先生の「本草余聞」を拝読したところ、楊雄『法言』が引用されており、以前の記事ではお恥ずかしいことにそれを見落としていたのを思い出しました。このことは、実は、以前の記事のコメント欄にて、藤田吉秋さまからのご指摘をいただきましたが、今回あらためて『法言』を見ました。

螟𧕅之子殪,而逢蜾蠃祝之曰:「類我,類我。」久則肖之矣。速哉!七十子之肖仲尼也。(『法言』學行。いま『法言義疏』卷一、中華書局本、p.9による)
青虫の子が死んでしまうと、ジガバチがそれに向かって「我に似よ、我に似よ」と呪文をかけることとなり、しばらくするとジガバチに似てくる。本当に速いものだ(ジガバチ以上だ)、孔子の弟子の七十子が(孔子に感化されて)孔子に似たことは。

「類我類我」の呪文は、すでに楊雄が述べたものだったわけです。

また、汪宝栄『法言義疏』には、関連の資料が周到に引かれており、陸璣『毛詩草木鳥獸蟲魚疏』にも「里語曰:呪云:象我象我」とあることなども知りました。失考をおわびし、謹んで補訂いたします。

なお吉川先生によると、陶弘景『本草集注』は、ジガバチは青虫に卵を産み付けているだけで、決して善意で青虫を救っているわけではない、詩の作者の不見識はまだしも、孔子がこのような事実に反する詩を『詩経』に採録するとは何たることか(「詩を造る者は乃ち詳らかならざる可きも、未審〔いぶかし〕、夫子 何為〔なんす〕れぞ其の僻に因る邪〔や〕」)、と「聖人」を批判したのですが、『法言義疏』に引く陳喬樅『魯詩遺説考』によれば、掌禹錫、厳有翼、董彦辰、葉大慶、范処義、戴侗、楊慎、王廷相などの人々がいずれも陶弘景に従い、ジガバチはただ青虫に卵を産み付けているだけと考えた、とのこと。影響力の大きさが窺われます。

わたくし自身は、『詩経』にこの詩が含まれていることについて、それほど目くじらを立てるようなことなのかとの印象を持ちましたが、『毛詩正義』によれば、鄭玄は『禮記』中庸の「夫政也者、蒲盧也」(政治というのは、ジガバチが青虫を育てるのと同じだ。鄭注は「蒲盧,蜾嬴,謂土蜂也」といってジガバチと解釈)という孔子の言葉と併せて考えたそうなので、儒教においては、ジガバチをお手本にしようという意識が根深くあると悟り、陶弘景の批判もやむなしと思えるようになりました。

余談ながら、汪宝栄『法言義疏』によれば、「そもそも蜂が人間のことばを話すこと自体がナンセンス」という説を王夫之『詩経稗疏』が唱えているそうで、これに賛同する「合理精神」の持ち主も多いようですが、汪宝栄自身は、これはただのたとえ話なのだから、「船山(王夫之)の譏る所は、子雲(楊雄)固より受けず」、といって退けています。

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「本草余聞」


『杏雨』は、武田科学振興財団、杏雨書屋が刊行している雑誌で、その第21号(2018年5月)が近ごろ出ました。

この中に、吉川忠夫先生の「本草余聞」(pp.139-193)という随筆が掲載されており、先生の文章を文字通り渇望していた者として、欣喜雀躍どころではありません。

しかも、この「本草余聞」には、本草にまつわる十六篇ものエッセーが収められており、ページ数も多く、十分な読み応えがあろうことが、手にした瞬間に了解されたのでした。そのエッセーの題目を列記しておきましょう。

・陶弘景の『本草集注』と『真誥』
・謝霊運と杜甫
・遠志
・菊花
・人参
・薏苡
・王不留行
・当帰
・人乳
・鮧魚
・蟹
・蚦蛇胆
・木瓜
・苦菜
・酒
・聖人も闕有り

吉川先生が、同僚であった麥谷邦夫氏とともに研究班を組織して陶弘景『真誥』の訳注を成し遂げたことは、斯界の歴史にのこる大事業でしたが、その陶弘景のもう一つの著書、『本草集注』を糸口にして、本草関連記事を魏晋南北朝の文献に求めて縦横に語った諸篇です。

最後の一篇は、陶弘景が孔子に対して批判めいたことを述べていることを指摘したもので、私も以前少し触れたことのある、「蜾蠃」、すなわちジガバチにも関連しています。

一篇ずつ味わいながらゆっくり読みたいところでしたが、一気に通覧してしまいました。久々、吉川先生の文章の余韻に浸っているところです。

『中国古代史研究の最前線』


佐藤信弥氏から、近著『中国古代史研究の最前線』一冊を頂戴し、さっそく拝読しました。

佐藤信弥
『中国古代史研究の最前線』
出版社:星海社(星海社新書)/講談社発売
2018年03月

  • 序章
  • 第1章 幻の王朝を求めて
    第1節 殷墟の発見と甲骨学の発展
    第2節 夏王朝の探究
    第3節 古蜀王国としての三星堆
  • 第2章 西周王朝と青銅器
    第1節 西周紀年の復原
    第2節 非発掘器銘をどう扱うか
    第3節 周は郁郁乎として文なるか?
  • 第3章 春秋史を「再開発」するには
    第1節 『左伝』が頼りの春秋史研究
    第2節 東遷は紀元前七七〇年か
    第3節 盟誓の現場から
    第4節 春秋諸侯のアイデンティティ
  • 第4章 統一帝国へ
    第1節 陵墓と死生観の変化
    第2節 竹簡インパクト
    第3節 竹簡から何が見えるか
  • 終章
  • あとがき

佐藤氏は中国古代史を専攻しておられ、以前には『周 : 理想化された古代王朝』(中央公論新社 2016.9 中公新書 2396)という新書もお書きになっています。それを拝読した時も、知識の豊かさと健筆に舌を巻きましたが、今回も期待通り、大いに勉強させてもらいました。

中国古代史の全体がカバーされ、多くの新資料に基づき、近年の学術成果が紹介されているのが、本書の美点です。しかし、それにもまして私が興味深く読んだのは、日本の学者と中国の学者とでは考え方が異なる点への指摘や、また方法論の面への言及でした。単に最新情報を提供するのではなく、研究者が資料を如何に理解しているのか、何が問題とされているのか、そういったことが丁寧に述べられています。

たとえば、王国維(1877-1927)が提唱した「二重証拠法」という研究方法があります。伝世文献と出土史料、その両者によって古代史を証拠立てようという手法で、今なお強い影響力があります。それに対し、近年、西山尚志氏が批判を加えており、本書にその西山氏の議論を紹介しています。

関係する出土文献が現れなければ、伝世文献の記述は、取り敢えずは真実として扱わなければいけないということで、西山はこうした態度を、反証可能性を拒否・放棄し、反証によって真理に近づいていこうとするアプローチを閉ざすものだると批判する。そして、近代において二重証拠法は、多くの研究者がさほど重視していなかった出土文献の史料としての有用性を喧伝するという効果はあったが、一方で「伝世文献の内容は必ずしも偽ではない」「疑いすぎてはいけない」と、伝世文献に対する文献批判・史料批判を封じるという役割を担ったとし、反証不可能な命題をもって反証を封じることがどのような結果をもたらしたのかと、戦前の日本の歴史学の状況を想起させつつ問い掛ける(本書、pp.271-272)。

このような方法論上の問題が、一般読者に向けて語られていることは、とても得がたいことです。一般読者には敬遠されかねない話題ですが、それをすんなりと読ませてしまうところに佐藤氏の力量を感じました。これからもたくさんの本を書いて、我々を楽しませてくれそうです。

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『インド哲学10講』


インド哲学についてはほとんど知るところがなく、常々それを恥じていたのですが、赤松明彦先生からご新著をいただき、これはよい機会だと思い読んでみました。

『インド哲学10講』
赤松明彦著
岩波書店 2018.3 岩波新書, 新赤版 1709

  • 講義をはじめる前に
  • 第1講 インド哲学のはじまりと展開―ウッダーラカ・アールニの登場
  • 第2講 存在と認識―新しい思想家たち
  • 第3講 存在の根源―「一者」をめぐって
  • 第4講 二元論の展開―サーンキヤ派
  • 第5講 因果論と業論―世界を動かす原理
  • 第6講 現象と存在―シャンカラの思想
  • 第7講 生成と存在―「なる」と「ある」の哲学
  • 第8講 言葉と存在―言葉はブラフマンである
  • 第9講 存在と非存在―言葉と普遍
  • 第10講 超越と存在―ヴァイシェーシカ派とニヤーヤ派
  • あとがき
  • 読書案内
  • 略年表

講義形式で書き進められていて、ヴェーダの正統から、文法学派、仏教、ジャイナ教まで論じられており、時代的にも紀元前7世紀から紀元後15世紀までに及んでいます。インド哲学の歴史をただ時間軸に沿って記述するのではなく、インドの哲人たちが「存在の根源」を如何に理解したか、また「因果」の問題をどのように考えたか、言語をどのようにとらえたか、など、哲学的なトピックを取り上げて、それに沿って著者の見解をお示しになった一冊です。

もちろん初学者にも十分ついて行けるよう、配慮はなされているのですが、インドの固有名詞や様々な概念が散りばめられており、門外漢にはなかなかフォローしづらいところもあります。

しかし個人的には、よく分かる(と思える)ところもありました。たとえば、第3講で語られている「根源的一者」なるものが、現象界の多様な個物とどのような関係にあるかについて、次のような整理があります(本書、p.60)。

  1. 根源的一者から多様な事物が産出される[増殖説]
  2. 根源的一者によって多様な事物が作り出される[創作説]
  3. 根源的一者が変容して多様な事物(実在)が実際に現れてくる[開展(転変)説]
  4. 根源的一者が変容して多様な事物(非実在)が幻影的に現れてくる[仮現説]

「根源的一者」とか「多様な事物」などと言われても、どうも得体が知れないと感ずる方もいらっしゃるかもしれませんが、私には分かりやすく思われたのです(勘違いかも知れませんが)。それは、「”根源的一者”とは、つまり老荘思想でいう”道”のことだな」「”多様な事物”とは、つまり中国の”万物”のことだな」というように、自分自身がある程度知っている中国思想の述語に置き換えて理解することができたからなのでした。

このような理解は、類似を手がかりとした類推に過ぎないので、危険と言えば危険なのですが、何も前提がないよりは分かりやすい、というわけです。

しかし、これだけでうまくゆくはずがありません。第9講「存在と非存在」というタイトルを、私は「”有”と”無”かな?」と早合点してしまったのですが、どうもしっくりときません。読み進めてみると、”非存在”とは、”はっきりと存在すると言えるに至る手前の状態の何か”、というような意味合いであって、中国でいう”無”ではないことが分かりました。そういう意味では、インド思想を中国風に理解する「格義」の限界を思い知らされもしました。

後半部分には、井筒俊彦のインド哲学理解に関する議論もあり、興味深く読みました。井筒の語った内容を、今の学者がさらに活性化させ、どんどん展開してゆく必要があると思っていたところなので、とりわけ印象深く感ぜられました。

それにも関連して「文法学派」の紹介があることなど、とても面白そうなのですが、全貌が十分にはつかめなかったのは残念で、少なくとも第8講・第9講くらいはよく分かるようになりたいと願っています。そのためには私の場合、本書に附せられた「読書案内」を手がかりとして、外堀から埋めてゆく必要がありそうに思われました。

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リビネーションとは何ぞや?


狩野直喜『漢文研究法』(みすず書房、1979年)所収の「経史子概要」という文章を読んでいたところ、「リビネーション」という語に出会いました。

易を説くもの、古来幾百家なるかを知らず。……要するに、易は卜筮の書にして、天道を推して人事を明にするにあり。其の起原多くの野蛮人種に行はる「リビネーション」の類にして、極めて、単純なるものなりしならん。(本書、p.124)

「野蛮人種」云々の偏見についてはいま問わないこととしても、「リビネーション」とは何でしょうか?聞いたことのない言葉です。

色々考えて、やっと思い当たりました、英語のdivinationのことだ、と。占い、予言の類のことです。

答えが分かれば何ということもないのですが、しばらく頭を悩ませたのでした。

EKI

『古代中国の社』


フランス東洋学の泰斗、エドゥアール・シャヴァンヌ(1865-1918)の文章が、菊地章太氏によって最近、平凡社東洋文庫の一冊として訳出されました。『古代中国の社』。

古代中国の社ー土地神信仰成立史
エドゥアール・シャヴァンヌ著 菊地章太訳注
平凡社 東洋文庫 2018年2月
ISBN 9784582808872

「社会」という言葉の中にも残る漢語の「社」。古代中国の土地神をまつる社への信仰を犀利に解明した、フランス中国学の古典的論考。

菊地氏は以前、シャヴァンヌの著作、Le T’ai Chan: Essai de monographie d’un culte chinois (1910)を抄訳されており(邦訳:『泰山ー中国人の信仰』、勉誠出版、2001年)、今回は、その書の付録に相当する部分を訳出されたとのこと。わたくしのような者にとっては、学説史上、重要なこの著作が詳しい訳・詳しい解説とともに日本語で読めるのは、実にありがたいことです。

本文の訳の分量は多くないので、すぐに読み終えてしまいましたが、さすがに読み応えがあります。自分の考えるべきことのヒントも多々ありました。

菊地氏による解説は長大で充実しており、特に、シャヴァンヌの後を承けてなされた「社」に関する我が国の研究史を解説した部分は、わかりやすく、大いに勉強になりました。すでに古典化した研究に関心をお持ちの方に薦めたいと思います。

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『《經解入門》整理與研究』


jingjierumen久しぶりに中国に出かけ、上海社会科学院の司馬朝軍先生(もと武漢大学にお勤めでした)のお目にかかったところ、全三冊からなる、新しいご著書をいただきました。

司马朝军
《〈经解入门〉整理与研究》
武汉大学出版社
2017年4月
ISBN978-7-307-18174-8

『経解入門』は、清朝の名高い儒者である江藩(1761-1831)の著作と伝えられ、光緒十四年(1888)にはじめてその石印本が世に問われたもので、その後、清末・民国時代には、経学の入門書としてよく読まれ、日本でも出版されています(弘文堂東京店、1930年)。

この書物の巻一「古書疑例」の内容が、別の有名な書物、兪樾『古書疑義挙例』の一部と一致した内容を含むことについて、1999年、漆永祥教授が指摘し、当時、漆氏は、後者が前者を剽窃したという一文を公表しましたが、その後、その内容が誤りで、前者『経解入門』は偽書であり、後者『古書疑義挙例』を剽窃したものであるとの指摘が相次いだようです。

本書『《經解入門》整理與研究』は、徹底的に『経解入門』を読み解き、この偽書が江藩の著作ではあり得ず、同書が鴻文書局主人、凌賡颺という清末の人物の手になる編纂物であることを考証し、そのうえで『経解入門』に詳細な注釈を施し、またその資料的来源(というよりも剽窃元)をいちいち突き止めています。

以上が上冊の内容ですが、中冊・下冊には、「国朝治経諸儒」(もともと『経解入門』に見えているもの)という清朝学者のリストについて、伝記資料を整理したものとなっています。

「『経解入門』は偽書ではあるが、それでもその存在価値はある」(前言、p.16)と司馬氏が評価する『経解入門』の注釈書である上冊が有意義であることは間違いありませんが、中冊・下冊もなかなか有益です。

非常に面白いことに、この書物には漆永祥教授の序文が掲げられています。漆氏は、1999年の説が様々に批判されたのを承けて、それを撤回し、反省の意を示す文章をすでに書かれていたそうですが、司馬氏がこの書物を出版するに際し、漆氏に序文の執筆を依頼し、また漆氏もそれを受け入れ、あらためて経緯の説明を潔く行っているのは、学術上の佳話であると言えるかもしれません。錯誤をおかした後のふるまいというものは、大切であると思い知らされました。

『魏晉石刻資料選注』


わたくしが勤務する京都大学人文科学研究所には、かなり多くの中国石刻の拓本が蔵されており、かつて、それらを読む研究班がありました。その成果の一端である『魏晉石刻資料選注』が出版されたのは、もう十数年前のこととなってしまいました。

三國時代の出土文字資料班[編].
魏晉石刻資料選注.
京都大學人文科學研究所, 2005, 292p., (京都大學人文科學研究所研究報告).

この研究班の班長は、人文研東方部の井波陵一氏と冨谷至氏の2名で、わたくしも班員として参加しており、この刊行物の出版に当たっては、井波班長のもと、整理をしたことを懐かしく思い出します。昨年度末に冨谷先生が定年退職され、今年度は井波先生が定年退職なさいます。20年にもわたり、お二人から蒙った学恩には感謝してもしきれません。この本を手にすると、つい感傷的な気分になってしまいます。

魏晋時代の碑や墓誌などを読み、注釈と訓読を付したもので、こういった文体を読んでみたいと思っていらっしゃる方のお役には立つかもしれないと思い、ここに紹介いたします。現在、京都大学のレポジトリ、KURENAIで無料公開されているので、ぜひご利用ください。

『学術書を書く』


最近、京都大学学術出版会の編集者、鈴木哲也氏とお話しする機会があり、2年ほど前に鈴木氏が書かれた『学術書を書く』を読みました。

『学術書を書く』
鈴木哲也・高瀬桃子 著
A5並製・160頁・税込 1,836円
ISBN: 9784876988846
発行年月: 2015/09

京都大学学術出版会では、博士論文をベースにして全面的にリライトした書物を収める叢書、「プリミエ・コレクション」を出版しており、その編集の豊富な経験を基に、本書は書かれています。

博論を書籍化するためばかりでなく、学術的な著作を目指す多くの人の参考になる書物だと感じました。出版点数ばかり増加して、本が読まれなくなっている今の時代、どうやって読者に読ませるか、そのアイディアが満載されている、楽しい一冊です。

同じ領域を研究している数少ない専門家に読ませるためにではなく、「二回り外、三回り外」にいる読者に読ませる。本書の中に繰り返し説かれていることです。著者にとっては難しいことですが、それをしなければ、広く読まれることはないでしょう。大いに感銘を受けました。

コラムや用語集などを充実させ、書名や章節のタイトルにも気を配るように促すなど、思いもしなかったことが指南されており、参考になります。

学術書というわけではありませんが、現在、学術的な内容を含む書物を書こうとしているので、この『学術書を書く』がよい刺戟になりました。

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日本のことは勉強したくない、という考え


齋藤智寛氏「『万葉集』と中国の思想」(『わたしの日本(ニッポン)学び』東北大学出版会、2017年、所収)を読みました。 個人的に、共感する部分が多く、かつての同僚である齋藤氏への敬愛の念が深まりました。

内容も素晴らしかったのですが、「はじめに」のところで特に心をとらえられました。長い引用になりますが、ご紹介させてください。

筆者は日本で生まれ育ち日本の大学に勤務しているのですが、これまでずっと母語や自国の文化に正面から向き合うことを避け続けており、大学で中国思想という専攻を選んだのも一つには日本のことは勉強したくないという思いがあったからです。筆者にとって、前近代の中国知識人がそうしたように儒家や道家の古典をひもとき、今の中国人が子どもの頃にそうしたように中国の児童書……などを読み、そうして習得した中国語で中国やその他海外の研究者らと議論することには、人生をもういちど生き直すような喜びがあります。中国の伝統思想に関心を持つには人それぞれの動機があり、日本人であれば自らの文化の源流を知りたいという欲求から漢文を読むことも大いにあり得るでしょう。でもわたしは、出来ることなら日本人として中国の古典を読みたくはありません。そうでなく、むしろ日本語が読める中国人のような驚きをもって日本の古典を読みたいと願っています。

齋藤氏のごく個人的な思いなのですが、私にも大いに思い当たるところがあります。決して、中国文化に関心を持つ日本人がみなそうあるべきだ、といった話ではありません。ただ、齋藤氏や私はそうだ、というだけです。

そのことは、ごく個人的な思いなので、わざわざ人に言ったり書いたりする必要もないと思って生きてきましたが、齋藤氏がずばり書いてくださったので、こうして、私の思いを代弁するものとして紹介しました。

講演の記録ですが、その内容も立派なものです。文学・宗教・文化といったものへの繊細な目配りがあり、感慨深く読みました。

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中国古典に親しむ

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