紙をたたむこと


南北朝隋唐期における仏教関連資料を集めた、唐の道宣『広弘明集』に、南朝の文豪、謝霊運(385-433)が執筆した「曇隆法師誄」が収められています(『廣弘明集』卷二十三)。謝霊運の知人であった、曇隆という僧侶の死を悼む、有韻の文です。

その作品に、次の一節が見えます。

事寡地閑,尋微探賾。
何句不研,奚疑弗析。
帙舒軸卷,藏拔紙襞
問來答往,俾日餘夕。

(精舎では)仕事は少なく場所はのどかで、微妙な哲理を探究できた。
すべての(経典の)文句を研究し、あらゆる疑いを分析した。
書帙は開かれ書軸は巻かれ、書庫からは本が取り出され紙はたたまれる
質問と返答が繰り返され、夜ふけから朝にまで及ぶこともあった。

謝霊運と曇隆とが、ともに始寧の地(いまの浙江省紹興)に建てた、「石壁精舎」での研鑽の様子を描写したものと考えられます。自信のないところがありますが、一応、拙訳を挙げました。

そのうち、「書庫からは本が取り出され紙はたたまれる」の「紙はたたまれる」は、一体、何を意味するのか。原文は「紙襞」です。ある研究会でこの作品の訳注を担当した時には、一応、以下の資料を挙げて注釈としました。

左思「嬌女詩」(『玉臺新詠』卷二):「上下絃柱際,文史輒卷」。

西晋時代の文人、左思が、自分の娘の聡明さを描いた作品です。「文学や歴史の書物を巻いたりたたんだりする」。

左思や謝霊運の時代、まだ印刷術は発明されておらず、書物は紙に書写され、そして軸に巻かれて製本されました。いわゆる「巻物」です。読者は巻物を広げて読み、読み終われば巻き戻して収納したのです。それゆえ、「卷」という行為の意味はよく分かります。

しかし、「襞」、たたむ、という行為が不可解でした。たたんで収納する、というわけではなさそうです。

最近、吉川忠夫先生・麥谷邦夫先生が中心となってまとめられた、『真誥研究』(京都大学人文科学研究所、2000年)を読んでいたところ、この表現が現れていることに気づきました。

この『真誥』は、南朝における道教の様相を伝える、第一級の資料でありながら、たいへん難読であるため、関係各位の並々ならぬ努力を重ね、その結晶として、ようやく同書の訳注、『真誥研究』が作られました。京都大学人文科学研究所の共同研究班の成果です(なお、私が人文研に赴任する前に完成していたものであり、その研究班に加わるチャンスがなかったことは個人的に残念です)。

以下に、『真誥』に見える「襞」の例を挙げます。

・真妃見吿曰:「欲作一紙文相贈,便因君以筆運我鄙意,當可爾乎」。某答:「奉命」,即襞紙染筆。登口見授,作詩如左。詩曰:……(『真誥研究』p.30)
・某又襞紙染筆。夫人見授詩云:……(『真誥研究』p.30)
・某又襞紙待授。眞妃乃徐徐微言而授曰:……(『真誥研究』p.36)

第一の例を、『真誥研究』では次のように訳します。

真妃はお告げになられた。「一枚の文を書いてお贈りしようと思います。そこであなたに筆で私のつたない気持ちを書き記してほしいのですが、かまいませんか」。某(それがし)は「かしこまりました」と答えると、すぐさま紙を折りたたみ、筆に墨を含ませた。(そこで真妃は)すぐさま口授され、次のごとく詩を作られた。その詩にいう。……

東晋時代に生きた楊羲という人物のもとに、九華真妃なる女性の真人が降臨し、詩を書きとらせる場面です。これは(少なくとも当人たちの意識の中では)フィクションではなく、リアルな話です。真人たちは、なぜか自分では字を書かず(その理由も真人の口を通じて語られ、『真誥』に書き留められているのですが)、降臨して接触する俗人に書きとらせるのです。

かくして楊羲は、真人の言葉を書き留めるために、「紙を折りたたみ、筆に墨を含ませた」というわけです。すなわち、この時代において、紙を折りたたむ行為は、メモを書くための準備だったわけです。

話をはじめにもどしますと、謝霊運の「曇隆法師誄」に見えた「紙襞」という行為も、おそらくは「メモや草稿を書くための紙が折りたたまれる」ということだったに違いありません。私の疑問は、ようやく解決しました。

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王粲の学んだ『尚書』


段玉裁『古文尚書撰異』を大学院生のX君と一緒に読んでいます。

漢代以来、『尚書』には「古文」と「今文」という、大きく分けて二種類の伝承があったとされており、両者の弁別は、経学史上の大きなテーマです。本文自体も解釈も、かなり異なっていた、と考える人が多いようです。

段玉裁の『古文尚書撰異』は、その今古文の弁別において、ひとつの結論を示した著作ですが、もちろんそう簡単に、古文テクストは○○、今文テクストは××と、明快な答えが出るわけではありません。

たとえば、『尚書』堯典の「光被四表」について、段玉裁は古文が「被四表」、今文が「被四表」だ、と言っていますが、皮錫瑞『今文尚書考証』(中華書局、1989年、p.9)は、「(段氏は)今文にも「光」と作るものがあったことに気づいていないのだろう」と段説を否定しています。

『尚書』の言葉は、漢代以降、文章を書く際に多く引用されたので、古人の書いた文学作品は、『尚書』の今古文を弁別する時の考証に利用されます。漢代の文人(ここでは文を書く人、程度の意味です)が古文・今文、どちらの『尚書』を学んだのか、段玉裁は、人ごとに以下のように腑分けしています。

今文派:漢の歴代皇帝・伏生・欧陽氏・夏侯氏・司馬遷・董仲舒・王褒・劉向・谷永・孔光・王舜・李尋・楊雄・班固・梁統・楊賜・蔡邕・趙岐・何休・王充・劉珍

古文派:孔安国・劉歆・杜林・衛宏・徐巡・馬融・鄭玄・許慎・応劭・徐幹・韋昭・王粲・虞翻

段玉裁が以上のように分けた理由は、ほぼ推測可能なのですが、X君が「王粲を古文派とする理由が分からない」と言うので、調べてみました。以下、田漢雲・秦躍宇『漢晉高平王氏家族文化研究』(中華書局、2013年)の第5章第1節「王粲經史之學蠡測」を手がかりにしています。

王粲(177-217)は、後漢末期の代表的文人である「建安七子」の一人で、劉勰『文心雕龍』(才略篇)では「七子之冠冕」とまで称された文豪です。その著作は、兪紹初輯校『建安七子集』(中華書局、1989年)の巻三に集められています。

さて、王粲の作品における『尚書』を踏まえて表現として、「遊海賦」の次の部分があります。

含精純之至道,將輕舉而高厲。遊余心以廣觀兮,且徬徉乎西裔。乘菌桂之方舟,浮大江而遙逝。翼驚風以長驅,集會稽而一睨。登陰隅以東望,覽滄海之體勢。吐星出日,天與水際。其深不測,其廣無臬。尋之冥地,不見涯洩。章亥所不極,盧敖所不屆。洪洪洋洋,誠不可度也。處嵎夷之正位兮,同色號於穹蒼。苞納污之弘量,正宗廟之紀綱。總眾流而臣下,為百谷之君王。(『建安七子集』、pp.94-96)

海をたたえた賦ですが、そのうち、「處嵎夷之正位兮」の句が、『尚書』堯典の「分命羲仲,宅嵎夷,曰暘谷(一応の訳を示します:堯は羲仲に命じて、嵎夷の地におらせ、そこを暘谷と呼んだ)」に拠ったものです。「嵎夷」は東方の地で、とすると、「遊海賦」の「處嵎夷之正位兮」は、「海は、東方の地である嵎夷の正しい方角に位置し」と解釈できそうです。

段玉裁によると、古文は「堣夷」と作り、今文は「禺銕」と作った、とのこと(『撰異』巻一)。とすると、少なくともこの部分については、王粲の用字「嵎夷」は古文「堣夷」に近いとは言えそうです(段玉裁は証拠としていませんが)。

ただし、上に引いた「遊海賦」の本文は『初学記』に依拠しているので、非常に厳密に言えば、『初学記』が編集されたり刊刻されたりした時点で、王粲の用字が本来どうであったかに関わらず、現行本の『尚書』に合わせて「遊海賦」の文字を変更した可能性は、あります。

また、作品の中に含まれる『尚書』由来の文言とは別の観点から見ると、王粲には、『尚書』の注釈がありました。『隋書』経籍志に「(梁有)『尚書釋問』四卷,魏侍中王粲撰」とあり、『旧唐書』経籍志に「『尚書釋問』四卷,鄭玄注。王粲問,田瓊、韓益正」とあるものです。この書は失われており、内容は分かりませんが、鄭玄注に異を唱えたもののようです。また、『旧唐書』元行沖伝に、元行沖の「釈疑」という文章を載せますが、そこにも以下のように見えています。

卜商疑聖,納誚於曾輿;木賜近賢,貽嗤於武叔。自此之後,唯推鄭公。王粲稱伊、洛已東,淮、漢之北,一人而已,莫不宗焉。咸云先儒多闕,鄭氏道備,粲竊嗟怪,因求其學。得『尚書』注,退而思之,以盡其意,意皆盡矣。所疑之者,猶未喻焉。凡有兩卷,列於其集。

目録に載るものと巻数が違います。『隋書』経籍志などに載っているのが四巻で、王粲の『尚書』解釈がその文集に含まれていたと元行沖がいうのが二巻です。

さらに、王粲の別集に鄭玄『尚書』注を駁した文が含まれていたことに言及する記事が、古く『顔氏家訓』勉学篇に見えていることは見逃せないでしょう。

俗間儒士,不渉群書,經緯之外,義䟽而已。吾初入鄴,與博陵崔文彦交遊,嘗說『王粲集』中難鄭玄『尚書』事。崔轉為諸儒道之,始將發口,懸見排蹙,云:文集只有詩賦銘誄,豈當論經書事乎?且先儒之中,未聞有王粲也。崔笑而退,竟不以『粲集』示之。(『顔氏家訓集解』、中華書局、1993年、pp.183-184)

王粲の鄭玄『尚書』注批判が、『王粲集』に入っていた、と顔之推は言っているわけですから、これはおそらく元行沖の見たものと大体同じものでしょう。つまり、『尚書釈問』四巻の単行本ではなく、『王粲集』所収のものというわけです。

かくして、王粲が『尚書』について一家言を持っていたことが分かります。しかし残念ながら、『顔氏家訓』や目録などの資料に見える王粲の『尚書』注釈が、一体、古文派に属するものなのか、今文派に属するものなのかは、当該の書物が伝わっていない以上、判然としません。

当面の疑問、つまり、「なぜ段玉裁が王粲を古文派とみなしたのか」、という疑問については、「遊海賦」の例を挙げてすませておきたいと思います。

もう一点、これは『尚書』の本文には関わらないのですが、王粲「七釈」に「先天弗違,稽若古則」の句があり(『建安七子集』、p.121)、これは『尚書』堯典「稽古」に対する馬融の注が「順考古道」と軌を一にすることを、『漢晉高平王氏家族文化研究』(p.270)が指摘していると申し添えておきます。段玉裁は、馬融が古文の『尚書』を学んだと考えているので、これも王粲が古文派であるとする段氏の想定と、(段氏の前提を承認する限りにおいては)矛盾しないと言えましょう。

「東豊書店の閉店を惜しむ」


東京の代々木の書店、東豊書店が、この6月末をもって店を閉めました。台湾出身の簡木桂氏が、1960年代に始められた書店で、台湾書・中国書を売っていました。学生時代の1990年代によく通った者として、本当に寂しく思っています。

閉店を前にして、川上哲正氏「東豊書店の閉店を惜しむ」(『中国研究月報』、2019年5月号)という一文が公表されました。東豊書店のこと、簡木桂氏のことが、丁寧に綴られており、私自身、知らなかったことも多く、理解を深めることができました。ありがたいことです。

簡木桂氏の幼少時代について、川上氏は次のように書かれています。

簡木桂さんは1929年に日本統治下の台北、現在の新北市板橋のお生まれであるから今年90歳になる。簡さんの青少年時代のことをお聞きするだけで台湾がいかに激動の時代であったかを知ることが出来る。簡さんは1942年に日本の植民地であった台湾の国民学校を卒業後、台湾専売局の製樽工場に就職し、そこで四斗樽をつくりながら、1943年から夜間の開南工業戦士養成所土木科に通った。この学校は、いわば中学校に相当する。1945年夏に戦争は終わったが、ラジオから玉音放送を聞いた記憶はなかったそうで、大人から日本敗戦の報を知ったという。……。

私も同じお話を簡さんからうかがいました。開南工業戦士養成講習会という学校のことなど。台湾の政治家、許新枝(1928-)という方は、この開南工業学校の生徒で、簡さんとは同学の関係であり(簡さんは「彼は正規学生、自分は夜間」とおっしゃっていましたが)、その縁で、許氏が『艱難奮鬥的歲月―許新枝回憶錄』(國史館、2013年)を出版された際、それを一冊、簡さんに贈られたそうです。

簡さんはその本を手にして、懐かしそうに当時の思い出を語っていらっしゃいました。「学校に通うため、仕事を早めに切り上げて、板橋から台北まで蒸気機関車で行くんだが、デッキにつかまって乗っているから、煤だらけになった」とか、「台北駅から、台北第二中学―いまの成功高中―の裏のプールを横目に見ながら、学校に通った」とか、また「あの学校で、はじめて数学や物理学を習った。土木の勉強をしたんだよ」、といった類の昔話を、聞かせてもらいました。

お話に耳を傾けていると、まるで当時の台北にタイムスリップして、少年時代の簡さんと一緒にいるような、妙な気がしました。忘れてしまわないように、ここに書き留めておきます。

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『目加田誠「北平日記」』


目加田誠氏(1904-1994)は、『詩経』『楚辞』研究をはじめ、中国文学の分野で偉大な業績を挙げた学者です。その日記が、九州大学中国文学研究室の皆さまの手により、見事に整理公刊されました。『目加田誠「北平日記」—一九三〇年代北京の学術交流』(中国書店、2019年)。

北京が「北平」と呼ばれていた時期、1933年10月から1935年3月まで中国留学なさった目加田氏の日記です。全8冊で、現在、福岡県大野城市の目加田文庫に所蔵されており、静永健氏の本書「はじめに」によると、2012年夏に文庫の整理中に見出され、整理され、出版されるはこびとなったものとのこと。

本文が非常に興味深く重要な史料であるのはもちろんですが、周到に整理されて詳しい注もつけられ、また、当時、目加田氏が北平で撮った写真などが加えられ、貴重な一冊となっています。

なかでも私の興味をひいたのが、1934年11月から12月にかけて、目加田氏を含む日本人の学者たちが、かの楊樹達(1885-1956)から『説文解字』を習ったことに関する記事です。以下、『目加田誠「北平日記」』から引用します。

  • 十一月二日 商務印書館にて四部叢刊影印藤花榭本『説文解字』、直隷にて掃葉山房影印『説文』段注を買ふ。……『説文』について『四庫提要』其他を読みて調べ、段注を二頁よむ。近日『説文』に関して頓に眼開きたる心地して嬉し。
  • 十一月四日(日) 午前中、楊樹達氏の宅にて『説文』の話をきく(瀧沢、竹田等の諸君と毎日曜聴講の約束)。
  • 十一月十一日(日) 午前中、楊氏の『説文』に関する講義、今回より三条胡同同学会に席を借りて話をきく。
  • 十一月十八日(日) 午前中、同学会にて楊氏『説文』。
  • 十一月二十五日(日) けふは楊氏所用にて『説文』休み。
  • 十二月二日(日) 午前中、同学会にて楊氏の『説文』をきき、帰途、中根による。
  • 十二月九日(日) 十時より同学会にて楊氏の講義。
  • 十二月十六日(日) 目覚むる事遅く楊氏の講義に行かず、宅にて論文をかく。
  • 十二月十九日 北京公寓にゆき、瀧沢氏に楊氏の御礼八元を渡す。
  • 十二月二十三日(日) 朝の中、同学会に楊氏『説文』講義。
  • 十二月三十日 粉雪降る。楊氏最後の講義、午後二時より。了りて記念撮影。其後、一同にて雪の長安街を歩き、新陸春に到り、ここにて宴会。

かくして、この講義が、1934年11月4日に始まり、ほぼ毎週日曜日に開催され、12月30日に終わったことが分かります。

嬉しいことに、この時期については、楊樹達の日記が残っており、対照することができます(以前にもご紹介した、『積微翁回憶録』、上海古籍出版社、1986年)。

  • 十月三十日 日本人武田熙、瀧澤俊亮來,請於星期日講授《說文》,允之。
  • 十二月三十日 授日本人《說文》,今訖業。受業者共十四人,合攝一紀年影,並宴余以誌謝。

楊樹達の日記は、毎日書かれていないので、『説文』講義についての言及は少ないのですが、確かに記載されています。

面白いことに、1934年12月30日に撮られたという写真が、『目加田誠「北平日記」』の216頁に載っているのです!目加田氏のアルバムに夾まれていたものとのこと。ここにも転載させていただきます。

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繁體字?简化字?


現代において中国文を表記する場合、「繁体字」と呼ばれるシステムと、「簡化字(簡体字とも)」と呼ばれるシステムがあります。中国の出版物は、そのどちらかによっています。

たとえば、『孟子』の冒頭部分をそれぞれのシステムに従って書くと、次のようになります。

【繁体字】孟子見梁惠王。王曰:「叟不遠千里而來,亦將有以利吾國乎?」

【簡化字】孟子见梁惠王。王曰:「叟不远千里而来,亦将有以利吾国乎?」

日本で中国古典を研究する人の多くが、「縦書き、繁体字」の出版物を好む傾向にあるようです。私自身はそれほどこだわりませんが。

さて、今日お示しする唐長孺『魏晉南北朝史論叢』(生活・讀書・新知三聯書店、1955年。1977年第4次印刷)は、ちょっと変わっています。繁体字のページと簡化字のページとが混在しているところがあるのです。写真は、見開きにすると右側が簡化字(p.410)、左側が繁体字(p.411)になっています。

ほとんどのページが繁体字ですが、一部だけ簡化字が混じっているのです。どのような経緯でこうなってしまったのか。詳しいことは分かりませんが、面白く感じました。

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七爻と十一爻


友人が顧炎武『日知録』を読んでいるらしく、その巻七に見える「七爻」「十一爻」とは何か、という質問を受けました。

今人但以《繫辭》為夫子言性與天道之書。愚嘗三復其文,如「鳴鶴在陰」,七爻「自天祐之」(大有、上九語)一爻。「憧憧往來」,十一爻「履德之基」(繋辞下語)也。九卦所以教人學《易》者,無不在於言行之間矣。故曰:「初率其辭,而揆其方,既有典常,茍非其人,道不虛行」(繋辞下語)。

即答できませんでしたので、調べてみました。メモ代わりに書いておきます。

答えを言えば、「七爻」とは繋辞上伝の第八章に引用されている七つの爻のことで、「十一爻」とは繋辞下伝の第五章に引用されている十一の爻のことです(章は、『周易本義』に拠ります)。

「七爻」

  1. 「鳴鶴在陰,其子和之,我有好爵,吾與爾靡之」。(中孚、九二)
  2. 「同人,先號咷而後笑」。(同人、九五)
  3. 「初六,藉用白茅,无咎」。(大過、初六)
  4. 「勞謙君子,有終吉」。(謙、九三)
  5. 「亢龍有悔」。(乾、上九)
  6. 「不出戶庭,无咎」。(節、初九)
  7. 「負且乘,致寇至,盜之招也」。(解、六三)

「十一爻」

  1. 「憧憧往來,朋從爾思」。(咸、九四)
  2. 「困于石,據于蒺蔾,入于其宮,不見其妻,凶」。(困、六三)
  3. 「公用射隼,于高墉之上,獲之无不利」。(解、上六)
  4. 「履校滅趾,无咎」。(噬嗑、初九)
  5. 「何校滅耳,凶」。(噬嗑、上九)
  6. 「其亡其亡,繫于苞桑」。(否、九五)
  7. 「鼎折足,覆公餗,其形渥,凶』。(鼎、九四)
  8. 「介于石,不終日,貞吉」。(豫、六二)
  9. 「不遠復,无祇悔,元吉」。(復、初九)
  10. 「三人行,則損一人;一人行,則得其友」。(損、六三)
  11. 「莫益之,或擊之,立心勿恆,凶」。(益、上九)

ちなみに王応麟『困学紀聞』巻一に以下の文があり、「七爻」が中孚卦の爻から始まる理由、「十一爻」が咸卦の爻から始まる理由につき、象数易的な説明を与えています。

上繫七爻起,於《中孚》「鳴鶴在陰」;下繫十一爻,起於《咸》「憧憧往來」。卦氣圖:自《復》至《咸》,八十八陽,九十二陰。自《姤》至《中孚》八十八陰,九十二陽。《咸》至《姤》,凡六日七分;《中孚》至《復》,亦六日七分。陰陽自然之數也。

王氏の解釈の詳細はおくとして、「七爻」「十一爻」に何らかの意味を求める思想がありました。王氏の説以外にも、さまざまな解釈があるようです。

『易』には384の爻がありますが、そのうちの18爻のみが特に繋辞伝に選ばれており、それに対して「子(伝統的には孔子とみなす説があります)」のコメントがついているのは、注目を浴びる現象なので、そのような「探究」が生まれたものでしょうか。

股の声符


『説文解字』五篇下「夂」部に、「夃」という字が載せられています。段玉裁の注とともに、「夃」の説解をお示しします。青で示したのが『説文解字』の本文、亀甲括弧の中が段注です。

夃,秦人巿買多得爲夃〔爲,當作「謂之」二字。此秦人語也,《方言》不載〕。
从乃,从夂,益至也〔說从乃夂之意。乃夂者,徐徐而益至也。古乎切,五部〕。
《詩》曰:「我夃酌彼金罍。」〔《周南》文。今《毛詩》作「姑酌」。傳曰:「姑,且也。」許所據者,《毛詩》古本。今作「姑」者、後人以今字易之也。如《尙書》壁中古文,本作「無有作𡚽」、本作「黎民俎飢」之類。夃者,姑之假借字。如𡚽、俎者,好、阻之假借字。《玉篇》曰:「夃,今作沽。」引《論語》「求善價而夃諸」,未審其所本之《論語》〕。(鳳凰出版社版、p.417)

これを見ると、「夃」が「姑」の通仮として用いられていることが分かります。音は段玉裁の五部、江有誥の魚部です。なお、「夃」は「盈」字の上半と同じです。

私のブログの記事を読んで、この「夃」字を紹介してくださったのが、人文研の同僚、白須裕之先生です。白須先生は、「夃」字が「股」字の初文であり、「股」の右半は、「殳」ではなく「夃」なのではないか、それが後に許慎(もしくはそれ以前)の段階で「殳」と混同されたのではないか、とお考えになりました。

あわせて、「簡帛網」にある論文、趙平安氏「關於夃的形義來源」(發布時間:2007-01-23)を紹介してくださいました。

この論文によると、望山楚簡1.55に見える羊偏の字は「羖」であり、郭店楚簡《六德》16に見える肉(月?)偏の字は「股」で、いずれも「夃」を諧声符として有するようです。「夃」の字形については、「人形」と輪のような印を組み合わせたもの、と、趙氏は解しています。さらに趙氏は、甲骨文を調べて、この「夃」というのは「股」の本字である(「所谓夃其实就是股的本字」)と言っています。

この議論が正しいとすれば、やはり「羖」「股」は、「殳」ではなく、「夃」を諧声符とする字、ということとなり、「羖・股は、魚部(段玉裁のいう五部)である」とする江有誥のこだわりが生きてきます。むしろ、「羖・股も矦部」とする王念孫の説は、覆ることになります。

白須先生のお蔭で、「殳」を声符に持つと現在普通にみなされている諸字が、実は二つの來源に分けられることを知りました。江有誥にも伝えられるものなら伝えたい気分です。

股肱
郭店楚簡『六徳』の「股肱」二字

江有誥は納得したのだろうか?


江有誥(?-1851)『音學十書』の「古韵總論」に、一度は書かれたものの、後に削られた部分が六条あることを先日紹介し、また、その第一条を引用しました。

段氏、孔氏皆以殳聲入矦部。愚按:羖、股字皆以殳聲,則殳乃魚部聲也。孔氏云:「从殳之字,當以投為正」。然《說文》投从手殳,無聲字。蓋亦如祋字从示殳之義。至吺字則云「投省聲」,益可見投與殳聲有分矣。故今以殳聲入魚部,而以《伯兮》為通韵。

段玉裁(1735-1815)・孔広森(1751-1786)といった学者たちは、声符「殳」が矦部の音を有すると考えるものの、江氏はそれに反対し、「殳」は魚部の音を持つ、と主張したのです(結局、王念孫の批判を受けて撤回してしまうのですが)。

この江氏の考えに対して王念孫(1744-1832)が批判を加えて江氏に手紙を送っていることを、神田喜一郎「江晉三先生年譜」が指摘しており、王氏の文を引用しているので、ここに転載します(『神田喜一郎全集』第1卷、210頁。標点は私が施しました)。

魚、矦二部最相近。故股、羖二字從殳聲。他部之似此者不少矣。《說文》字,解引《詩》「靜女其𡚾」,今《詩》作「姝」,殳聲、朱聲皆在矦部也。《繫傳》投字本從殳聲。今《說文》無「聲」字者,大徐不知古音而削之耳。《繫傳》吺字亦從殳聲。今作「投省聲」者,亦大徐所改。茲改殳聲入魚部,而反以「伯也執殳」為通韵,似未妥。

『繫傳』とは徐鍇(小徐)『説文解字繫傳』のこと。「大徐」とは徐鍇の兄の徐鉉のことで、彼が校刊した『説文解字』を指しています。王念孫は、この部分について、小徐を高く、大徐を低く評価しており、小徐に従えば、殳・投・𡚾・吺、すべて矦部に属すると考えて問題ない、そして股・羖も同じ矦部だ、という見解です。

しかしながら、「股」「羖」二字について言うと、これらは段玉裁も五部(江氏の魚部)であることを認めているのです(『説文解字注』四下、「股」字注に「按:殳字古音在四部,股、羖字古音在五部。見於《詩》者如此」と言っています)。この点が解決されていない以上、王念孫の反駁は不十分です。江有誥も、きっと納得できなかったはずです。「股」「羖」について、何ら新たな知見が加えられていないのですから。

ただ、いくら残念で惜しかったにせよ、結局、江氏はこの条を削除しました。やはり証拠不十分だと認識せざるを得なかったのでしょう。我々の眼にする空白数行は、その無念の現れのようにも見えてきます。

「江晉三先生年譜」


数日前、「数行の空白」と題して、上中下に分けて記事を書きました。ところが、それをお読みくださった藤田吉秋様からコメントを頂戴し、この内容はすでに神田喜一郎先生(1897-1984)の「江晉三先生年譜」に詳述されているとのご指摘をいただきまして、さっそく確認したところ、まさにその通りで、大いに恥じ入っております。

初出は『支那學』第10卷第1號(1940)、後に同氏『東洋學説林』(弘文堂書房、1948年)所収、さらに『神田喜一郎全集』第1卷(同朋舎、1983年)所収です。

その「道光元年辛巳」の項に以下の様にあります。

(王念孫は)古韵總論中の疑問數條を舉げて函に附して先生〔引用者:江有誥を指す〕に致せり。文は東方文化研究所所蔵の鈔本「高郵王氏父子論韵文稿」に「簽江晉三古韵總論四條」と題して載せられたり。……

いま現行の「江氏音學十書」を見るに、この空白になれる個所の原文を全部鈔補しあり。それと前記の王念孫が「簽江晉三古韵總論四條」にして着せる所とを彼此對照するに、その王念孫の注意により刓去せるものなること明かにして、古韵研究上發明する所尠からず。(弘文堂版『東洋學説林』、pp.209-210)

さらに神田先生は、王念孫の手紙と削られた部分を逐一比較なさっています。私は先日、「誰かに指摘されたか、あるいは自分で問題があることに気づき、削除したものではないのでしょうか」と書きましたが(「数行の空白(下)」)、それが王念孫の指摘によるものであったことが、完全に理解されました。

これは、当然、読んでおくべき重要な先行研究でした。見落としていたことを、まことに情けなく思っております。

なお『東洋學説林』の「追記」として、「この年譜は、わたくしが臺北大學で「清朝に於ける古典研究の發達」と題する講義を試みた際、その一部として清朝古韻學史の一斑を説くに當つて、自ら備忘のために手記しておいたものを補訂したもの」(p.232)とあります。神田先生の学恩、そして藤田様のご恩に感謝いたします。

数行の空白(下)


江有誥(?-1851)「古韵總論」(『音學十書』巻首)には、二十五行の空白がありますが、その内容は複数の本の書き入れによって補うことができることを、昨日述べました。しかし、「なぜ空白になってしまったのか?」「書き入れをした人々は、何によってそれを補い得たのか?」という疑問については、まだ答えていませんでした。

証拠のない話で恐縮ですが、私は以下のように推測します。もともと、江有誥は、自分の考えを「古韵總論」に書いて、それを原刻本にも彫ったものの、後に自信が持てなくなった部分につき、二十五行六条分、版から削り取った、だから空白のままの印本が複数伝えられている、と。

昨日、お示しした第一条ですが、江氏のその説は不徹底なものでした。

・第一に、『詩經韵讀』卷一、衛風「伯兮」詩の部分で、江氏は「伯也執殳,為王前驅」の「殳」「驅」の押韻(矦部)を認めており、「總論」(補筆部分)に「以《伯兮》為通韵」というのと一致しません。

・第二に、江氏『諧聲表』の矦部に「𠘧(市朱切、蜀平聲、殳從此聲)」とあり、「𠘧」「殳」ともに矦部と考えたように見え、「總論」(補筆部分)に「殳」が魚部だとする主張、ならびに『諧聲表』魚部に「殳」が見えることと矛盾します。

第一条に見えたこの説には不備があり、誰かに指摘されたか、あるいは自分で問題があることに気づき、削除したものではないのでしょうか。

また、昨日の写真に示した第二条では、『詩經』豳風「鴟鴞」の詩は、現行本で 「鴟鴞鴟鴞,既取我子,無毀我室」となっているものの、このままでは韻を踏まないと言って、もとの詩は「鴞鴟鴞,既取我子,無毀我」であった可能性を指摘しています。江氏の言うとおりであれば、「鴟」「室」が脂部で押韻するのですが、如何せん、タイトルが「鴟鴞」なのですから、これが伝写の誤りであるというのは武断です。『詩經韵讀』卷一の該当箇所でも、さすがにそうは主張していません。筆がすべったのではないでしょうか。

ほかの部分(第三条から第六条)については、詳しく検討していませんが、やはり少し過激な説があるようです。そういうわけで、私はこれらの条について、もともと原刻本には刻まれたものの、後に著者の判断で削り落とされたものと推測します。

では、第二の疑問「書き入れをした人々は、何によってそれを補い得たのか?」をどう考えるか、というと、二十五行分が削り落とされる前に印刷された、初期の印本が存在したのではないか、そして、人文研本や倉石氏は、その内容に基づいて補筆をおこなったのではないか、と私は想像するのです。ただし、そういった初期の印本が現存するのかどうか、今のところ分かりません。

つまりこれは根拠がないことですが、そう考えるのが比較的、妥当ではないかと思います。ほかの可能性としては、「誰かが無から有を生み出して内容を偽作し、それに欺かれて倉石氏など後の人が補筆した」といったことも考えられますが、その想像はさらに無根拠であるように思います。

なお、倉石氏の補筆は、人文研蔵本に依拠したものである可能性はあるように思います(これも単なる想像ですが)。

以上のような推測で、一応、私は満足しておきたいと思います。(完) 数行の空白(下) の続きを読む

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