蘭子とは


『列子』説符篇に「宋有蘭子者,以技干宋元」とあり、「蘭子」という語が見えています。何のことでしょうか。

小林勝人氏は、この一文、次のように訳しています。

 宋の国に蘭子と呼ばれる流れ者の曲芸師がいて、その曲芸を宋の元君に売り込みに行った(『列子』下冊、岩波文庫、1987年、p.188)。 

また、『漢語大詞典』では「蘭子」の一語を「技を以て妄りに游ぶ者なり。即ち江湖を走る人を指す。蘭は「闌」に通じ、妄なり」と説明しています。小林氏の解釈と似た方向です。殷敬順が『列子釋文』を書いて「『史記』無符傳出入謂之闌。此蘭子,謂以技妄遊(『史記』に符傳無くして出入するを之(これ)闌と謂う。此の蘭子、技を以て妄りに遊ぶを謂う)」といいましたが、小林説、『漢語大詞典』説とも、これに影響されたものでしょうか。

一方、『説文解字』十二篇上、門部に、「𨷻,妄入宮掖也。从門䜌聲。讀若闌。(𨷻、妄りに宮掖に入る也。門に从(したが)い䜌の聲。讀みて闌の若(ごと)し)」とあります(なお段玉裁注本は「掖」を「亦」に作る)。そして段玉裁は次のように言います。

『漢書』以“闌”爲“𨷻”字之叚借。成帝紀:「闌入尚方掖門」。應劭曰:「無符籍妄入宮曰闌」。又或作“蘭”。『列子』:「宋有蘭子」。張湛注曰:「凡物不知生之主曰蘭」。殷敬順曰:「『史記』無符傳出入謂之闌。此蘭子,謂以技妄遊」。

『列子』に出てくる「蘭」子は、「𨷻」子の假借字だ、ということでしょう。なお張湛注の本文は、世徳堂本に基づき「凡人物不知生出者謂之蘭也」とするのが正しいというのが、王叔岷の説です(『列子補正』台聯國風出版社、1975年、p.390)。

「𨷻」(ひとまず『説文』に依拠して、「𨷻」を本字、「闌」「蘭」を假借字とみなして話を先に進めます)の字義は、「(宮門や関所などを)許可なく通過する」、ということにな

lanwangりそうです。そうだとすると、『列子』にいう「宋有蘭子者」とは、おそらく、「外国から勝手に亡命して宋に来ている人」、ということでしょう。芸人がどうのということは関係ありません。張湛が「凡そ人物の生出を知らざる者、之を蘭と謂う也」とするのは、正解に近いと思います(その土地の出身者でないから、出生地が分からないということ)。

ただし、『史記』や『漢書』には「闌入」「闌出」などの語彙が見えていますが、「𨷻」を用いた例はないようです。また、睡虎地秦簡『法律答問』48に「告人曰邦亡,未出徼闌亡,告不審,論可殹」とあるように、秦代の簡牘に書かれた法制史料には「闌亡」の語がよく見えていますが(右側の写真は『嶽麓書院藏秦簡』4から)、こちらも「𨷻」を用いてはいません。「𨷻」がその本字であるというのが、『説文』以外の資料によって裏付けられないのは残念です。

中国古代のヨイトマケ


「邪許」という漢語を辞書で引くと、「労働時に多くの人が一斉に力を出す時に発するかけ声。現代中国語でいう「號子聲」」とあります(『漢語大詞典』)。古書の用例として、『大詞典』には以下の文を挙げます。

『淮南子』道應訓:「今夫舉大木者,前呼邪許,後亦應之,此舉重勸力之歌也」。

『呂氏春秋』淫辭:「前乎輿謣」高誘注:「輿謣或作邪謣。前人倡,後人和,舉重勸力之歌聲也」。

重いものを大勢の人で持ちあげる時、リーダーが「邪許!」(もしくは「輿謣!」「邪謣!」)と発声すると、他の作業者も同じく声を合わせたようです。なお『文子』微明篇には、上記の『呂氏春秋』『淮南子』と似た話を載せます。

老子曰:「今夫挽車者,前呼邪軤,後亦應之,此挽車勸力之歌也」。

上古音でいうと、邪・許・輿・謣・軤、すべて魚部に属する音で、主母音*aを推定する学者が多いようです。

これに関連するらしいのが、『莊子』齊物論に見える風の音の描写、「前者唱而隨者唱」であり、「于」「喁」が「邪許」に相当しているようで、『經典釋文』に引く李頤の説に「于、喁,聲之相和」と見えています(この「聲之相和」という表現は、『老子』第二章の「音聲相和」をもじった表現です)。王叔岷『莊子校詮』(pp.46-47)もこれに同意して、「于喁」をヨイトマケと考え、上記『呂氏春秋』等の例を挙げています。

問題は、「于」「喁」の上古音で、「于」は魚部に属するものの、他方の「喁」は侯部(主母音*uか*oを推定する学者が多い)という別の部に属していることです。互いに同部に属していれば、かけ声として理解しやすいのですが、少し引っかかるところです。

前漢時代の押韻例を見ると、魚部と侯部はしばしば押韻しており、羅常培・周祖謨『漢魏晉南北朝韻部演變研究』第一分冊では、前漢時代、魚部と侯部が合流していたと考えているようです。この羅常培・周祖謨説については、邵榮芬「古韻魚侯兩部在前漢時期的分合」(『邵榮芬音韻學論集』首都師範大學出版社、1997年)などに批判が見えますが、前漢時代においては魚部と侯部とが韻文の押韻に確かに見えるという事実は動かないようです。

また『春秋左氏傳』宣公十五年に見える諺、「高下在心,川澤納。山藪藏疾,瑾瑜匿。國君含,天之道也」というのが、「汙」(魚部)、「瑕」(魚部)、「垢」(侯部)で押韻しているとすれば、先秦時代から魚部と侯部が近いと感じられていた証拠になります。

そうであれば、『莊子』にいう「前者唱于而隨者唱喁」の「于」と「喁」も、おそらく「于喁!」という疊韻語のかけ声、ヨイトマケだと考えてもよいように思いますが、如何でしょうか。

訓読すれば「前者は于と唱え隨者は喁と唱う」という表現ですが、前者も後者も「于喁!」と発声したわけで、擬人法を用いて風の音をそう表現したのでしょう。

こういう庶民のかけ声のようなものが残っているのが、道家文献ーおよび道家の影響を受けた『淮南子』などの文献ーの楽しいところです。それが道家者流のユーモアを伝えているのです。

李楨という学者


郭慶藩『莊子集釋』(光緒二十年1894序刊)と王先謙『莊子集解』(宣統元年1909刊)の二書は、今なお『莊子』研究の基礎とされていますが、この二種の注釈には、李楨という人の学説がしばしば引用されます。

はて、どんな人だろうかと思っても、あまり手がかりがなく、兪樾(1821-1907)の説を踏まえているところがあるので、そこから彼が生きた時代がおおよそ分かるという程度でした。

そこで調べてみると、王先謙『漢書補注』の編輯作業に関わった学者のリスト、「同時參訂姓氏」の中に、その李楨の名が見えていました。郭嵩燾、朱一新、李慈銘、繆荃孫、沈曾植、王闓運、葉德輝、皮錫瑞、蘇輿といった名人に並び、「李楨,字佐周,湖南善化人。附貢生」とあるのです。

王先謙(1842-1917)は郭慶藩(1844-1896)『莊子集釋』のために序文を書いていて、また郭慶藩は郭嵩燾(1818-1891)の甥に当たるという関係で、みな湖南省の出身者です。『漢書補注』「同時參訂姓氏」に列記される諸氏は、一見して湖南出身者が多く、そこに同じく湖南善化出身の李楨がいるわけですから、一応、王先謙と地縁的つながりのある人物と想像することができましょう。

その李楨には、『畹蘭齋文集』四巻という著作があり、『清代詩文集彙編』(上海古籍出版社)というシリーズに収録されています。その書物に、王先謙の序文(光緒十八年1892)が冠されているので、その一部を引用します。

李君佐周,長余一歲,自幼同學,相愛好,稍長,各以飢驅出走,十數年不相聞,而特聞其古文之學冠絕時輩。壬午歲,余歸相見長沙,各出所業相質,情誼視疇昔逾密。再歸,又加密焉。……甫三十,絕意進取,竟以歲貢生老,人咸惜之,而佐周夷然不屑。讀其文,可以知其自命矣。光緒壬辰秋八月,長沙愚弟王先謙謹敘。

李楨と王先謙との交友関係がよく分かりますし、「長余一歲」と言っているので、李楨の生年が道光二十一年(1841)であることも確認できます。

setsumonitsubunbenshoまた李楨は、『説文解字』に詳しかったらしく、『說文逸字辨證』二巻(光緒十一年自序 畹蘭室 刊本)の著もあります。

調べものをしているうちに、李楨という学者について少しずつ分かってきました。

井筒俊彦の『老子道徳経』理解


井筒俊彦(1914-1993)は、1970年代、テヘランにおいて『老子』のペルシア語訳ならびに英訳を行いました。

井筒の没後、その英訳版は2001年に慶應義塾大学出版会から出版されました。

Lao‐tzŭ : the way and its virtue
translated and annotated by Toshihiko Izutsu
Keio University Press 2001 1st ed
The Izutsu library series on Oriental philosophy, v. 1

さらにその後、同じく慶應義塾大学出版会が、「井筒俊彦英文著作翻訳コレクション」と題して、井筒の英文著作を日本語訳することを計画しました。

そして今春、「井筒俊彦英文著作翻訳コレクション」の一冊として、『老子道徳経』が刊行されるに至りました。

井筒俊彦著、古勝 隆一訳『老子道徳経』、慶應義塾大学出版会、2017年4月

laozidaodejing2001年の英語版を編輯されたのは、天理大学の澤井義次先生ですが、私もその時に少しばかりお手伝いさせていただき、今回もそのご縁で、日本語版への翻訳を担当いたしました。

私にとってこの訳出作業は、井筒の『老子』理解を知るよい機会となりました。その概要は、本書の「訳者解説」に書いておきました。

縁あって、この連休中に、福岡県朝倉郡の信覚寺(浄土真宗本願寺派)というお寺で、少しばかり井筒の『老子』理解についてお話しさせてもらうつもりです。

『老子』という中国古典が、現代においてどのような意味を持ちうるのか、皆さんと語り合うことができれば、と期待しております。

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出典と用例の間


中国語の文言で書かれたテクストを精読する場合、私が日常的に行っている注釈について、いささか紹介いたします。

テクストに注釈をつけるという行為は、その注釈によって、テクストについての読者の理解が深まることを目指すべきだというのが私の信条です。そのためには、(1)「言葉に関する注釈」、そして(2)「内容に関する注釈」、この両者が必要でしょう。

(1)「言葉に関する注釈」というのは、注釈の対象となるテクストの言葉を解釈するもので、(a)「典故」、(b)「テクストの作者が踏まえたらしい例」、そして(c)「用例」に分けて考えています。

(a)「典故」(「出典」)というのは、テクストの作者が、読者にも通じせる意図をもって古典の断片を引用することで、たとえば読んでいるテクストに「知命」という語があれば、おそらく『論語』為政篇の「知天命」が出典であろうと一応、想像できます。

(b)「テクストの作者が踏まえたらしい例」というのは、そのテクストに先行する著作をテクストの作者が読んで、その先行著作の語を取って自分のテクストに利用したとみなせるものです。作者が典故とまでは意識していないものを想定しています(典故の場合は、作者のはっきりした意識が存在します)。典故と紛らわしいことがありますが、作者の意図として、わざわざそれを踏まえて、そのことを読者に分からせようとしているとは感じられない場合、出典とは考えず、「踏まえたらしい」程度にとどめた方がよいようです。

これはどうしても作者の意図や想定する読者層を慮る必要がありますので、厳密には(a)(b)の区別がつかないことはたしかにありますし、これについて研究者間で意見が異なることがしばしばあります。その際、(b)と判定するのが良心的だと私は考えます。

(c)「用例」というのは、作者が読んだかどうかを問わず、(i)テクスト撰述よりも前に書かれた著作に見える語、(ii)テクスト撰述と同時代に書かれたと推定される著作に見える語、補助的には(iii)テクスト撰述の後に書かれた著作に見える語です。それらを拾い集め、対象とするテクストの意味に近いものを注釈にしています。(i)は必要なものすべて、(ii)は必要に応じて、という感じで挙げます。虚詞の用法なども、用例を検討することで明らかにできましょう。ただし付け加えると、これについても(b)と(c)の区別がつきづらい場合もあります(作者が読んでしかも踏まえている可能性がある場合は、単なる用例でなく、(b)ということになります)。

(2)「内容に関する注釈」は、制度、地理、背景となる観念など、言葉の表面に直接には現れないことがらについての注釈ですが、ここでは詳しくは述べません。

大体、以上のような区別を念頭に置きつつ注釈をつける時、辞書が力を発揮するのは、(1)の(a)で、部分的には(b)(c)もそうです。おそらく中国語著作と日本語著作とでは違いがあるのですが、中国語の文言文の場合、典故となる語は有限であり、基本的に『漢語大詞典』を見れば分かりますし、『大漢和』でも『辞源』でも分かります。こういった辞書で、(b)が拾えること(あるいは、拾うヒントを得ること)もしばしばです。うるさいことを言えば、かなり変則的な用典(典故を用いる方法のことです)の場合、辞書のみでは解決しないことも附言しておきます。

(b)と(c)とについては、網羅的に例を蒐集する必要がある場合も多く、その時は、以前は索引類、近年では電子的なデータベースが利用されているようです。もちろん後者の方が網羅的に例を拾うことができます。

そもそも、(a)の典故については、辞書を見ずに、あらかじめ知っていることが理想でしょう。そういう意味において、辞書を使うのは便法と言えますが、基本的な古典を語単位ですべて記憶していて、その場で言える人は現在では少ないので(私の知る中では、台湾の陳鴻森先生は稀有なお一人です)、辞書を利用するしかありません。

以上、述べたのは、私が文言文テクストに注釈をつける時の心得ですが、これはある程度、私の読書一般にも通じるものです。どこを自分の頭で考え、どこで辞書を引き、どこでデータベースを使うか。私はこのようにしているのですが、これが他の方に通用するものであるかどうか、これは分かりません。

あえて言いますが、「単なる用例調べ」(つまり(c)のみを調べること)では、言葉を調べる意味は乏しいと個人的に考えています。最近は、データベースを検索して、例を並べて注釈に代えるというような悪習もはびこっているようですが、これは「出典調べ」(つまり(a)のみを調べること)以下です。作者の教養やその背景、そしてその意図を常に意識しつつ読まなければ、書物を読む意味も乏しいと思うのです。

辞書、引くか引かぬか


吉川幸次郎が狩野直喜から教わったという興味深い辞書の引き方があります。

京都大学の一回生として中国語を学びかけたばかりのころ、私は先生に向かって、中国語の辞書の不備をうったえた。先生は、そのうったえに対しては、ただ、そうだろうね、と簡単に答えられるだけで、別の話をされた。先生が第一高等学校の生徒であったころ、ある外国人の教師—先生はその名をいわれたが、私は忘れた—がいった、はじめての英語の単語に出くわしても、すぐ字引を引くんじゃない。前後の関係からこういう意味だろうと、自分で考えてみる。そのうち別のところで、その単語がまた出て来たら、前に考えた意味を代入してみる。まだ字引は引かない。三度目に出て来たとき、そこにもうまくアプライすれば、もう大丈夫だ。そこでオックスフォードを引くんだと教えてくれた。僕もそうして勉強したよ。(吉川幸次郎「私の信条」、『吉川幸次郎全集』20、筑摩書房、1970。p.60)

辞書を使わずに語義を考えるというのは、一種の自己内対話であろうと思います。「こういう意味だろうか?いや、どうだろうか?」と。それを三度まで繰り返すというのは、面白い勉強法ではありませんか。

たしかに、私もこれまで、そのようにして読んできたような気もします。手もとに辞書がない時などは、いつも意味を想像してきました。その推測がたまたま当たっていれば、これは、実に気分のよいものです。

一方で、辞書を引くのも手堅い方法でしょう。しかし手堅いものであると同時に、先人の智慧を拝借した手軽な便法だという面もあります。また、辞書に依存すると、その言葉にとらわれてしまうこともありましょう。

辞書を引くのか引かないのか。少し立ち止まる習慣をつけたいものです。

古典の本文を比べること


大学院生のころ、研究室の宴会で「『荘子』郭象注を二十回は読んだ」と発言したところ、先生が「それは法螺話に違いない」とおっしゃいます。

修士論文を書いていた時のこと、活字本や版本の影印本を5種類ほど机上に並べて、一字ずつ比較しながら郭象注を読みました。違いがある部分についてはメモを取り、どちらがより妥当なのか、どういう種類の異文なのか、眼球を激しく動かしながら、真剣に考えて『荘子』郭注を読みました。集中的に読むので、一月で一通り読めたと思います。これで5回は読んだと勘定します。

こうして何度も複数の異本を比較しながら読むことで、私は二十回読んだと言ったわけです。実際に目を通しているのですから、嘘とは言えぬものでしょう。

その話を聞いた先生は、「それでは二十回とは言えない」とおっしゃいましたが、私も譲りません。今でも間違ってはいなかったと思っています。

この校書という方法—対校・校勘・校合など、言い方は何でもよいのですが—私は古典をお読みになる皆さんにこれをすすめたいと思っています。自己内対話にうってつけです。「これは甲本が正しいのだろうか?いや、乙本の方が正しいという可能性もあるぞ」という具合に、自問自答しながら読むのです。ただ漫然と読むよりもずっと張り合いがありますし、アイディアも次々湧いてきます。

新しい標点本を買った時など、それを他の伝本と比べたりするのは、今でも楽しいひとときです。

『孝経』を買う人


阿部隆一・大沼晴暉「江戸時代刊行成立孝経類簡明目録」(『斯道文庫論集』14、1977年)は、江戸時代に多数出版された『孝経』の目録として今なお有用なものですが、その緒言に面白いことが書かれています。

『孝経』はたいへんに広く蔵されていて、図書を蔵する機関のみならず、「個人の蔵書家の中にも孝経の蒐集家はかなり見うけられる」として、次のように言います。

その蒐集の動機は必ずしも孝経研究を目的として発しているとは限らない。書物好きは古本屋を廻っては本の山をいじり、店の主人と話し込む、さて引き上げる段になって何も買うものがないと気がひけるので、少し前までは店にごろごろして値の安かった孝経を御愛想に買って帰る。それが幾部かたまると一体孝経にはどの位の版本があるかと蒐集慾が刺戟されて積極的に集め出すわけである。

これはなかなか穿った見方ではないかと思いました。江戸時代から明治時代にかけて、各種各様の『孝経』が出版され、その多くが一冊の薄い本で、手に取りやすく、買いやすい本です。しかもすでに持っている本と同版かと思って買って帰って比べると、版が違う、というようなこともしばしばです。こうしていつの間にか『孝経』のコレクターとなってしまう。あり得ない話でもないようです。

最初は数百円の『孝経』から買いはじめた人も、自分でも気づかぬうちに、古活字版を欲しがるような、そんなコレクターに変貌している。そういうものかもしれません。

ごく小さな発見


『詩経』邶風「谷風」の詩に、次の一章があります。海音寺潮五郎の訳(『詩経』中公文庫、1989年)とともに示しましょう。

涇以渭濁  涇は渭を以て濁る

湜湜其沚  湜湜たる其の沚

宴爾新昏  爾の新昏に宴(やす)んじて

不我屑以  我を屑(いさぎよ)しとし以(もち)ゐず

毋逝我梁  我が梁に逝く毋れ

毋發我笱  我が笱を發する毋れ

我躬不閱  我が躬すら閱(い)れられず

遑恤我後  我が後を恤(うれふ)るに遑(いとま)あらんや

世間の人はみんな言ふ

涇は濁つて渭は澄んでゐると

流れが合うたところで見れば

それはさうかも知れないけれど

離してみればそれほどでもない

後妻(うはなり)と二人ならべて見ればこそ

あたしの器量の衰へが

はつきり見えてくるのです

器量は悪うなつたけど

操正しい心があるに

くやしや、それは見てくれず

惜しげもなく捨てられた。

後妻よ、

あたしが苦心して定めたことを かき乱さないで頂戴

苦労して貯へたものを 勝手に費(つか)はないで頂戴

とはいふものの

あたしは捨てられた妻

言つたとて

どうならう!

さて、その第一句「涇以渭濁」に見える「涇」「渭」とは、濁った涇水と清らかな渭水という二つの河川です。涇水と渭水とを比べると、前者がどうしても濁って見える。それが「涇は渭を以て濁る」ということです。

この一句につけられた鄭箋は、通行本(嘉慶二十年江西府学刊本)によると「涇水以有渭,故見渭濁」。しかし、その二句目には、古くから異文があったようです。

  • 「故見渭濁」(『經典釋文』に引く旧本、そして、通行の注疏本を含む多くの版本)
  • 「故見謂濁」(『經典釋文』に引く一本)
  • 「故見其濁」(『毛詩正義』に引く「定本」)
  • 「見其清濁」(『七經孟子考文』に引く一本)

段玉裁の意見(『經韵樓集』卷十二「與諸同志論校書之難」に見えます)によると、「謂濁」と作るものが正しく、他は誤り、との判定です。なお、この考え方は、阮元の『十三經注疏校勘記』にも、ほぼそのまま受け継がれています。

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4行目の下方に「故見其濁」と見える

ところで確認のために、足利学校遺蹟図書館に蔵する南宋刊十行本『毛詩註疏』(汲古書院、1973年、影印本)を見たところ、とても妙なことに気がつきました。影印本なので、確実なことは言いにくいのですが、問題の部分について、擦って文字を消した上で、「其」と手写しているようです。いつか原本を拝見したいものです。

日本の伝えられた写本の『毛詩鄭箋』には、「其」に作るものがあったのも確かで、そういったものによって改めたのか、あるいは『毛詩正義』に引く「定本」によって改めたものか。私は後者ではないか、という気がします。そして、もとの版の字は、おそらく「渭」ではないかと推測します。

最後に、この足利学校本を実見して『七經孟子考文』を書いた、山井鼎のメモ(京都大学人文科学研究所蔵、嘉靖版『十三經注疏』)をお示しします。「足利「渭」作「其」。又一本作「見其清濁」」という書き入れが、そこに見えます。

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日本漢文のなかの固有名詞


『論語義疏』の標点本はいくつかあるようですが、私が最近読んだのは、高尚榘氏のものです。『論語義疏』高尚榘校點,中華書局,2013年。

武内義雄が整理した懐徳堂本に依拠した本であり、かなりよく懐徳堂本の本文を伝えています。附録として、大正十二年(1923)五月に西村天囚(1865-1924)が漢文で書いた序まで載せてあるのもありがたいことです。

その序のなかに、「暨應神朝,百濟獻《論語》,孔子之書,始入我國」とあります。もちろん、応神というのは我が国の天皇の名ですが、標点を見ると、整理者はそれに気づいていないようです。

また、「謹按先皇教育勅語示法後世,炳如日月,其所謂忠、孝、友、和、信,與智能、德器、恭儉、博愛、義勇等條目,皆符於孔子之教」ともありますが、どうも「教育勅語」が固有名詞であることを知らなかった様子です。

標点者はほぼ正確に著者の意図をくみ取っているものの、ちょっとした知識のギャップもうかがわれて、何となく面白く思われました。

中国古典に親しむ

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