「中原に生きる匈奴たち」


昨年(2019年)の9月に、陝西省楡林市という場所で、五胡十六国時代の文化を主題とする小さな研究会が開かれたので出かけました。その時、事前に何か文章を提出するようにと言われたのですが、十分に準備ができず、漢(漢趙、前趙)の君主、劉淵(字は元海、在位は301-310)という人物と儒教の関わりを簡単に報告しました。

調べ物の過程で、谷川道雄氏(1925-2013)の「中原に生きる匈奴たちー貴族・民衆・知識人」(『歴史と人物』、1973年6月号、中央公論社)という文章に出会いました。

前漢時代以前に強勢を誇った匈奴が、塞外の地で自由に生きたのとは異なり、後漢以降の匈奴は往日の勢いを失って北匈奴と南匈奴に別れ、南匈奴はといえば中国の内地であるいまの山西省あたりに居住し、不自由に過ごしていました。「中原に生きる匈奴たち」というタイトルには、彼らの悲哀が込められているように読めました。

この文章の「まえがき」は次のように始まります。

支配民族の政治的・経済的・文化的な優越性のもとに生きることを余儀なくされた被圧迫少数民族出身者が時として見せるあの心ばえのやさしさーそれをどういうふうに理解したらよいか、わたくしはふと考えこんでしまうことがある。かれらの置かれている生活条件は、その風貌やことばに一種のきびしさと鋭さとを与えるのであるが、それにもかかわらず、何かしら悲哀と屈折の陰影を伴ったその心の働き方は、人間というものに対するきめ細やかな配慮をうかがわせ、接する者をひとつの感動にさそいこむ。むしろ支配民族の方にたけだけしく粗野な感情があり、その意味においては、政治・経済・文化の優越性と精神の緻密さとは互いに反比例するといえそうである。(p.82)

たいへんに印象深い一節です。匈奴の人々の「心」について、自分がどれほどのことを考えたことがあったのか、反省させられました。

内容のそれ以上の紹介は避けますが、私は、この一文をたいへん気に入りました。残念ながら、谷川道雄氏の主要な論文集4種には収録されていませんが、この文章には、学術論文とはまたちがった深い滋味があるように思われます。

内容的には『隋唐帝国形成史論』所収の論文「南匈奴の自立およびその国家」と重なる部分がありますが、一般向けの歴史読み物に書かれた「中原に生きる匈奴たち」は、学術論文の厳密さからはある程度自由であるがゆえに、また格別な趣があるように感じられました。


【補】

「谷川道雄氏の主要な論文集4種」とは、以下のものを指しています。

  • 谷川道雄『中国中世社会と共同体』、国書刊行会、1976年。
  • 谷川道雄『中国中世の探求 ー歴史と人間』、日本エディタースクール出版部、1987年。
  • 谷川道雄『隋唐帝国形成史論(増補)』、筑摩書房、1998年。
  • 谷川道雄『谷川道雄中国史論集』、上巻・下巻、汲古書院、2017年。

なお、『谷川道雄中国史論集』下巻の巻末に、完備した著作目録が付けられており、論文の初出誌と論文集との関連が整理されており、有用です。

一人が十巻を書写すること


以前コピーをとった論文を整理していたところ、野尻忠氏「「大般若経(安倍小水麻呂願経)」の基礎的研究」という論文を見つけました。『慈光寺所蔵「大般若経(安倍小水麻呂願経)」の調査と研究』、2017年、奈良国立博物館、所収。

この『大般若経』の巻末には貞観十三年(871)の紀年があり、安倍朝臣小水麻呂という人物の願経で、埼玉県比企郡ときがわ町にある慈光寺伝来。全600巻のうち、慈光寺には152巻分が伝えられているそうで、この慈光寺所蔵分を調査した記録です。

この論文に次の一節があります。

この時代、大般若経の全六百巻は、ふつう、十巻ごとに一枚の帙にくるまれて保管されていた。第一帙には巻第一から巻第十を納め、第二帙には巻第十一から巻第二十を納め、この要領で巻第五百九十一〜六百を納める第六十帙までで一具となっていた。大般若経の書写は、巻数が多いため何人かで分担することが多いが、その分担は帙ごとに割り振られるのが通例であった。その結果、一具の大般若経の遺品においては、帙内の十巻は筆跡が一致し、それ以外の帙に所属する巻とは筆跡の異なることが多い。以上は正倉院文書等の研究から帰納される一般論であるが、平安時代に書写された本経においても、そうした分担での写経がおこなわれたことを、これらの願文は推察させる。(pp. 13-14)

つまり、奈良時代の写経においては、『大般若経』六百巻は、一帙十巻を一単位として書写された、そしてこの慈光寺の経典にも同じ習慣の反映が見られる、というわけです。

いままで考えたことがなかったのですが、一人の写経担当者が一帙十巻を単位として書写を受け持つというのは、面白い習慣だと思います。

日本独自の習慣か、それとも中国にもあった習慣なのか。日本で案出する強い動機があれば別ですが、隋唐の国家的な写経の制度が輸入されたと推測するのが無難ではないでしょうか。資料があるかもしれませんが、私は知りません。探せば存在する可能性がありますが。

もっと想像をふくらませれば、隋唐に先立つ南北朝時代でも、仏典に限らず書籍一般につき、同様の習慣があったとすると、さらに面白いと思います。読書の際に、少し気にしてみようかと思っています。

『環境考古学への招待』


奈良文化財研究所の埋蔵文化財センター長をつとめられた松井章氏(1952-2015)の『環境考古学への招待ー発掘からわかる食・トイレ・戦争 』(2005年、岩波書店、岩波新書)を読みました。副題からも知られるように、土器や遺構を中心とした考古学とは趣を異にしており、当時の人が食べたもの、利用した動物、糞便、人骨の傷などを手がかりとして、「環境考古学 environmental archaeology」という新領域へと導いてくれる一冊です。

最近、別の研究発表で、中国の北魏時代の人々やその家畜がどのようなものを食していたのかが、炭素同位体である炭素13を手がかりにして分かる、コメやムギなどのC3植物と、アワ・ヒエなどのC4植物、どちらを食していたか調べることができるという話を聞きました。そのことも本書に書いてありました(p.72-74)。

私にとっては非常に興味深い話題が満載でしたが、自分の研究対象にも近い「釈奠」ー孔子を祀る祭祀ーが登場したのは、思いがけないことでした。

島根県にある出雲国府と推定される遺跡から出土した「大きな雄のニホンジカの頭蓋骨と、小型のシカの下顎骨の破片」をどのように解釈するか、という問題をめぐり、次のような記述があります。

日本では早くから動物犠牲が国家の禁止するところとなっており、地方官衙の中枢で、鹿の頭部を祭る祭祀を行ったとは考えにくいとはじめは思った。ところがすぐに儒教の聖人を祭る釈奠という儀礼では、動物を犠牲にすることが儀式の中心を占めることを知った。儒教がはじめて日本に入ったのは、5世紀ごろのこととされ、その祭祀の中心が釈奠である。日本での最古の記録は、『続日本紀』大宝元年の記事で、それ以降、江戸幕府まで引き継がれた。釈奠で重要な要素を占めるのが三牲と呼ばれる動物犠牲である。三牲とは中国では牛・羊・豕を指すが、日本では大鹿・子鹿・豕と変化する。本来、この儀式では、三牲を儀式の最中にその場で殺して神に捧げるはずなのだが、どうも日本の釈奠は、狩りの獲物を供えていたようだ。(本書、p.153)

さらに続けて、次のようにあります。

日本思想史の中村生雄さんは、中国の釈奠が儀式中に三牲を殺すことに意味を持たせるのに対し、日本の場合は狩りの獲物である大鹿・子鹿・豕を供えると変化することを、「中国では主目的であった犠牲獣を〈殺す〉ことが、孔子や古聖人においしく食べてもらうことへと変化したためではなかろうか」と日本的イケニエの特質を説明している(中村生雄『祭祀と供犠』、法蔵館、2001年)。(本書、p.154)

太牢三牲を用いる儀礼は最高の格式で、中国では天を祭る儀礼に用いられ、孔子を祭る釈奠にも使われた例があります。この鹿の骨が太牢の遺物なのかどうか、私にはわかりません。中村氏の議論も批判的に確かめてみたい気がするのですが、いずれにせよ、もし島根の遺跡から出た鹿の骨が釈奠の痕跡であるのならば、これは胸踊ることで、是非ともじっくり考えてみたい研究対象です。

日本古代の環境や人々の生活について知りたいと思って読んだ本ですが、思わぬところで面白い記述に出会いました。

 

『サピエンス全史』


原著が2011年に出版された、ユヴァル・ノア・ハラリ(Yuval Noah Harari)の『サピエンス全史』(柴田裕之訳、河出書房新社、2016年)の邦訳版を読みました。

タイトルからも知られるように、ホモ・サピエンスの歴史を俯瞰しようという、大きな視野を具えた著作です。冒頭部分に「歴史年表」が掲げられているので、そのうちのいくつかを抜粋してみます。それぞれの内容に対応する章を仮に補っておきます。

  • 250万年前 アフリカでホモ属が進化する。最初の石器。(第1章)
  • 200万年前 人類がアフリカ大陸からユーラシア大陸へ拡がる。異なる人類種が進化する。(第1章)
  • 50万年前 ヨーロッパと中東でネアンデルタール人が進化する。(第1章)
  • 30万年前 火が日常的に使われるようになる。(第1章)
  • 20万年前 東アフリカでホモ・サピエンスが進化する。(第1章)
  • 7万年前 認知革命が起こる。虚構の言語が出現する。ホモ・サピエンスがアフリカ大陸の外へと拡がる。(第1-2章)
  • 3万年前 ネアンデルタール人が絶滅する。(第1章)
  • 16000年前 ホモ・サピエンスがアメリカ大陸に住みつく。(第4章)
  • 12000年前 農業革命が起こる。永続的な定住。(第5章)
  • 5000年前 最初の王国、書記体系、貨幣。多神教。(第7章)
  • 2500年前 硬貨の発明。(第10章)
  • 500年前 科学革命が起こる。(第14-16章)
  • 200年前 産業革命が起こる。(第17章)
  • 今日 人類が地球という惑星の境界を超越する。核兵器が人類の生存を脅かす。生物が自然選択ではなく知的設計によって形作られることがしだいに多くなる。(第18-20章)
  • 未来 知的設計が生命の基本原理となるか?ホモ・サピエンスが超人たちに取って代わられるか?(第20章)

ホモ・サピエンスが出現したのは20万年前とのことで、それ以降、現在そして未来にいたるまでの歴史を、第1部「認知革命」(第1-4章)、第2部「農業革命」(第5-8章)、第3部「人類の統一」(第9-13章)、第4部「科学革命」(第14-20章)の4部構成で描いたものです。

今まで考えてもみなかったことが多く記されており、通読してみて、ハッとさせられることもしばしばでした。たとえば、第14章「無知の発見と近代科学の成立」という章では、今から500年前に生起したという「科学革命」が、人間の無知を認めることから生まれたと論じられており、それに先立つ時代における認識を、対照的に以下のように記述します。

イスラム教やキリスト教、仏教、儒教といった近代以前の知識の伝統は、この世界について知るのが重要である事柄はすでに全部知られていると主張した。偉大な神々、あるいは単一の万能の絶対神、はたまた過去の賢者たちが、すべてを網羅する知恵を持っており、それを聖典や口承の形で私たちに明かしてくれるというのだ。凡人はこうした古代の文書や伝承をよく調べ、それを適切に理解することで、知識を得た。聖書やクルアーン、ヴェーダから森羅万象の決定的に重要な秘密が抜け落ちており、それが血の通う肉体を持つ生き物、つまり人間に今後発見されるかもしれないなどということは考えられなかった。(本書、下、p.59-60)

儒教に即して言えば、「重要なことはすべて経書に書いてある」という前提があるのは、広く認められることと思います。経学という営みは、2000年以上に及んでその経書の意義を解明しようとしたもので、そのことは儒教の研究者にもよく理解されているはずです。

ただ、そのことが他の宗教にも共通するものであることを、私はあまり考えたことがありませんでした。さらに、経書から「森羅万象の決定的に重要な秘密が抜け落ちて」いるはずがないという認識は、言われてみれば確かに歴史上の経学者に広く共有されたに違いにないものでしょうが、私はこのことをはっきりととらえられていませんでした。

やや残念なことと言えば、注が少なく、発言の根拠に遡ることが難しいこと、そして、最終章で示された人類の未来があまりにも絶望的であること、などでしょうか。

とはいえ、今後、より深く考えてみたい警句をいくつも得ることができたのは間違いのないところです。 『サピエンス全史』 の続きを読む

ある南朝婦人


久しぶりに吉川忠夫先生の「北魏孝文帝借攷」(『東方学』第96輯、1998年7月)という論文を取り出して読んでいたところ、北魏孝文帝の太和年間(477-499)のことを説くなかで、次の史料が引かれているのに気づきました。『魏書』卷九十四、閹官傳、張宗之傳。

始宗之納南來殷孝祖妻蕭氏,劉義隆儀同三司思話弟思度女也,多悉婦人儀飾故事。太和中,初制六宮服章,蕭被命在内預見訪採,數蒙賜賚。(中華書局本旧版、p.2019。新版、p.2189-2190)

張宗之(428-496)は北魏の人で、祖父の代までは「家世寒微」だったようですが、父の張孟舒は洛陽令となりました。しかし父が叛乱に関わったために張宗之も連座して、宮刑を受けて宦官となって仕えました。宦官としては大いに成功した人物です。

さてこの張宗之、結婚しており、その相手は南朝の人で、殷孝祖(415-466)の元妻であった蕭氏でした(北魏では宦官も結婚可能であったようです)。

殷孝祖は、景和元年(465年)、寧朔將軍、都督兗州諸軍事、兗州刺史の任にありましたが、宋の明帝(在位、466-472)を救援すべく、その年末には妻子を棄て、任地を離れたといいます(『宋書』巻八十六、殷孝祖伝)。

当時、兗州の治所は瑕丘(今の山東省済寧市)にあったのかも知れません。ともかく、殷孝祖の「妻子」は瑕丘あたりに留まっており(『魏書』巻六十一、畢眾敬伝)、その後、宋の泰始二年(466)十一月(『資治通鑑』巻一三一)、この地域ごと北魏の支配下となり、蕭氏もかくして北側の人となったのでしょう。とするならば、蕭氏が張宗之と再婚したのは、西暦466年以後ということになります。

前に引いた『魏書』張宗之伝によれば、蕭氏は蕭思度の娘でした。伯父の蕭思話(400-455)は劉宋の大官で、『宋書』の巻七十八に本伝が見えます。北魏の宦官が、南朝出身の身分ある女性を娶ったということになります。

さて、この蕭氏、「多く婦人の儀飾故事を悉(つく)す」とされており、さらに「太和中、初めて六宮の服章を制するや、蕭は命を被りて内に在って訪採せらるるに預り、數しば賜賚を蒙る」とあるので、太和年間、孝文帝による宮中礼制整備―すなわち、鮮卑族の漢化の一環―に大いに貢献したことが知られるのです。

蕭氏の場合、決して礼学を講究する学者ではありません。しかし礼には、服飾や礼節など、実践的な面が欠かせません。特に南朝貴族は礼を重んじます。もちろん、男子だけが心得ていればよいというものではなく、女子にも礼の習得が求められたことでしょう。そういう意味において、蕭氏はすぐれた礼の実践者であったわけであり、それが北魏孝文帝の期待と見事に合致したのでしょう。

経学史において、女性の名が現れることは極めてまれです。しかしながら、少なくとも南北朝時代においては、いまは名も伝わらない多くの貴族女性が、礼の実践を習い伝えていたことは、疑いのないところであろうと想像できるのです。

ただ一人『周礼』を伝えた女性


昨年、「先生と呼ばれた女性たち」という記事で、唐代の女性儒者、宋若莘・宋若昭姉妹のことを紹介しました。その際に、『舊唐書』卷五十二、后妃傳下の、宋氏姉妹の記事を引用しましたが、次の一段をあえて引かずにおきました。

若莘教誨四妹,有如嚴師。著《女論語》十篇,其言模倣《論語》,以韋逞母宣文君宋氏代仲尼,以曹大家等代顏、閔,其間問答,悉以婦道所尚。若昭注解,皆有理致。(中華書局、2198頁)

これによると、長女の宋若莘は、『論語』を模した『女論語』という書物を著し、「韋逞の母、宣文君宋氏」を孔子に擬え、班固の妹の曹大家(そうだいこ)を顔回に擬えた、といいます。そして、妹の宋若昭がその注釈を書いた、と。

登場人物のほとんどを男性が占める『論語』を読んでも、唐代の女性読者には現実感がなかったのかも知れません。あるいは、男性のなすべきことと女性のなすべきこととは異なると考えたのかも知れません。そこで宋若莘は、先生も弟子たちもみな女性に置き換えた、女性版『論語』を作ったというわけです。

後漢の曹大家は班固の死後、その遺志を受け継いで『漢書』を完成させ、大儒の馬融に対してその伝授を行ったことが知られており(『後漢書』列傳七十四、列女傳、曹世叔妻傳)、かくれもない高名な人物です。顔回に比せられたのがその曹大家ならば、孔子に比せられた「韋逞の母、宣文君宋氏」はどのような人物でしょうか。

『晉書』(卷九十六、列女傳、韋逞母宋氏傳)には次のようにあります。

韋逞母宋氏,不知何郡人也,家世以儒學稱。宋氏幼喪母,其父躬自養之。及長,授以《周官》音義,謂之曰:「吾家世學周官,傳業相繼,此又周公所制,經紀典誥,百官品物,備於此矣。吾今無男可傳,汝可受之,勿令絕世。」屬天下喪亂,宋氏諷誦不輟。(中華書局、2521頁)

これまた宋氏という姓の女性で、この一家は儒教の伝授をしていました。母が早くに亡くなったため父に育てられました。「我が家は代々『周礼』を学び、ずっと伝承してきた。この書物は周公が作られたものであって、経典とすべき記録であり、官僚制度のことはすべてここに書かれている。いまうちには受け継ぐべき男子がないので、お前が伝受し、伝えを絶やさぬように」と父は言い、娘に『周礼』の音義(音読及び訓詁)を授けました。しかし時代はあたかも西晋末の八王の乱、永嘉の乱に当たって混乱したが、宋氏は『周礼』の暗誦を止めなかった、と。

『晋書』によると、その後、後趙の石虎(295-349)が、すでに韋氏に嫁いでいた宋氏の一家を太行山脈の東へと移住させた時も、「鹿車を推し、背に父の授くる所の書を負う」て移動したと言います。子どもの韋逞が生まれると、「宋氏、晝は則ち樵を採り、夜は則ち逞を教え、然れども紡績して廢する無し」と、なみなみならぬ苦労をして労働と教育に励んだのでした。

そのかいあって、韋逞は学問を身につけ、前秦の苻堅(338-385)に仕えました。当時、苻堅が礼楽の頽廃を歎いたところ、博士の盧壼という人物が次のように答えました。

廢學既久,書傳零落,比年綴撰,正經粗集,唯《周官禮》注未有其師。竊見太常韋逞母宋氏世學家女,傳其父業,得《周官》音義,今年八十,視聽無闕,自非此母無可以傳授後生。(同上)

盧壼の考えによれば、経典は新国家にほぼ集めることができたものの、『周礼』の注釈についてはよい師匠が得られていない。韋逞の母である宋氏は、代々学問を伝える家の娘で、父親から『周礼』の音義の伝受を受けている。年は八十になるが、目も耳も問題なく、この女性をおいて若手を教える者はいません、と。

そこで苻堅は宋氏に命じて、彼女の自宅に講堂を建てさせ、百二十人の学生を学ばせ、「絳(あか)き紗幔を隔てて業を受けしめ、宋氏に號して宣文君と為し、侍婢十人を賜う」、と。学生百二十人といえば、その規模の大きさが知られます。かくして、「『周官』の學、復た世に行われ、時に韋氏の宋母を稱(ほ)む」、と『晋書』は伝えます。

この宋氏の事例は、女性が儒教の伝承に本格的にたずさわったものとして貴重で、また氐族の出身である苻堅が儒教を尊重した例としても興味深いものです。『隋書』経籍志の序に「其れ中原は則ち戰爭相い尋(つ)ぎ、干戈是れ務め、文教の盛んなるは、苻(前秦)と姚(後秦)のみ」と称せられた程度に、苻堅は文化を重んじたのでした。

宋氏のことはもともと 崔鴻『十六国春秋』に載っていた記事で、『太平御覧』にも採られるなど、有名であったようです。

それにしても、唐代の女性儒者、宋若莘が『女論語』を書いた時、かの曹大家を差し置いてまで、韋逞の母を孔子の地位に座らせたのは何故でしょうか。もちろん、北地における『周礼』の復興にこの女性が大いに寄与したということがあるのでしょう。しかし、それだけであったかどうか。「宋」という姓を介して、自分たち姉妹との間に特別なつながりを認めたためではないかと、私には思われるのです。

友好を越えて理解を追う


竹内実氏(1923-2013)に『友好は易く理解は難し―80年代中国への透視』(サイマル出版会、1980年)の著作があります。正月に帰省した際に読んでみたのですが、40年も前のものにも関わらず、私はとても新鮮なものを感じました。

文革期以降の政情の分析や、鄧小平の人物評価なども興味深く、さらには、1990年代以降、日本は中国のナショナリズムの問題、尖閣問題にも向き合わなくてはならなくなるという予言もなされています。

それらのことはしばらく置くとして、書名にもなっている「友好は易く理解は難し」というテーゼは考えさせられるものでした。当時は日中友好のかけ声がかまびすしかったことでしょうが、その大音量のなかで唱えられた「友好は易く理解は難し」です。日中友好の限界を言明しています。

手もとに本がないのでうろ覚えですが、もともと著者は、“お互いの関係を築き、そのうえで相手を理解し、最後に友好を成し遂げる”という順序で日中関係の発展を考えていたのが、その後よくよく考えると、順序が逆で、“まず友好からはじめ、次に理解へと進み、最終的に関係が築かれる”というのが筋ではないか、と思うというようなことが書かれていました。

自分自身のことについて、日中交流の観点から思い返すと、学部生や大学院生の頃、すでに中国や台湾からの留学生との交流もありました。後に四川大学の教授となられた欽偉剛さんから太極拳を教えてもらったり、一緒に食事を作ったりしたことなど、懐かしく思い出します。学問の話もよくしました。学生の気安さで、友好とか理解とかの水準ではありませんが、文革のことなど様々うかがい、中国の人を親しく知りました。

その後、2000年頃、一年間、台北の中央研究院歴史語言研究所に訪問する機会があり、陳鴻森先生をはじめ、多くの学者・学生と交流しました。目録学の昌彼得先生、経学の程元敏先生の授業などを聴講し、台湾の学者のものの考え方を吸収しようと努力しました。すでに京大人文研の助手でしたが、研究者というよりも一人の学生として。

当時はあまり研究方法についてよく考えていなかったのですが、台湾の先生方の方法や文献の読みは、違和感なくすんなりと、しかも大きな充実感をともなって受け入れられたように思います。

その後、私が中国の研究討論会で発表するようになったのは2007年からですが、この頃には、研究方法についても、いくらか注意が向くようになっていました。「日本人である自分に、何ができるか」ということを考え、それまでも調べていた経書や道家文献の日本写本について、中国で研究発表してきました。

清華大学の彭林先生や上海交通大学の虞万里先生など、当地の一流の学者の研究発表をうかがい、さらに自分よりも若く優秀な新進気鋭の研究者の論点を見るにつけ、力の差を感じ、伝統的な古典研究の領域で自分に何ができるのかと弱気になることもありましたが、批判に向き合って彼我の条件の違いを考え、自分なりの方法をおぼろげながらも意識し、何とかこれまでやってきたという感じです。

竹内氏の説いた「友好」「理解」に引き寄せれば、私の行ってきた学術交流も、もちろん友好のためという雰囲気があらかじめあり(外国人を交えて国際的な学術の場を開こうという意味です)、こちら側にもそのような気分があったのは確かですが、いざ学術的な議論になれば、親善だ友好だという余裕はなく、必死に相手の議論を追い、こちらの思うことを苦しみながらも伝えてきたように思います。

現在の私は、単なる儀礼的な友好・交流・架け橋といったものにはあまり関心がありません。むしろ中国の学者の考え方、未来への見通しを知ることに関心があり、こちらもなにがしかの寄与をしたい、と思います。きっと竹内氏のいう「理解」の方にひかれているのでしょう。

しかし、そこにいたる道は険しく、厳しいものです。先日亡くなった石立善氏は、生前しばしば日本の研究状況について苦言を呈しましたが、彼こそ安易な「友好」を越えて相互「理解」を希求していたのではないか(交流を保つだけで済むなら、当たり障りのないことを言えばよいのですから)。そのようなことを、『友好は易く理解は難し』を読みながら、ふと思いました。

日本・中国それぞれの学者が暗黙の前提にしているものの考え方や、各自の条件の大きな違い(その最たるものは中国の人にとっては母語である文献が、我々にとってはそうでない、ということです)が、現にあります。眼には見えないけれども牢固たるこういった壁に一つでも二つでも通行可能な門を穿ち、お互いをよりよく、より深く理解し、その上で研究領域において如何に新視野を開いてゆくか。石さんとともにこの事業に取り組めなくなってしまったことが残念でなりません。

石立善氏の逝去を悼む


2019年12月18日未明、上海師範大学哲学系教授、石立善氏が逝去されました。46歳(中国の数え方では47歳)の若さです。

石氏は、1990年代の終わり頃、関西学院大学に留学なさっており、私が初めてお目にかかったのは2001年のことであったと思います。当時、私は京都大学人文科学研究所にて助手をしており、台北での留学から帰って来た時期でした。関学では実学的なことを学ばれたようでしたが、京都大学の大学院に進学なさってからは、中国古典の学習に大いなる熱意を持って臨んでいらしたことを覚えています。三歳年下のこの友人を私はずっと尊重してきました。

京都大学大学院の中国哲学史研究室においては、朱子学の研究に熱心に取り組まれ、着実に読書の力を鍛錬され、後輩たちを叱咤激励し、研究室をまとめるよき先輩でした。私の弟もその頃、この研究室で学んでおり、残念がながら二年前の春に他界しましたが、その弟も常々石氏に感謝と尊敬の念を口にしておりました。

学問に対しては常に真摯で、他者への評価も非常に厳しく、どんな大学者を相手にしても批判の手を緩めませんでした。「日本の学者はまともに本を読めていない」とか、「誰も彼もいい加減すぎる」とか。耳の痛いその批判には、確かに当たっているところがありました。彼の言葉は、いまも重く耳に残っており、それが戒めにも励みにもなっています。

2010年には学位論文「「朱子語録」と「朱子語類」の研究」によって、京都大学から博士(文学)の学位を授与され、その後帰国されて翌年には上海師範大学の教授に就任されました。若くして正教授となったことは、大きな圧力のかかることであったのかも知れません。帰国後は精力的に学術活動に参加し、多くの編著を世に問い、私も何度も各種のシンポジウムで同席しました。そのたびに、夜は遅くまで宿泊先の部屋で二人して話し込み、いまの研究状況や将来の計画について語り合いました。

中でも印象深いのが、2018年3月に石氏が杭州の西湖湖畔龍井にて開催した「第一届漢唐注疏思想沙龍」です。参加者はわずか八名ですが、私以外はみな深い学殖を備えた研究者であり、各人の研究発表に対し、じっくりと時間を傾けて全員で入念な検討を加えるもので、大いに裨益を受けました。春の西湖のくつろいだ雰囲気と石氏の歓待ぶりが忘れられません。

訃報は南京大学教授の童嶺氏よりその日のうちに受けとりました。その数日前に童氏が京都大学に訪問なさっており、その際に石氏の体調が思わしくないむね聞いておりました。心配はしていましたが、これほど重大な病状とは想像さえしていませんでした。悲しみにくれるばかりです。

石氏は卓越した読書力を持つ極めて優れた文献学者でした。あれほど熱意を注いで本を読む人はなかなかいるものではありません。貴重な読書の人が、ひとりこの世を去りました。

そして誰しも認めるのがその日本語の能力の高さです。日本と中国の学界の間をつなぐ人材を我々は永遠に失ってしまいました。恐ろしく、悲しいことです。

二年前に弟を亡くした私は、まだその絶望から立ち直っておらず、苦しい日々を過ごしてきました。それだけに自分より少し年下の仕事仲間に対しては特別な思いがあります。特に石氏のことは弟のように思っていました。石氏はそのように思っていなかったはずですが、あるインタビューの中で私のことを「知己」と呼んでくれたのは嬉しいことでした(博報財団『国際日本研究フェローシップニュースレター』第5号、2018年6月)。

その石氏が、これほど早く旅立ってしまうとは。せめて、ご冥福を祈り、ご家族の悲しみに寄り添いたいと思います。

南京会議
2016年、南京大学開催の学会にて、石立善氏とともに

先生と呼ばれた女性たち


いまの日本では男女を問わず、教員に「先生」と呼びかけますが、古代の中国においてはそうでもなかったようです。

古代漢語の「先生」には、多岐にわたる語義がありますが、呼びかけとしては、例えば『孟子」(告子下)に「宋牼將之楚,孟子遇於石丘,曰:先生將何之」などという例があります。学者に向かっていうだけでなく、道士や術士に対しても用いられました。

しかし、女性に向かって「先生」と呼びかける例は少なかったようです(辞書を引くと、近代の上海で妓女のことをそう呼んだことが載っていますが、もちろんこの記事の趣旨と無関係です)。

唐代の女性が「先生」と呼ばれた例を見かけました。徳宗(在位、779-805年)の頃の人、宋若莘、宋若昭の姉妹です。

『舊唐書』卷五十二、后妃傳下に「女學士尚宮宋氏」として次のようにあります。

女學士、尚宮宋氏者,名若昭,貝州清陽人。父庭芬,世為儒學,至庭芬有詞藻。生五女,皆聰惠,庭芬始教以經藝,既而課為詩賦,年未及笄,皆能屬文。長曰若莘,次曰若昭、若倫、若憲、若荀。若莘、若昭文尤淡麗,性復貞素閑雅,不尚紛華之飾。嘗白父母,誓不從人,願以藝學揚名顯親。(中華書局、2198頁)

宋若莘、宋若昭の二人は、貝州清陽(いまの河北省邢台市)の人。若莘を長女、若昭を次女とする五人姉妹で、いずれも父親の宋庭芬について儒学と文章を学び、みな成人前に文筆ができていたと言います。面白いのは、この五人姉妹が父母に対して、自分たちは結婚せずに「藝學」によって名を立てて両親の恩に報いたい、と宣言していることです。

宋若莘、宋若昭の評判は、朝廷にまで伝わります。

貞元四年(788),昭義節度使李抱真表薦以聞。德宗倶召人宮,試以詩賦,兼問經史中大義,深加賞歎。德宗能詩,與侍臣唱和相屬,亦令若莘姊妹應制。每進御,無不稱善。嘉其節概不羣,不以宮妾遇之,呼為學士先生。庭芬起家受饒州司馬,習藝館內,敕賜第一區,給俸料。

時の皇帝、徳宗は二人の学才を高く評価し、「宮女の身分で遇することなく、「学士先生」と呼んだ」というのです。父の宋庭芬はそこで始めて任官したのですから、朝廷がその娘たちに敬意を払って父を抜擢したわけであり、「「藝學」によって名を立てて両親の恩に報いたい」という希望がまさに実現したわけです。

元和末,若莘卒,贈河內郡君。自貞元七年已後,宮中記注簿籍,若莘掌其事。穆宗復令若昭代司其職,拜尚宮。姊妹中,若昭尤通曉人事,自憲、穆、敬三帝,皆呼為先生,六宮嬪媛、諸王、公主、駙馬皆師之,為之致敬。進封梁國夫人。寶曆初卒,將葬,詔所司供鹵簿。敬宗復令若憲代司宮籍。文宗好文,以若憲善屬文,能論議奏對,尤重之。

長女の若莘は宮中の記録文書である「記注簿籍」を司っており、重い任務です。姉の死後、妹の若昭がその仕事を引き継ぎました。憲宗、穆宗、敬宗の三代の皇帝が、みな彼女のことを「先生」と呼び、後宮の女性たちや公主たちのみならず、男性たる諸王や公主の夫である駙馬たちもみな宋若昭のことを「師」として敬った、といいます。

この姉妹に与えられた「女學士」というタイトルを調べてみると、南朝陳の後主(在位、582-589)の時代に袁大捨らを「女學士」としたという記事が『陳書』にあるものの、どうもこれはサロンの作詩担当者のようなものと思えます。その意味では、唐代の「女學士」に直接続くものではありません。

そして唐代においては、宋氏姉妹に対して専用されてように見えます。この「女學士」の称号は、唐代後半期の皇帝たちが宋氏姉妹に示した最高の敬意であったと推測できるのです。

皇帝たちが宋氏姉妹を「先生」と呼んだと繰り返し言うのも、女性が普通は「先生」と呼ばれないことを前提とし、これが殊遇であったことを伝えたに違いありません。

身を忘れること


荘周が「異鵲」—風変わりなカササギ—をはじき弾で撃とうとした一章は、『荘子』の中でも印象深く残っています。

莊周遊乎雕陵之樊,覩一異鵲自南方來者,翼廣七尺,目大運寸,感周之顙而集於栗林。莊周曰:「此何鳥哉?翼殷不逝,目大不覩?」蹇裳躩步,執彈而留之。覩一蟬,方得美蔭而忘其身;螳蜋執翳而搏之,見得而忘其形;異鵲從而利之,見利而忘其真。莊周怵然曰:「噫!物固相累,二類相召也!」捐彈而反走,虞人逐而誶之。莊周反入,三月不庭。藺且從而問之:「夫子何為頃間甚不庭乎?」莊周曰:「吾守形而忘身,觀於濁水而迷於清淵。且吾聞諸夫子曰:『入其俗,從其令。』今吾遊於雕陵而忘吾身,異鵲感吾顙,遊於栗林而忘真,栗林虞人以吾為戮,吾所以不庭也。」(『莊子』山木。郭慶藩《莊子集釋》,中華書局,p. 695-699)

福永光司氏『荘子 外篇下』(朝日新聞社、1978年、中国古典選15)から、訳(大意)を引用します。

荘周があるとき雕陵とよばれる国有林の地域内を散歩しているとき、一羽のけったいな鵲が南方から飛んできたのを見た。その鵲は翼の広さが七尺、目の大きさは直径が一寸もあり、荘周の額を掠めて通りすぎると、栗林のなかに舞い降りた。荘周は、「この鳥はいったい何ものであろう。翼はでっかいが遠くまで往けず、目は大きいが物もよく見えず、こんな林のなかに舞いこんできおった」とつぶやきなから、着物の裾をからげて大股に歩み寄り、弾を手にとって射(う)とうとした。

ところが、ふと見ると、一匹の蝉が今しも恰好な木蔭を得て身の危険をも打ち忘れ、その背後には螳螂が鎌を振りあげて、つかみかかろうとし、その螳螂は螳螂でまた獲物を前にして己れの身を忘れていた。すなわち、このけったいな鵲が螳螂の後から良き獲物とつけねらい、その鵲はまた、獲物に見とれて本当の自分を忘れていたのである。荘周はその光景を見てぞっとして言った。「ああ、万物は本来、危害を加えあい、利欲を抱くものは利欲を抱くものと呼応しあうものである」と。彼は弾を棄てて身をひるがえし、やにわに逃げ出そうとした。すると栗林の番人が泥棒と間違えてあとを追っかけ、彼を無法者としてきびしくとっちめた。

さて、我が家に帰ってきた荘周は、三ヶ月間というもの、じっとふさぎこんでいた。それを見た弟子の藺且が彼のところに行ってたずねた。「先生はどうして近ごろひどくふさぎこんでおられるのですか」。すると荘周は答えた。「わたしは形あるものにしがみついてわが身を忘れ、利欲の世界の濁水に目を奪われて真理の世界の清淵を見失ったのだ。それにわたしはこんな言葉をわたしの先生からお聞きしているよ。『世俗の世界に住むかぎり、世俗の世界の掟に従え』とね。ところが今、わたしは雕陵に遊んでわが身を忘れ、けったいな鵲がわたしの額をなぶってゆきおった。そして栗林のなかをうろついて自己本来の在り方を忘れ、栗林の番人に泥棒と間違えられてこの辱めを受けたのだ。これが無心の処世を志す者として反省せずにおられようか。わたしがふさぎこんでいるのも、そのためなのだ」。(本書、p. 109-112)

蝉が木蔭に休んでいて、その蝉を螳螂が狙い、螳螂を鵲が狙い、鵲を荘周が狙い、そして荘周を山林の番人が追い払った。視線が数珠つなぎのように連鎖しており、獲物を厳しく監視していながら、誰も自分自身が見張られていることに気づかないという面白さがあります。

しかし、特に面白いのは、『荘子』の書名にもなっている荘周その人が、その連鎖の一部として組み込まれてしまっていることでしょう。郭象はさすがにこの点を見逃していません。「荘子はたとえ話によって言いたいことを伝える。孔子をけなし、老子を貶め、上は三皇を攻撃し、下は自分自身まで痛罵しているのだ」、と。

この話はきっと秦漢時代の人の心も捉えたことでしょう。「蝉を螳螂が狙い、螳螂を鵲が狙い、鵲を人が狙う」というモチーフが、『韓詩外伝』『説苑』『呉越春秋』に見えています(王叔岷『莊子校詮』、p. 761)。『韓詩外伝』を見てみましょう。

楚莊王將興師伐晉,告士大夫曰:「敢諫者死無赦。」孫叔敖曰:「臣聞:畏鞭箠之嚴而不敢諫其父,非孝子也。懼斧鉞之誅,而不敢諫其君,非忠臣也。」於是遂進諫曰:「臣園中有榆,其上有蟬,蟬方奮翼悲鳴,欲飲清露,不知螳蜋之在後,曲其頸欲攫而食之也。螳蜋方欲食蟬,而不知黃雀在後,舉其頸欲啄而食之也。黃雀方欲食螳蜋,不知童挾彈丸在下迎而欲彈之。童子方欲彈黃雀,不知前有深坑,後有窟也。此皆言前之利,而不顧後害者也。非獨昆蟲眾庶若此也,人主亦然。君今知貪彼之土,而樂其士卒。」國不怠,而晉國以寧,孫叔敖之力也。(『韓詩外傳』卷十。屈守元《韓詩外傳箋疏》,巴蜀書社,1996年,p. 870より)

楚の荘王という王様が晋の国を討とうとしたところ、孫叔敖がそれを諫めて「蝉を螳螂が狙い、螳螂を黄雀(マヒワ)が狙い、黄雀を人が狙う」話を語り、目先の利益に目を奪われることの危険を説いたものです。

この話が面白くないのは、鵲を狙ったのが「童」とされていて、まったくの他人事で、自分が連鎖に巻き込まれて落ち込むというような深刻さがないことです。陳腐なお説教です。

『説苑』はどうでしょうか。

吳王欲伐荊,告其左右曰:「敢有諫者死!」舍人有少孺子者,欲諫不敢,則懷操彈,於後園,露沾其衣,如是者三旦。吳王曰:「子來,何苦沾衣如此?」對曰:「園中有樹,其上有蟬,蟬高居悲鳴飲露,不知螳蜋在其後也!螳蜋委身曲附欲取蟬,而不知黃雀在其傍也!黃雀延頸欲啄螳蜋,而不知彈丸在其下也!此三者皆務欲得其前利,而不顧其後之有患也。」吳王曰:「善哉!」乃罷其兵。(『說苑』正諫。程翔《說苑譯注》,北京大學出版社2009,年,p. 229-230)

呉王が楚を討とうとし、それを少孺子が阻止するために、みずから園林に身を潜め、「蝉を螳螂が狙い、螳螂を鵲が狙い、そして黄雀を狙う自分」を演出する、という趣向です。ここでは、少孺子自身を脅かす者は何もありません。『韓詩外伝』と大同小異ですが、それよりもさらにつまらない話になっています。

先秦・漢代の書物には共通する話柄が多いことはよく知られ、それら話柄はアーカイブのように保存され共有された、とされていますが、それにしても、出来不出来の差は大きいものです。

『荘子』山木篇の一章が、身を忘れ真を忘れがちな現代の読者にも自己の反省を迫るものであるのに対し、他の両書の話は、臣下が君主の戦争好きを諫める陳腐なお説教でしかありません。この差は、とても大きなものであるように思われます。

登場する鳥が、翼を広げると七尺もある大きく異常なカササギ(『荘子』)から、小さなマヒワ(『韓詩外伝』『説苑』)へと変更されているのも、矮小化の表れの一つと言えましょうか。

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