輯略のはなし


内藤湖南「支那目録学」は、日本語で読める目録学史概説として、現在でもその価値と輝きを失っていません。このことは、すでに以前の記事で書いたとおりです。

しかし、内容的に同意しかねるところもあります。その一つが、『七略』の「輯略」に関する問題です。

『七略』とは、前漢の末期、劉歆(りゅうきん)という学者がまとめた、中国で初めての本格的な図書目録です。現在は伝わっていませんが、輯略・六芸略・諸子略・詩賦略・兵書略・術数略・方技略という七つの部分から出来ていたそうです。

この『七略』をもとに、現存最古の目録、『漢書』芸文志が出来ているのですが、両者の関係について、湖南は次のようにいっています。

 現存の支那の目録では、漢書の藝文志が最も古いものである。漢書は班固の生前には出來上らないで、その妹の曹大家が完成したものといふが、藝文志は班固自身の手に成つたものであらう。後漢の中葉、西洋紀元一世紀の終り頃に出來たものである。
大體、漢書藝文志は、班固が自分で書いた處は、最初の敍文ぐらゐの僅かばかりで、その全體の大部分は、劉歆の七略によつて書いたのである。七略の中の六略を採つて載せたので、七略の一つである輯略は藝文志には載せられてゐない。

湖南は「七略の一つである輯略は藝文志には載せられてゐない」といっています。また、湖南の敬愛する清朝の目録学者、章学誠も、その『校讐通義』において「班固は輯略を削って、六略だけをのこした」といっています。湖南はこの説を襲っているのでしょう。

しかし、多くの目録学者は、「輯略は、ちゃんと『漢書』芸文志に収まっている」と考えているのです。これについては、早く姚振宗(1842-1906)が『七略佚文』の序で主張しています。その結論は、現在、『漢書』芸文志に見える各分類の解説(「小序」と呼びます)は、「輯略」を分割して載せたものである、というものです。それゆえ、「輯略」は今も伝わっている、といえるのです。

この説が正しいであろうことについて、余嘉錫『目録学発微』巻二、「目録書体制三 小序」が詳しく考証しています。

なお、「班固が自分で書いた處は、最初の敍文ぐらゐ」と湖南がいう「最初の敍文」は、しばしば「大序」と呼ばれますが、この部分も、姚振宗によれば「輯略」を元にして書かれた、ということで、姚氏はそれを『七略』の佚文として『七略佚文』に載せています。

私も姚氏と同様、大序は、大部分、「輯略」の文章を踏襲したのではないかと思いますが、これについては、いずれあらためて考えてみたいと思います。

『七略』は滅んでしまったものの、『漢書』芸文志によって、その大体を知りうる、というお話でした。

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