姚名達の新鮮さ


姚名達(1905-1942)が、その著、『中國目録學史』(商務印書館,中國文化史叢書,1938)を「是の書は絶えて成熟の作には非らず」(自序)と認めたことは、以前のエントリーで紹介しました。

ところが姚名達は、この書物が未熟であることを認めつつも、同じその自序に、続けて自己の書物の独自の見解があると述べ、それらを次のように例示しています。

  1. 『別録』に「輯略」はなかったこと。
  2. 『詩』『書』は、いずれも叢書であること。
  3. 『隋書』経籍志の四部は、『七略』『七録』の嫡流であり、荀勗や李充の四部分類の後身ではないこと。
  4. 仏経を分類した『旧録』及び『別録』とは、支敏度の『経論都録』及び『別録』であること。
  5. 馬懐素が『七志』の続編を作ろうとしたのは、褚無量が「四部を整比」したのとは異なる仕事であること。

なるほど、目録学史上の、おもしろい論点ばかりです。今なお、学術史的な関心を喚起します。

ただ、こう列挙すると、姚名達が専門的に伝統的な目録学を治めたようにみえるかも知れませんが、そうではありません。姚氏は、積極的に西洋の学問(当時、「西学」と呼ばれた)を取り入れているのです。

たとえば、「分類篇」には「新分類法創造之嘗試」「西洋近代分類法之進歩」「杜威(Melvil Dewey)十進法之接受與修正」の3節を設け、また「専科目録篇」には、西学の諸分野に対応すべく「訳書目録」「哲理目録」「教育目録」「社会科学目録」「自然科学目録」「応用技術目録」などの創成を提案し、その具体的な方策を説いています。

さらに、「結論篇」は、「古代の目録学についての著者の感想」「現代の目録学についての著者の感想」「将来の目録学についての著者の感想」と3節に分かち、それぞれに対して自分の見解を披露しています。簡単な総括ではありますが、姚氏のバランスの良さをうかがわせます。

目録学の研究においては、得てして古代に対する視線が圧倒的なものとなりがちですが、姚氏のそれは、現状、そして未来への態度が極めて明確な学風です。

抗日目録学者、姚名達


姚名達目録学自序 近代は、魔物です。誰にもコントロールできない、巨大な波のように時代のうねり。日本と中国との関係も、近代の到来により、それ以前とはまったく異なるものとなりました。

 増幅される憎悪は、今なお、東アジア諸国民の間で渦巻いています。及ばずながら、各国・各民族の動きに気を配っていますが、すぐに効くよい薬もありそうに思えません。この一年、私はいつもより多く、中国人・台湾人・韓国人・ベトナム人の声に耳を傾ける機会がありましたが、人文学に打ち込む我が友人たちでさえ、この「国際政治」に戸惑っているように思われました。

まずナショナリズムありきの議論に、ここで付き合うつもりはありません。「日本人として、どう考えるんだ!」という議論の立て方は、物事の一面だけしか、明らかにしないでしょう。私は、同じ学者として、姚名達(1905-1942)の思いを追うことにします。

『目録學』が書かれたのは、1933年、姚名達は数えで言うと29歳の時でした。上海事変(一二八事変)の勃発は、その前年、1932年の1月28日。この事変で商務印書館は大きな被害を受け、その付属図書館であり、全国一の蔵書を誇ったという東方図書館も灰燼に帰してしまいました。商務印書館の被害は、それと深い関係にあった姚名達の人生にも、影響を及ぼさずにはおかなかったのです。『目録學』の自序の冒頭部分を訳出します。

 この小冊子は、「一二八」で商務印書館が焼かれた後に、あらためて書かれたものである。作者は、これと時を同じくし、地を同じくし、事情を同じくして、「国難の為に犠牲となり、文化の為に努力する」一人の人間である。

 商務印書館は、倭寇の火ひとつで業務を辞めて店をたたんだりはしないし、作者もまた倭寇の火ひとつでくさって意気消沈したりはしない。我が家は焼けたとしても、我が身はなお存しているのだ、敵が強かったとしても、我々があらためて爐とかまどを作るのを禁止できるはずがあろうか?

 ただ、親愛なる読者よ!全国でも蔵書が最も多かった東方図書館も、時を同じくし、地を同じくし、事情を同じくして、「化して焦土と為り」、作者がただただこの小冊子を書くために蒐集した二百種あまりの参考書も、それとともに「悉く劫灰に付され」、この小冊子のすでに完成していた原稿も「片楮も存せざる」こととなってしまい、描き終えた肖像画を思い出してみたところで、たいして似てもおらず、描き直した絵をなでてみたところで、結局あまり美しくもないものだ!

 読者よ!彼らは我らの文化を壊滅させようとしているが、我らはどのようにして我らの文化を発揚し、彼らに見せてやり、我々は打倒することも消滅させることもできない、ということを彼らに知らせることができるのか?!

姚名達が上海事変で失ったのは、『目録學』の原稿とその参考書ばかりではなく、その他の大量の原稿も同時に焼失したそうです。彼はことに若くしてなくなったので、この喪失を回復することはかないませんでした。

しかし、この序文に見える彼の強さは、当時の中国人読者を鼓舞したのみならず、数十年の年月を隔て、「倭寇」の子孫たる私にも、訴えかけるものが確かにあるのです。

姚名達の目録学研究、二冊


先日来、話題に挙げている、姚名達(1905-1942)は、民国時代の動乱のさなか、若くして国学研究に力を発揮し、名を遺して散っていった学者です。字は達人、江西省興国の人。有名な梁啓超(1873-1929)の学生です。

李万健『中国著名目録学家伝略』(書目文献出版社, 1993)は、目録学者の評伝として手頃なものですが、そこには「愛国目録学家姚名達」として立伝されています。

姚名達の書いた目録学史、二種は、学史に遺るものです。それらの目次をメモしておきます。

姚名達『目録學』(商務印書館, 萬有文庫,1933)
自序
第一巻 原理篇
第一章 目録學的定義
第二章 目録學的目的及功用
第三章 目録學的種類
第四章 目録學與各種科學的關係
第五章 目録學與圖書邢
第六章 目録的派別與目録學的派別
第二巻 歴史篇
第一章 目録學的起源
第二章 從七略到四部
第三章 佛經目録
第四章 道藏目録
第五章 幾個特出的目録學家
第六章 西學輸入與中西合流
第七章 目録學的趨勢
第八章 目録學年表
第三巻 方法篇
第一章 分類與編目
第二章 分類的方法
第三章 編目的規則
第四章 編目的方法
第五章 如何標題
第六章 檢字法的進歩
附録 目録學的參考書

『目録學』は、薄い書物でありながら、各章の下にさらに節を設け、細分化されすぎていて、僅かに1ページという節も多いのです。全体は構造化されているので、場当たり的ではありませんが、これではまるで一問一答のようです。若い天才の才気を感じさせますが、熟してはいません。そこで、『目録學』を土台として、次の『中國目録學史』が生まれました。

姚名達『中國目録學史』(商務印書館, 中國文化史叢書,1938)
自序
叙論篇
溯源篇
分類篇
體質篇
校讎篇
史志篇
宗教目録篇
専科目録篇
特種目録篇
結論篇

姚名達自身は、この書物についても「是の書は絶えて成熟の作には非らず」(自序)と述べており、確かに才気のほとばしりをうまく押さえることができていませんが(「宗教目録篇」に紙幅が割かれすぎていることなど)、前作をよく消化して新たな境地を開いており、十分に批判に耐える目録学史になっています。

民国時代以来、山ほどの目録学史が出版されていますが、目録学に関心をお持ちの方に、第一にお勧めしたいのはこの書物です。

中国文化史叢書


中国文化史叢書 前回、姚名達『中國目録學史』(商務印書館, 1938)の名前を出した際、久しぶりに、戦前の商務印書館の「中國文化史叢書」のことを思い出しました。

 といっても、私は弱輩者ですから、1930年代のことは存じません。大学院に入りたての頃、この叢書の存在を知り、「これだ!」と感動したことを思い出しただけです。

 1897年、上海に設立された商務印書館は、張元済(1867-1959)の奮闘により、まさに近代中国を代表する大出版社となりました。伝統中国を研究する人には、ことに「四部叢刊」「百衲本二十四史」「叢書集成」がなじみ深いでしょう。ハンディな文庫本のシリーズ「万有文庫」も、近代における啓蒙を力強く支えました。

 今日、ご紹介したいのは、その商務印書館が1936年から1939年にかけて出版した「中國文化史叢書」(王雲五, 傅緯平主編)です。長い歴史を有する中国文化を、近代的な感覚で総括した通史のシリーズです。以下にその目録を挙げますが、「これだ!」と思っていただけますでしょうか?

 王雲五, 傅緯平主編「中國文化史叢書」第1輯は、次の通り。

 『中國經學史』馬宗霍著.商務印書館, 1936
 『中國文字學史』胡樸安著.商務印書館, 1937
 『中國理學史』賈豊臻著.商務印書館, 1936
 『中國算學史』李儼著.商務印書館, 1937
 『中國田賦史』陳登原著.商務印書館, 1936
 『中國度量衡史』呉承洛著.商務印書館, 1937
 『中國鹽政史』曾仰豐著.商務印書館, 1936
 『中國醫學史』陳邦賢著.商務印書館, 1937
 『中國法律思想史』楊鴻烈著.商務印書館, 1936
 『中國商業史』王孝通著.商務印書館, 1936
 『中國政黨史』楊幼炯著.商務印書館, 1936
 『中國陶瓷史』呉仁敬, 辛安潮著.商務印書館, 1936
 『中國交通史』白壽彝著.商務印書館, 1937
 『中國繪畫史』兪劍華著.商務印書館, 1937
 『中國南洋交通史』馮承鈞著.商務印書館, 1937
 『中國駢文史』劉麟生著編.商務印書館, 1936
 『中國殖民史』李長傅著.商務印書館, 1937
 『中國考古學史』衞聚賢著.商務印書館, 1937
 『中國婚姻史』陳顧遠著.商務印書館, 1936
 『中國民族史』林惠祥著.商務印書館, 1936

 王雲五, 傅緯平主編「中國文化史叢書」第2輯は、次の通り。

 『中國目録學史』姚名達著.商務印書館, 1938
 『中國訓詁學史』胡樸安著.商務印書館, 1939
 『中國水利史』鄭肇經著.商務印書館, 1939
 『中國音韻學史』張世祿著.商務印書館, 1938
 『中國倫理學史』蔡元培著.商務印書館, 1937
 『中國漁業史』李士豪, 屈若搴著.商務印書館, 1937
 『中國道教史』傅勤家著.商務印書館, 1937
 『中國建築史』伊東忠太原著;陳清泉譯補.商務印書館, 1937
 『中國税制史』呉兆莘著.商務印書館, 1937
 『中國音樂史』田邊尚雄著;陳清泉譯.商務印書館, 1937
 『中國政治思想史』楊幼炯著.商務印書館, 1937
 『中國韻文史』澤田總清原著;王鶴儀編譯.商務印書館, 1937
 『中國救荒史』訒雲特著.商務印書館, 1937
 『中國散文史』陳柱著.商務印書館, 1937
 『中國教育思想史』任時先著.商務印書館, 1937
 『中國俗文學史』鄭振鐸著.商務印書館, 1938
 『中國日本交通史』王輯五著.商務印書館, 1937
 『中國地理學史』王庸著.商務印書館, 1938
 『中國婦女生活史』陳東原著.商務印書館, 1937
 『中國疆域沿革史』顧頡剛, 史念海著.商務印書館, 1938

 錚々たる学者たちがここに名を連ねています。断言は出来ませんし、分野による違いもあるでしょうが、全体として、完成度の高いものが多いと思います。これを3年程度で出してしまうのですから、時代の勢いを感じます。

 もちろん、全部読破して常識を身につけたいとは思ったのですが、私が目を通したのは、結局、『中國經學史』『中國文字學史』『中國度量衡史』『中國目録學史』『中國訓詁學史』くらいのものでした。今からでも、おそくはないでしょう。あらためて、もう数冊、読んでみようと思っています。

 なお、手元にある『中國目録學史』の末尾に「中國文化史叢書」の広告が載っており、基本的にそれと照らし合わせて、上記の紹介をしたのですが、元の目録からの変更点がひとつあります。第2輯の3番目が、元の目録では「『中國哲學思想史』汪馥泉譯述」となっているのですが、それが結局、完成しなかったらしく、『中國水利史』に置き換わっているのです。

 また、1939年に「中國文化史叢書」の一つとして、郭箴一『中國小説史』というのが出ているのですが、これは出版計画のどこに納まるものなのか、不明です。

 興味をひかれるのは、『中國建築史』『中國音樂史』『中國韻文史』と三つまでも、日本人の著作が採用されていることです。おそらく出版に到らなかった『中國哲學思想史』も、同様でしょう。日本は1932年の上海事変(一二八事変)で、商務印書館の建物を焼き、多大な損害を与えましたから、当時の商務印書館は反日であったような印象を持っていたので、少し不思議に思いました。姚名達などははっきりと反日です(「愛国目録学者」の異名をとる)。どのような経緯で選書が進められたのか、知りたいものです。

湖南と仏経目録


内藤湖南「支那目録学」の中で、もっとも納得のゆかない部分をひとつ。それは、仏教書の目録に対する評価です。

 阮孝緒の頃は、僧祐が出三藏記を作つた頃であるが、これはもつと便宜的の目録で、殆ど學問上の意味をなさない。大體佛教の方の目録は、その後まですべて索引目録が主で、内容目録になつたことはない。佛教學者には目録の智識は發達しなかつた。

僧祐(445-518)の『出三蔵記集』といえば、仏教目録の金字塔です。一五巻の内訳は以下の通り。

  • 撰縁記:巻一
  • 詮名録:巻二-五
  • 総経序:巻六-一二
  • 述列伝:巻一三-一五

「撰縁記」は経典の成立を説いた記事を集めたもの、「詮名録」は目録、「総経序」は経典訳出の際につけられた序文を集めたもの、「述列伝」は訳経者の伝記、と、非常に周到に組み立てられています。特に、目録を補佐する「撰縁記」「総経序」「述列伝」の周到さは、同時代の一般書の目録を遥かに凌駕しています。湖南の「便宜的の目録で、殆ど學問上の意味をなさない」などいう評価は、とんでもない誤りです。

1938年に「中国文化史叢書」の一冊として出版された姚名達(1905-1942)の『中国目録学史』は、「宗教目録篇」という篇を設け、大きな紙幅を割いて仏経目録を熱く論じました。なかでも『出三蔵記集』については、きわめて詳しく紹介しています。

 遥かに安録(道安『綜理衆経目録』)を続ぎ、近く『別録』(『衆経別録』)を接ぎ、一切の経録を嚢括しその大成を集むる者は、釈僧祐の『出三蔵記集』為り。

姚名達は、僧祐の「撰縁記」は、劉歆『七略』が学術の源流を論じたのに相当し、「総経序」「述列伝」は劉向の解題に当たる、といいました。僧祐のこの目録がこれほどまでに成功し得た理由も、詳しく説明してあります。

仏書目録の意義とその到達点を見誤っている点が、湖南目録学の最大の弱点であろうと思います。

湖南の毒


内藤湖南(1866-1934)が毒を含む人であったことは、周知のことでしょう。以前にご紹介した「支那目録學」の一節に、次のような言がありました。

 目録學は支那には古くからあるが、日本には今もつて無い。……。かの佐村氏の「國書解題」などでも、箇々の書の特質を標出し得ずして、何れの書にも同樣の解題をしてあるやうな處があつて、解題の意味をなさぬものがあるが如きである。(「支那目録學」、『内藤湖南全集』巻12、筑摩書房、1970年所収)

ここに見える「佐村氏の「國書解題」」について、『内藤湖南全集』第一二巻に収める『目睹書譚』には、もっと過激な非難が見えるのです。

 裒然たる大冊にて、打ち見るより其の勞苦の思ひやらるること、經濟雜誌社の人名辭書、社會事彙などにも劣らじと見ゆるは、佐村八郎氏の國書解題なり。然るに此書ほど無用の勞苦を積み、無用の大冊を成就したるは、亦想像の外にあり。著者の盲目的勉強は實に氣の毒の至りといふの外なし。著者は實に解題の書を作るに於て、其氣力あるのみにて、其の才能と學識とは、全然缺乏せる者なり。(『目睹書譚』「野籟居讀書記」、『内藤湖南全集』巻12、筑摩書房、1970年所収。初出は明治33年7月20日の「日本人」。以下同じ)

湖南の罵言は、さらにこの書物の序を書いた著名人たちにも向けられます。

 此書の如く序文題詞の賑はしきは、近來に未だ見ざる所なるが、木村正辭、井上哲次郎二氏の外は、多くは一通りの無責任なる御世辭をならべたるは、我邦序文の常とて、怪しむにも足らねど、中には之を四庫全書提要に比したるなどあり、著者にして愚物にあらざる限りは、慙汗背に浹ねかるべし。

さらに具体例を挙げて非難を加えた上で、最後に、こうたたみかけます。

 この著者の腦は、全く記憶、比照、概括の能力なきかと疑はるるばかりに、粗雜を極めたり。著者にして若し學術界の為に、忠實に「國書解題」なる題目に副ふに足るべき著述を貢獻せん熱心あらば、須らく此の成書を焚て、最初より改め編すべきなり。著者の目的は、決して書肆の廣告、新聞紙の書籍紹介よりも劣れる反古同然の大冊を徒勞して作るのみにはあらざるぞかし。

麗々しい序文を掲げ、よい装丁に包まれた、この「反古同然の大冊」は、何回も出版を重ね(増訂、と称して)、現在もなお、各図書館の参考書室の一番よい席を占めています。外見重視の風潮を打ち破るには、湖南の義憤も無力であった、と言えそうです。

『《漢書・芸文志》研究源流考』


以前のエントリー「目録学について」で、次のように書きました。

なにより残念なのは、目録学に関する自分の理解が一向に深まらないことです。むしろ、最近では混乱をきたしています。その原因を考えてみて、適確に学説を整理せず、いい加減に読み飛ばしてきたことに思い至りました。目録学を勉強しなおすつもりです。

目録学というのは、二千年にわたる、大きな蓄積のある学問ですから、学説の整理だけでもたいへんなのです。きわめつけは中国最古の書目、『漢書』芸文志に関するものです。

『漢書』芸文志をめぐる学説の整理は、これまで十分には行われたことがなく、本書に冠せられた蔣宗福氏の序文にもあるとおり、研究の空白地帯でした。そういう意味で、この書物には期待していました。

 傅栄賢『《漢書・芸文志》研究源流考』(黄山書社, 2007)

6章から構成されるこの書物は、歴代の『漢書』芸文志研究を、4つに分けて検討しています。

  • 第2章「歴代史書注解派」(18節から成る)
  • 第3章「歴代目録本体派」(19節から成る)
  • 第4章「歴代学術考辨派」(11節から成る)
  • 第5章「歴代専題派」(14節から成る)

検討対象になっている研究の数が多いので、何かしら分ける必要があったのでしょうが、それぞれ「派」と呼ばれてもピンときません。流派と言えるような継承関係も想像できません。『漢書』注釈の一部として芸文志の研究をした「歴代史書注解派」が、目録学者たちの研究と性質を異にすることは理解できるのですが、その他の三つは便宜的に分けたとしか思えません。

それぞれの節において、いちいち学者の経歴・著書・学説を紹介しているのですが、どこかで見たことのある紹介がほとんどです。

とはいえ、近代の目録学研究における説の前後関係・影響関係などが明らかにされているのは、本書の長所でしょう。劉紀沢『目録学概論』は1931年に出版され、一方、余嘉錫『目録学発微』は1932年から1948年にかけての講義録です(正式出版は1963年)。一見、劉氏の著作が先行しているようですが、劉氏の書物の各章節に「武陵余氏の説を参用す」との注記があることに注意を促しています。

細かく見てゆくと、さらにおもしろい論点があるかもしれませんが、冗漫な記述が多いのは確かです。

*Webcat所蔵図書館 8館(本日付)。

「許?師?」の答え


 先日のクイズの答えです。お答えをお寄せくださった、中川さんと昭夫さん、どうもありがとうございました。

(一)「一番上のおかしな文字は「許」と読めるのでしょうか?」の答え。

キョ この字は、「無」の下に「邑」があるようにしか、見えません。『説文解字(せつもんかいじ)』に当たって調べてみましょう。『説文解字』といえば段玉裁注本です。経韵楼本の影印本がよいでしょう。「邑」の部首から「鄦」字を見いだします。

 「鄦、炎帝大嶽之胤、甫侯所封。在潁川。从邑無声、読若許〔虚呂切、五部〕」。

 その段注に言います。大嶽の息子である甫侯が封じられたのは潁川(河南省)の「鄦」という地であり、「鄦と許とは、古今字なり」。「古今字」というのは、同義・同音でありながら、時代により異なる形の字を用いた、という関係を表します。「漢の字にては許に作り、周時の字にては鄦に作る」と段玉裁は言っています。

 一方の「許」字を『説文解字』で引くと次のようにあります。

 「許、聴言也。从言午声〔虚呂切、五部〕」。

 こちらは「許す」という意味が本義、ということになります。

 「許学叢書」の「許」とは、『説文解字』の作者、許慎のことです。姓としての「許」は、もともと、どのように表記したのか? 『説文解字』に基づくなら「鄦」であろう(姓は地名に由来するものが多い)、というのが、清朝の学者たちの考えです。特に篆文で表記する場合、『説文解字』の権威は絶対でした。それで「鄦」の字が用いられているわけです。

 写真の字の場合、「鄦」と釈読するのがよいと思います。しかし、(古今字の関係にある)「許」と釈読しても大過ない、というのが、一応の答えです。

(二)「なぜ、「獅石山房」とせずに、「けものへん」を省いたのでしょう?」の答え。

 もちろん古代の中国に、ライオンは生息していませんでした。それゆえ、古くは「獅」という漢字がなく、当然、『説文解字』にも載っていません。『漢書』西域伝の上に烏弋という土地の名物として登場するのも「師子」です。漢代においては、「獅子」は「師子」と書かれたわけですね。姚振宗にとって「獅」字は根拠の薄い字、典雅でない字、と見えたはずです。それゆえ、「獅」を避けて「師」が用いられた、と考えられます。

 清朝の初期には、『説文解字』は広く知られた書物ではありませんでした。かの顧炎武(1613-1682)すら、まともな『説文解字』を見たことがなかったといいます(頼惟勤『説文入門』参照)。その後、「小学」熱が高まり、段玉裁(1735-1815)『説文解字注』を頂点とし、『説文解字』は清朝人の意識に深く根を張りました。清朝の後半期に生きた学者、文人たちは、『説文解字』の用字に非常に敏感で、それに従おうとする規範意識が顕著です。

 「獅」が『説文解字』に載らない字であるから、というのが答えです。

 このように見ると、先日の二つの質問に対しては、いずれも『説文解字』に従う意識が選ばせた用字、と答えることができそうです。

The Writing of Official History Under the T’ang


『ケンブリッジ中国史』(“The Cambridge History of China”)の編者として、つとに有名な碩学、トゥウィチェット氏の著書、唐代に編纂された歴史記録を網羅的に研究したものです。

Denis Twitchett, 
The Writing of Official History Under the T’ang,
Cambridge University Press, 1992

トゥウィチェット氏が中国の史書に向ける視線は明確です。

 The modern historian concerned with the earlier periods of Chinese history remains heavily dependent on the material contained in the standard dynastic histories. It is therefore essential for him to subject the texts of these works to the most rigorous critical scrutiny, for they are rarely the simple product of a single author or group of compilers that they appear to be at the first sight. (p.3)

単純な史料理解を排除し、史料の複雑さを厳密に吟味しようとするその姿勢は、目録学の精神にも合致します。

その全体は、第1部「官的組織」、第2部「歴史記録の編纂」、第3部「旧唐書」から構成されています。第1部で史書編纂の制度的な枠組みを明瞭に記し、第2部では種々の歴史記録具体的な編纂過程、いずれ正史へと組み上げられるべき諸資料の成り立ちを示し、第3部では『旧唐書』が形成された過程を遡ります。きわめて安定した構成と言えましょう。

もっとも大きな紙幅が割かれているのは第2部で、ここでは唐が国家として編纂した諸記録、「起居注」(第4章)、「内起居注」(第5章)、「時政記」(第6章)、「日暦」(第7章)、「伝記」(第8章)、「諸機構の歴史、類書、及び文書の蒐集」(第9章)、「実録」(第10章)、「国史」(第11章)、といった記録・歴史書の編纂の過程が詳しく論じられています。網羅的な研究にありがちな、単に正史・会要から該当個所を抜いたようなものとは大きく異なり、周到な考察が加えられ、いちいち、うならずにはおれません。

出色は、第9章でしょう。史館に籍を置く史官、そして起居郎などの専門的に記録を司る担当者以外にも、唐代の官僚機構において、さまざまな職務の人々が歴史記録を編纂したことを逐一追っています。たとえば、類書、後に正史の「志」になる記録、壁記など、見落とされがちな部分を詳しく取り上げています。

粛宗の乾元年間(758-760)、柳芳が完成させた『国史』に「志」の部分が含まれていたこと、その後も「志」相当の書物の編輯がさまざまに続けられたことなど、非常に興味深く読みました。

個別の編纂についての細部がしっかり記述されているのみならず、構成がよく練られているため、その細部を通して「唐の公的な歴史編纂」の全体像が浮かびあがります。細部と全体とに向けられた興味のバランスが絶妙の一冊です。

“The Writing of Official History Under the T’ang” Webcat所蔵図書館 17館(本日付)。
薄いのに高い書物です。このシリーズはすべてそうなのですが。こういうものこそ、所属先の図書館、公共図書館に申請して購入してもらいましょう。

許?師?


許学叢書 今日はクイズを出させてください。先日来、遊んでいる、姚振宗関係から二題です。

 (一)右の写真は、姚振宗の親友、陶方蒅の著書『許君年表』を収める「許学叢書」の封面(タイトルページ)です。「学」「叢」「書」はよいとして、一番上のおかしな文字は「許」と読めるのでしょうか?

 (二)姚振宗の号は、獅子型の奇石にちなみ、「師石山房」と名付けられました(エントリー「快閣?師石山房?」参照)。なぜ、「獅石山房」とせずに、「けものへん」を省いたのでしょう?

 お答えをコメント欄までお寄せください。このブログの読者は非常に少ないので、すぐにお答えをちょうだいできるとは思いませんが、どなたか、同好の士があれば、お願いします。気長にお待ちします。プロの方は、今回はご遠慮願います。

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