姚振宗の親友


昨日のエントリーの続きで、陶存煦「姚海槎先生年譜」に見える、姚振宗(1842-1906)の生活、特にその交友関係をご紹介します。

少なくとも、この簡略な年譜を見る限り、姚振宗には多くの友人がいたようには思われません。頻繁に名が現れるのは、有名な陶方琦(1845-1884)、その従弟の陶濬宣。その他の有名人としては同じ紹興出身の李慈銘(1830-1895)が見えます(光緒二十年の記事に「先生と塗轍を微かに殊にするも、然れども両人交わること亦た極めて相い契う」とある)。

特に仲がよかったのは陶方琦です。一般的に、年譜には親しい友人の経歴もあわせて書きますが、姚振宗が四歳であった道光二十五年(1845)の記事に「知友、会稽の陶方琦、生まる」とあります。姚振宗が「快閣」の主となってからは、「快閣後記」を執筆しています。科挙に成功しなかった姚振宗とは対照的に、陶方琦は光緒二年(1876)に進士となり、翌年、湖南学政となっています。

その後も二人の篤い交友は続きました。光緒十年、陶方琦が一大プロジェクト、『湖北通志』編纂を監修していたのですが、その「芸文志」部分の執筆を姚振宗に任せます。ところが、思わぬ事に、この年の十二月二十四日、その陶方琦が亡くなってしまったのです。享年、四十歳。年譜の記事にこうあります。

 先生、時に方に『湖北芸文志』を撰す。訃を聞きて大いに慟して曰く「黄壚の人、逝けり。吾、此を撰するも、将(まさ)に何れの為にかせんや」と。先生と方琦と、交わること最も契う。因りて結びて児女の親家と為る。方琦 許鄭(許慎・鄭玄)考証の学に精しく、先生は蔵書に富めり、両人は爾汝し(「爾」「汝」と遠慮なく呼び合い)、交わること兄弟の如きなり。

「黄壚」は、一般的には、黄泉の国を指しますが、この場合、当てはまりません。出典は『世説新語』にある王戎のはなしです。王戎がある時、黄さんという居酒屋(壚)の前を馬車で通り過ぎたところ、今は亡き親友、嵇康・阮籍とこの店で酒を飲んだことを思い出し、哀悼の念がこみ上げた、というものです。私も友人と酒を飲むのが好きなのですが、この比喩を用いる以上、姚振宗と陶方琦との間にも酒があったと考えてよいでしょう。もちろん、その酒は紹興酒であるにちがいありません。

以前に姚振宗を紹介したところ、昭夫さんがコメントをお寄せになり(2009年7月3日の記事へのコメントとして)、「許學叢書」というシリーズの第1集に収められている、陶方琦『許君年表攷』(張氏儀許廬, 光緒10年刊本)を指摘して下さいまして、早稲田大学のopacによると、この書物の附録に姚振宗の識語が含まれる旨、教えていただきました。この叢書は珍しいものではないのですが、今ちょっとすぐには確認できません。姚振宗と陶方琦の交友に関心を持つ者として、いつか検討します。

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「姚振宗の親友」への2件のフィードバック

  1. 早大のページは「画像情報」をクリックすると、ものが見られるようになっているようであります。追加でお伝えいたします。

  2. なるほど、便利です。さっそく、『礼記子本疏義』と『玉篇』、ダウンロードしました。『許君年表』は、そのうち『北京図書館蔵珍本年譜叢刊』に所収の抄本と比べてみたいと思います。昭夫さん、もしご興味がおありなら、どうぞお調べください。

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