『辞源』合訂本の思い出


私がもっとも愛する辞書として前回、その名を挙げた『辞源』ですが、これは民国時代に商務印書館が出して以来、長い歴史がありますから、買う時には注意が必要です。

私の推薦している『辞源』は、1979年に出た「修訂本」のことです。それ以前の版、及び台湾から出ているそれらを影印した版は、買わないでください。

1979年の「修訂本」は4冊でしたが、その内容を1冊本にしたのが、くだんの「合訂本」です(1988年が初版。一足早く、香港から1987年に同じ内容の「合訂本」が出ました)。

私はこの「合訂本」を2冊引きつぶし、現在、3代目を使っていますが、製本面から言うと、香港版が一番、長持ちしました。もしコンディションのよい香港版が入手できそうでしたら、お勧めできます。

学部生の頃、初めてこの「合訂本」を買い嬉しくて嬉しくて、毎日、大学に持参していました。ある先生に「『辞源』の1冊本?それだと老眼になった時に困るよ。かさばるけど、4冊本を買うべきだった」と言われました。しかし、当時から、私はその辞書を引きつぶすことを確信していました。

「引きつぶす」といっても、ピンとこないかも知れません。まず、かかっているカバーが破れ、捨てざるを得なくなります。そのうち、堅い表紙が表裏とも外れます。すると、表側の「難検字表」とか、裏側の付録類が1枚1枚外れてゆきます。だんだん薄くなってくるんです。さらに「一」の字の説明とか、索引がとれはじめ、同時に、本が手垢で汚れ、汗臭くなります。こうなると、もう「引きつぶした」状態です。新しい本を購入すべきタイミングと言えましょう。

製本屋に頼んで、ビニールのカバーに付け替えてもらうと、長持ちするかも知れません。一度、試してみるつもりです。

ただ、もしかすると、製本にはこだわらなくてもよいかも知れません。私みたいに『辞源』ばかり引いている人間をあまり見たことはなく、私の使用頻度が多すぎるだけかも知れないので。

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私の愛した辞書


辞書が好きで好きで、たまりません。「辞書を引かなかった日が、一日でもあるか?」物心ついて以来、そんな日があったとも思えません。今でも、1日30回くらいは、いろんな辞書を引きます。

今日はちょうど、新村出に関する学術発表を聴いたので、辞書のことをあらためて考えさせられました。思ったのは、やっぱり私は辞書が大好きだ、ということです。新村出に対する思いも、言い尽くせぬものがあります。

そんな私の「好きな辞書」をランキングします。以前、他のブログ「文言基礎」で、「2番目に好きな辞典は『新華字典』」と告白しておきましたが、今回はthe top 9をまとめてみます。百科事典・特殊辞典の類は省きます(それらを漢学では「工具書」と呼んでいますが、とんでもない数のものが有ります。挙げ尽くせません)。

  1. 辞源(修訂本)/とにかく大好き。大学に学費を払っていた頃は、毎晩、抱いて寝ていました。現在は妻子があるのでそうもいきませんが、でも、今も大好きです。
  2. 新華字典/「文言基礎」の読者なら、ご存じでしょう。私にとって、完璧な字書です。諸版、そろえています。
  3. 広辞苑/大学生の頃、毎日引いて、ほとんど全部読みました。この辞書のない生活は想像もできない。古い版も必備でしょう。「電子辞書でいい」など、もってのほか。
  4. 辞通/中国語とは何か?常に私に問いかける刺激的な辞典。
  5. 経籍籑詁(けいせきせんこ)/とにかく手に馴染む。無人島に持ってゆくなら、『辞源』か、これでしょう。
  6. Longman Advanced American Dictionary/これも完璧な辞典。もうこれ以上、new edition を出す必要もないのでは?
  7. 漢語大詞典/これ無しには仕事にならないでしょう。私より速く引ける人は、世界中に何人いるのか?
  8. 辞海/好かんと言いつつ、やはり便利に使わせてもらっています。
  9. 聯綿字典/着想が何ら浮かばないとき、創造力を刺激してくれます。

これ以外の字書・辞書、ほとんど見ませんね。もちろん、『爾雅』とか『方言』とか『説文解字』とか『広雅』とか『玉篇』とか『広韻』とかいった、古典的な字書は別ですよ。

それ以外にも、厳しい競争のある研究世界でmake a differenceを実現するために、いろいろと見る字書・辞書は、もちろんありますが、「本当に好きな辞書」は、上に挙げたものくらいです。

辞書好きが昂じると、自分で辞書を作りたくなるらしいのですが、幸い、まだその徴候は現れていません。

朱起鳳の略伝


先日、ご紹介した、陳玉堂『中国近現代人物名号大辞典』によって、『辞通』を書いた朱起鳳の略伝をメモしておきます。

 朱起鳳(1874-1948)、浙江省海寧の人。アザナは丹九、室名は古歓斎(『古歓斎雑識』の稿本があり、中に章太炎の『菿漢大師聯語』未収の対聯を収める)。光緒十八年の廩生、硤石図書館館長・海寧国学専修館教員などを歴任。
後に、中国同盟会に加入し、武昌革命(1911年)が起こると、鉄道の専門家、徐策は北伐軍に協力して北上し、長江一体に鉄道大隊を組織したが、この時、朱起鳳は秘書に任じられた。民国元年(1912年)、津浦鉄路南局秘書に任じられた。後に、袁世凱討伐運動に参加。
第二次革命(1913年)の失敗後、郷里に退居し、門を閉ざして著述を行った。三十年の年月をかけて巨著『辞通』を完成させた(1982年、重印本の呉文祺「重印前言」に詳しい)。さらに『字類弁証』の著作がある。次男は呉文祺。

大動乱の中で学問・著述を行った、前世紀の学者たちには、本当に頭が下がります。彼らと同じくらいの真剣さで学問に打ち込みたいものです。

呉文祺の「重印前言」は未見ですが、もし有益な記述が有れば、あらためてご紹介します。

*朱起鳳撰『辭通』,續編:呉文祺主編; 呉君恒, 鍾敬華, 呉嘉勳編撰(上海古籍出版社, 1982) Webcat所蔵図書館 77館(本日付)。

『辞通』の価値が分からない人々


 1934年、開明書店は朱起鳳(1874-1948)の『辞通』を出版しました。この書物の出版に際しては、多くの著名人が序文を寄せました。章炳麟・胡適・銭玄同・劉大白・林語堂・程宗伊の諸人です。まことに多彩な顔ぶれで、序文だけでも、たいへんに読みごたえのあるものです。

 中でも、私がおもしろいと思うのは、銭玄同(1887‐1939)の序文です。1934年1月、『辞通』の見本数巻分を示された銭玄同は、さっそくそれを読みました。

 私はそれを慌ただしく一通り読み、この書物が、一つのことばの様々な変形を集め、「某は某の音近きの仮借なり」、「某は某の義同じきの通用なり」、「某は某の字形の譌舛なり」などと説明したものであることを知った。
 さらに、本来は別々のことばであるのに、音が近く通写されるために混乱して区別しがたいもの、たとえば「君臣」と「群臣」との関係は、意味が異なるのに、「君臣」を「群臣」と書いたり、また「群臣」を「君臣」と書いたりするが、こういった類については、それらを分けて、いちいち説明を加えてある。

 以上のように『辞通』の内容を紹介した後、銭玄同は次のように評価を加えます。

 およそ先人の「文を望みて訓を生ず」る弊害を、この書物では少なからず訂正しており、先人の「知らざるを蓋闕す」ることについても、この書物は少なからず究明している。書物の中に、先人の精確な説についてはもちろん採用してあるが、ただし朱先生みずからの独創が実に多く、すべての条にどれも彼の独得の見解が示されているといってもよいほどである。…。語言文字の学に関する前代の著作のうち、創見が最も多いのは、黄生の『字詁』と『義府』、方以智の『通雅』、王念孫の『広雅疏証』、朱駿声の『説文通訓定声』の数書ほどしかない。朱先生の『辞通』は、創見の多さではそれら諸書に劣っておらず、むしろ凌駕しているとさえいえよう。

 言語に関わる著作として、最高級の評価が与えられていることが分かります。さらに、銭玄同は、『辞通』が、他の巨大字書・巨大辞書とどのように異なるのかを次のように語ります。

 清の聖祖、愛新覚羅玄燁の『康煕字典』と『佩文韻府』の両「劣書」にいたっては、でたらめに編纂されたもので、欠点ばかりであり、抜き書きすら不十分で、精通していないというレベルをも、はるかに下回るほどなのに、学のない連中は、それらの巨大さに驚き、大切な書物として奉じており、ひどいのになると西洋人の吐き捨てた余りものを有り難がり、この二つの「劣書」を中国のことばの宝庫であると見なし、今後、辞典を編纂するには必ずこれら二つの「劣書」を主要な資料とすべし、とまで考えているのである。
 このような連中は、決して『辞通』の価値を理解できぬに違いない。彼らは朱先生の創見について「武断である」と退け、『辞通』の案語の簡潔さについても「固陋である」と退けるやも知れないのだ!

 銭玄同の『辞通』評価が完全に正しいか否かの判断は、我々読者の一人一人の検討にゆだねられるとしても、私は、銭氏の怒りにかなり共感することができます。辞典の質ではなく、その厚さでしか価値をはかれぬ輩は、いつの世にも多いものです。そして、そういう輩の発言力の方が圧倒的に強いこと、これもいつの世にも変わらぬことでしょう。

首施とは何ぞや?『辞通』編纂始末


朱起鳳(1874-1948)が、30年の時を費やして作った『辞通』。朱氏の「自序」から、彼がこの書の編纂に傾けた熱い思いを知ることができます。

中国には「字典」有りて「辞典」無し。即(も)しこれ有るも、六書の仮借の例に於いて、槩(すべ)て未だこれに及ぶこと有らず。『玉篇』は形を類するも声を類せず、『広韻』は声を類するも形を類せず。乃ち進みてこれを古に求むれば、則ち(司馬)相如の『凡将』のごとき有り、則ち(楊)子雲の『訓纂』のごとき有り、孔鮒に『小爾雅』有り、史游に『急就章』有るも、僅かに大凡を挙ぐるのみにして、未だ能く賅備せず。略せるには非ず、時代の然らしむるなり。

その後、秦の焚書以降、中国の書物の表記が悪くいえば混乱し、よくいえば多様となった様子を描き、要するに、その理解に多大な困難を伴うようになったと説き、さらに、朱氏は『辞通』撰述の直接の動機を語ります。

 前清の光緒季年、秣陵より帰り、靦(は)ずらくも講席を主(つかさ)どり、月ごとに策論を以て士に課す。巻中に「首施両端」を徴用する者有り、以て筆の誤りと為し、これを輒代更正するに、院を合して大いに譁し、書を貽りて嫚罵し、乃ち事の范史(范曄『後漢書』)に出づることを知り、并びにこれより前の読書の太(はなは)だ疎略なることを知るなり。

 是に嗣いで古人の札記の法を用い、目に見る所有らば、輒ち手に従いて写録し、時を閲すること既に久しく、帙を積むこと遂に多し、初め『読書通』と名づけ、今命じて『辞通』という。

朱起鳳が間違えた「首施」は、「首鼠」「首尾」などとも表記し、「どっちつかず、宙ぶらりん」の意味を持つ連語なのですが、朱氏はそれを知らなかったがために、恥をかいたのです。彼の非凡さは、この苦い経験を糧として、超人的な努力を積んだことにあります。

ただ、「時を閲すること既に久しく、帙を積むこと遂に多し」というのは、一種の謙辞であり、単に機械的なnote takingの作業を重ねて『辞通』ができたわけではありません。辞書の内容に反映されている、その見識の高さこそ、賞賛されるべきものでしょう。それについては機会を改めて述べたいと思います。

*朱起鳳撰『辭通』(上, 下. 開明書店, 1934) Webcat所蔵図書館 37館(本日付)。
*朱起鳳撰『辭通』(長春古籍書店, 1982) Webcat所蔵図書館 13館(本日付)。私はこれを使っています。

音に因りて義を求む


 「望文生義」ということばがあります。「文を望みて義を生ず」と訓じます。漢字の字面をながめて、ありもしない意味をひねり出す、という意味です。むろん、そんなことをしてはならないという戒めのことばで、中国古典を読むに際しては、しばしば注意されることです。

 しかし、この戒めを守ることは、実はなかなか難しいことです。多くの文字で表記された他の言語が、「表音的」に表記されているのに対し、漢字は「表音的」でないからです(なお、私は漢字が「表意的」だとも思いません。「表音/表意」のdichotomyが有用とは思えません)。それゆえ、文字の字形を手がかりにした研究に傾かざるを得ない面が、確かにあります。

 清朝の考証学者たちは、この漢字の難点を克服するために「古音学」を発展させました。古代の中国語の音韻を研究することにより、字義・字形のみに頼る研究を乗り越えよう、というものです。王念孫『広雅疏証』、段玉裁『説文解字注』といった考証学の金字塔は、こうして誕生しました。

 古音研究の過程で、次第に注目を集めたのが、「古代漢語では、字の原義を離れて字を用いることがしばしばあった」という問題です。この現象は、「仮借(かしゃ)」と呼ばれます。漢字が産み落とされた時の意図とは別に、後世においては、その本義を離れて、漢語は音に従ってさまざまに表記されるようになりました。「原義」と「用法」との乖離は、漢字の成立後、かなり早い段階ではじまったようです。

 その中でも、漢語の熟語(「連語」などと呼ばれた)が、さまざまに表記される現象が調べられていくようになります。『論語』に「文質彬彬」ということばがありますが、「彬彬」は、「份份」「斌斌」「分分」「斑斑」などとも表記され、どう書いても同じ意味を表した、ということが明らかになりました。この場合、「份」「斌」「分」「斑」などの字義を調べ、「望文生義」しても、正解には絶対にたどり着かないわけです。逆に「音に因りて義を求む」方法こそが求められます。

 この「音に因りて義を求むる」考え方に基づき、熟語を網羅的に集めた学者がいました。朱起鳳(1874-1948)です。30年の時を費やし、300万字から成る巨冊、『辞通』なる「辞書」を彼は完成させたのです。