音に因りて義を求む


 「望文生義」ということばがあります。「文を望みて義を生ず」と訓じます。漢字の字面をながめて、ありもしない意味をひねり出す、という意味です。むろん、そんなことをしてはならないという戒めのことばで、中国古典を読むに際しては、しばしば注意されることです。

 しかし、この戒めを守ることは、実はなかなか難しいことです。多くの文字で表記された他の言語が、「表音的」に表記されているのに対し、漢字は「表音的」でないからです(なお、私は漢字が「表意的」だとも思いません。「表音/表意」のdichotomyが有用とは思えません)。それゆえ、文字の字形を手がかりにした研究に傾かざるを得ない面が、確かにあります。

 清朝の考証学者たちは、この漢字の難点を克服するために「古音学」を発展させました。古代の中国語の音韻を研究することにより、字義・字形のみに頼る研究を乗り越えよう、というものです。王念孫『広雅疏証』、段玉裁『説文解字注』といった考証学の金字塔は、こうして誕生しました。

 古音研究の過程で、次第に注目を集めたのが、「古代漢語では、字の原義を離れて字を用いることがしばしばあった」という問題です。この現象は、「仮借(かしゃ)」と呼ばれます。漢字が産み落とされた時の意図とは別に、後世においては、その本義を離れて、漢語は音に従ってさまざまに表記されるようになりました。「原義」と「用法」との乖離は、漢字の成立後、かなり早い段階ではじまったようです。

 その中でも、漢語の熟語(「連語」などと呼ばれた)が、さまざまに表記される現象が調べられていくようになります。『論語』に「文質彬彬」ということばがありますが、「彬彬」は、「份份」「斌斌」「分分」「斑斑」などとも表記され、どう書いても同じ意味を表した、ということが明らかになりました。この場合、「份」「斌」「分」「斑」などの字義を調べ、「望文生義」しても、正解には絶対にたどり着かないわけです。逆に「音に因りて義を求む」方法こそが求められます。

 この「音に因りて義を求むる」考え方に基づき、熟語を網羅的に集めた学者がいました。朱起鳳(1874-1948)です。30年の時を費やし、300万字から成る巨冊、『辞通』なる「辞書」を彼は完成させたのです。

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