『辞源』を三度、通読した男


世の中、すごい人がいるものです。今日は、『辞源』を三度も通読した人のお話です。

その人は、田忠侠氏(1938-)、現職は黒竜江省文史研究館の館員とのことです。彼は、『辞源』(修訂本)を熱愛し、次のように語っています。

 人の生命、以て誕育し成長し興旺し発達し、乃至は延続するを得て、須臾も或いは離るべからざる者は、布帛菽粟、是(これ)なり。学人、既に学術の王国に居り、新知を求めんが為に、異境を探索し、而して宝山に往き、乃ちその源を究め、その委を竟(きわ)めんと欲さば、必ず『辞源』を検す。則ち『辞源』なる者は、学人の布帛菽粟にして、須臾も或いは離るべからざる者なり。
 その滋養に頼りて、乃ち勇力を獲、宝山に至り、その璞を得るなり、その璞を理(おさ)めて宝を焉に取る。是を以て学術文化、これが為に進歩するなり。則ち『辞源』の人類文化の進歩事業を促進せんが為の功、亦た大なるかな!(『辞源通考』自序)

「人類文化」というのは、いかにも大げさであるにせよ、少なくとも中国文化を学ぶ「学人」にとって、『辞源』が不可欠の「布帛菽粟」であるとは、私も首肯するところです。

しかし、この田忠侠さん、ただ『辞源』を愛用する一読者たるにとどまりませんでした。

 固(もと)より然り、師は完人に非ず、経典も亦た完帙には非ざるも、真理は尤も完善たるを須(もち)いる。後学(わたくし)の『辞源』修訂本、その書におけるや、朝夕に誦悉し、未だ嘗て廃離せず、嘉恵を恭承する者は固より多し、然れども亦た偶々その失を見、即ち幽眇を張皇し、罅漏を補苴し、その逮(およ)ばざるを匡(ただ)し、その完善を臻(いた)さんと欲す。(『辞源通考』自序)

こうして、ついに田氏は『辞源』を通読しつつ、『辞源』のキズを修理しようと思い立ちます。そして、実に三度の通読を果たされたというのです。一度目の通読(1979-1986)の成果として『辞源考訂』(東北師範大学出版社, 1989)を、二度目の通読(1987-1990)の成果として『辞源続考』(黒龍江人民出版社, 1992)、そして三度目の通読(1991-1999)の成果として『辞源通考』(福建人民出版社, 2002)を著されたのです(『辞源通考』緒論による)。

『辞源』を愛し、そして『辞源』を愛しているからこそ、人生の多くを『辞源』の考正に捧げられた、田氏の生き様に、同じ『辞源』修訂本を愛用する者として、深い敬意を抱かずにはおれません。

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「山田永年の書学」


 西嶋慎一「山田永年の書学-明治初期、京都における書学鑑識の一側面」(『大東書道研究』16号、2008年)を読む。

 明治という新しい時代は、書画の世界にもインパクトを与えた。楊守敬(1839-1915)が明治13年(1880)に来日し、日本に新しい書学が伝えられたからである。そのような時代にあり、山田永年(1844-1913)は、独自の審美眼をもって、京都の地で古写本・碑帖を愛玩した。その山田永年の書学を丁寧に説いた論文である。

 山田鈍、字は子静、号は永年、京都の豪商。家業は生糸問屋と酒造で、店は御池通東洞院にあった。建築自体はいまも存しており、国の登録有形文化財に指定されている、という。

 山田永年は、第一級の書画を目睹し、鑑賞した。彼が備えていた鑑定眼について、西嶋氏はいう。

 明治以前に渡来したこれ等の拓は、粗刻粗拓として、資料的価値が低いと論ぜられることが多い。……。粗刻であっても、訓練を経た眼力は容易に原書の真を見抜く。永年がその代表的な一人なのである。

 このような、示唆にあふれる指摘、あるいは、唐写本『世説新書』が切断されて五つに分割された経緯をはじめとするエピソードなど、さまざま興味深い。

 『千字文』に興味をもつ者としては、『真草千字文』(『二体千字文』)の記述が特に目にとまった。この写本を、永年は智永の筆と明示しない。当時は、智永筆と喧伝されていなかったのであろう。西嶋氏は、次のように推測する。

 この千字文が智永と称され始めるのは、日下部鳴鶴や楊守敬が鑑じた、この時期(引用者:明治14年ごろ)から以降なのではあるまいか。

 一考に備え、機会があれば探ってみたい。

『訓詁学史略』


 前回、訓詁学の概説書として、趙振鐸『訓詁学綱要』(陝西人民出版社, 1987)を取り上げましたが、その「後記」によると、同書は、趙氏が1979年、四川大学で訓詁学の授業を行った際に書いた講義用資料(受講者に配る、授業内容の書いてある教科書のようなもの、中国語では「講義」といいます)をもとにしている、とのことです。

 この「講義」をもとにして、改訂を加えたものが『訓詁学綱要』であるというわけですが、改訂した内容については、次のように説明してあります。

もとの”講義”と比べると、訓詁学の原理と方法の部分について補強し、訓詁学史の部分は大幅に圧縮し、訓詁学の重要図書の部分、すべてを省略した。もとの”講義”と比べて、まったく面目を違えた。

 確かに、そういわれてみると、訓詁学史と訓詁学要籍についての説明は『訓詁学綱要』にはありません。その部分について、趙氏は別の書物を書いています。それが『訓詁学史略』(中州古籍出版社, 1988)です。

 私はこの『訓詁学史略』を通読したわけではないのですが、拾い読みをしたことはあります。『訓詁学綱要』で利用されている辞書・注釈についての詳しい説明が、この『訓詁学史略』にはありますから、訓詁学の重要図書の解説として利用すれば、訓詁学についての理解をより深めることができます。

 そのように、『爾雅』や『詩経』の注釈などの、「訓詁学要籍」についての説明としても興味深く読めるわけですが、もちろん、通読すれば、訓詁学の通史として読めます。

 古代の訓詁文献について詳しい説明があるのは当然ですが、さらに宋代の「右文説」や朱子の訓詁学、そして近現代の訓詁学者として黄侃や沈兼士、王力などの解説まで、バランスもとれているように感じられます。

 趙振鐸は『訓詁学綱要』『訓詁学史略』という二つの補い合う書物により、訓詁学を語っているわけですね。

*趙振鐸『訓詁学史略』(中州古籍出版社, 1988) Webcat所蔵図書館は21館。

『訓詁学綱要』


 中国古典を読む際には、さまざまな知識や方法が必要とされます。必要とされるものが多すぎて、目がくらむほどです。そのような時によいのが、中国から出版されている概説書で基礎を学ぶことです。

 ただ、概説書も玉石混淆なので、よいものを選ぶ必要があります。訓詁学の概説書で私がよいと思ったのは、趙振鐸『訓詁学綱要』(陝西人民出版社, 1987)というものです。

 概説書の多くは、中国の大学で教科書として使われるものなのですが、往々にして無味乾燥で、その学問がどう役立つのか、読んでも分からないことがあります。しかし、この『訓詁学綱要』は、たいへん実用的な訓詁学の概説です。実用的というのは、訓詁学を読書にどう役立てればよいのか、読めば分かるということです。全体の構成は次の通り(括弧内は、私の説明)。

  • 第1章 導言
  • 第2章 訓詁的流別和体制(訓詁の種類、注釈と辞書)
  • 第3章 訓詁用語
  • 第4章 以形索義(字形から考える)
  • 第5章 因声求義(音韻から考える)
  • 第6章 古音通假
  • 第7章 義訓的一些方法(義を導く方法)
  • 第8章 釈義的方法(さまざまな説明方法)
  • 第9章 同訓(同義語・類義語)
  • 第10章 反訓(反義語)
  • 第11章 詞義的引申(派生義)
  • 第12章 訳語(西域・インドからの外来語)
  • 第13章 古書辞例挙要(修辞の説明)
  • 第14章 結束語

 訓詁学の定義、重要性などは、第1章で述べられていますが、そうした「能書き」は、あっさりとしたものです。第2章以降は、訓詁の実態に即して、多様な観点から説明がなされています。

 特に、第3章では、「也」「者」「曰・為・謂之」「謂」「言・此言・言此者」「貌」「所以」「猶」「読若・読如」「読為・読曰」「之言」「辞・詞」といった訓詁で常用される用語について、逐一、例を挙げつつ、説明しています。

 挙げられている例は、『詩経』をはじめとする古典の注釈や、『爾雅』といった古辞書類で、まさに訓詁の王道であり、しかも、それらを解釈した顧炎武や段玉裁といった清朝の学者たちの説を丁寧に紹介しています。私は大学院生のころ、この書物を読みましたが、初学者が訓詁の実態を知るにはもってこいでした。

 辞書の定義のようなものばかりが訓詁学ではないのです。音韻学と訓詁学との連携を述べた第5章・6章、外来語の取り扱いを述べた第12章、修辞の問題にまで及ぶ第13章など、中国語全体の中で、訓詁がどのように機能しているのかを考えさせる内容ともなっています。

 著者の趙振鐸氏は1928年生まれ。四川大学で長年にわたり教鞭をとり、『漢語大字典』の編者の一人でもあります。本書の「後記」によると、1979年に四川大学で担当した訓詁学の講義をもとにして、改訂を加えたもの、とのことです。

*趙振鐸『訓詁学綱要』(陝西人民出版社, 1987)Webcat所蔵図書館 11館

訓詁学


 「四庫全書」に収めらた厖大な書籍の群れ、あるいは、現代の中国において、日々、刊行されている大量の出版物。これらを目にして中国を評する場合、「文字の大国」「書物の大国」、といってもよいのですが、私は、敢えて「ことばの大国」と呼びたいと思います。

 語られたことばは、語られた端から消え去る運命にあるので、「ことばの歴史」を考える際、いきおい関心の対象は、書かれたことばに向けられますが、書かれたことばのみを通してさえ、中国文化を伝えた人々が共有した、ことばへの関心は、並々ならぬものを感じさせます。

 ことばに対する強い関心は、その文明の初期の段階において、すでに萌芽していたように思われます。中国においては、「ことばによってことばを説明すること」は、かなり早い段階で出現しました。『論語』において孔子とその弟子たちが「仁とは何か」「礼とは何か」と問答する姿は、まさに「ことばによることばの説明」です。

 漢代以降になると、この「ことばによることばの説明」は、学術の重要な一部を形成しました。後世、これを訓詁と呼んでいます。訓詁の二本柱は、「古典の注釈」と「辞書」であるとされます。前漢時代には、『詩経』を注釈した「毛伝」が成立し、さらに辞書として『爾雅』が登場しました。訓詁学において、漢代の訓詁が最も重要な資料とされ、同時に重要な研究方法の指針と見なされるのは、当然であるといえましょう。

 ただし訓詁が、それ自体、学として独立したのは、清朝にまで下ると考えた方がよいかも知れません。

 清朝に盛んとなった言語学を「小学」と呼びます。「小学」とは、もともと「童蒙のための学」の意でしたが、清朝になると、中国の言語を取り扱う、高度に専門的な学問へと変貌を遂げたのでした。その小学は、文字学(「形」を研究する)・音韻学(「音」を研究する)・訓詁学(「義」を研究する)の三者からなる、とされました。こうして、訓詁学は小学の一翼を担ったわけです。

 我々が今日、中国古典を学ぶ場合にも、漢代に生まれ、清朝・民国時代に隆盛を迎えたこの訓詁学を理解し、応用してゆくことは、たいへん有意義なことです。ところが現在、日本の研究者に、訓詁学者はほとんどいないのが実情で、大学でも「訓詁学」の講義を開講しているところはほとんどないでしょう。

 私は以前、趙振鐸という学者の書いた訓詁学の概説書を読み、大いに蒙を啓かれました。明日は、この書物を紹介します。