「山田永年の書学」


 西嶋慎一「山田永年の書学-明治初期、京都における書学鑑識の一側面」(『大東書道研究』16号、2008年)を読む。

 明治という新しい時代は、書画の世界にもインパクトを与えた。楊守敬(1839-1915)が明治13年(1880)に来日し、日本に新しい書学が伝えられたからである。そのような時代にあり、山田永年(1844-1913)は、独自の審美眼をもって、京都の地で古写本・碑帖を愛玩した。その山田永年の書学を丁寧に説いた論文である。

 山田鈍、字は子静、号は永年、京都の豪商。家業は生糸問屋と酒造で、店は御池通東洞院にあった。建築自体はいまも存しており、国の登録有形文化財に指定されている、という。

 山田永年は、第一級の書画を目睹し、鑑賞した。彼が備えていた鑑定眼について、西嶋氏はいう。

 明治以前に渡来したこれ等の拓は、粗刻粗拓として、資料的価値が低いと論ぜられることが多い。……。粗刻であっても、訓練を経た眼力は容易に原書の真を見抜く。永年がその代表的な一人なのである。

 このような、示唆にあふれる指摘、あるいは、唐写本『世説新書』が切断されて五つに分割された経緯をはじめとするエピソードなど、さまざま興味深い。

 『千字文』に興味をもつ者としては、『真草千字文』(『二体千字文』)の記述が特に目にとまった。この写本を、永年は智永の筆と明示しない。当時は、智永筆と喧伝されていなかったのであろう。西嶋氏は、次のように推測する。

 この千字文が智永と称され始めるのは、日下部鳴鶴や楊守敬が鑑じた、この時期(引用者:明治14年ごろ)から以降なのではあるまいか。

 一考に備え、機会があれば探ってみたい。

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