父か子か


 田忠侠氏のひそみにならい、昨日気づいた『辞源』の誤りを一つ。

 愛用の『辞源』(合訂本)で「鴻荒」の語を調べました。意味は「謂太古,混沌初開之世」とあり、さらに書証が二つ、揚雄『法言』と、そして「魯靈光殿賦」が挙げてあります。

『文選』王文考(逸)「魯靈光殿賦」:“鴻荒朴略,厥状睢盱。”

 さて、『文選』は先秦から六朝までの名家によって著された、韻文・散文の珠玉を集めたものですが、作家の名前は、基本的に姓と字(あざな)で記してあります。姓と名でしか、その人物の名前を知らない場合、案外、不便です。そこで、唐の李善がとても丁寧な注を付けてくれています。たとえば、『文選』冒頭の作品は「班孟堅」による「兩都賦」ですが、この人物に対し、李善は「范曄『後漢書』曰:班固,字孟堅,北地人也。……」と『後漢書』を引いて解説します。これで、「班孟堅」が班固であることが分かるという算段です。

 では、『文選』巻十一に収められる「魯靈光殿賦」の作者、「王文考」は誰なのか? 李善注を見てみましょう。

 范曄『後漢書』曰:王逸,字叔師,南郡宜城人也。子延壽,字文考,有雋才,遊魯作「靈光殿賦」。後蔡邕亦造此賦,未成,及見延壽所為,甚奇之,遂輟翰而止。後溺水死,時年二十餘。
 范曄『後漢書』に曰く:王逸,字は叔師,南郡宜城の人也。子の延壽,字は文考,雋才有り,魯に遊びて「靈光殿賦」を作る。後に蔡邕も亦た此の賦を造るも,未だ成らず,延壽の為す所を見るに及びて,甚だ之を奇とし,遂に翰を輟めて止む。後に水に溺れて死す,時に年二十餘なり。

 落ち着いて読めば、「魯靈光殿賦」の作者が、王逸の息子の王延壽という人物であることが分かります。ところが、『辞源』のこの条を書いた人が慌てていたのか、出だしに「王逸」とあるのに飛びつき、「王文考(逸)」という事実に反する記載が生じたのでしょう。

 この「魯靈光殿賦」はたいへんに有名な作品で、建築を描写した作品としては、中国史上、最高のものです。王延壽は早くに亡くなったため、わずかにこの賦によって知られるのみですが、それさえも有名な父親の手柄とされてしまっては、さぞかし無念なことでしょう。

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