『わが子に伝える「絶対語感」』


 外山滋比古『わが子に伝える「絶対語感」』、お母さんのための育児書です。ほこりをかぶっていたのを取り出して読んでみました。

 外山氏は、洞察力に満ちた学者です。ご専門の英文学に基づく斬新な考察には、うならされることが多く、日頃から深い敬意を抱いています。妻の書架に並んでいるこの本も、もちろん気にはなっていました。

 もっとも、「子どもが生まれた頃に、この本を読んでおけば」という後悔はありません。というのは、幼児の学習について、私も同じような考え方をもっており、それを子育てとして実践してきた自負があるからです。

 人間にとって決定的に重要なのは、「ことば」である。この一点こそ、私が外山氏に限りない共感を抱くところです。

こどもの教育では、こころを育む、ということがしきりにいわれます。しかし、いったいどうしたら豊かな心が育つのかについては、かならずしもはっきりしていません。なにもわからないまま、ただこころ、こころと言っているにすぎないのです。(p.40)

 そこで、「こころ」に飛躍する前に、まずよき「ことば」を身につけよ、というわけです。実に頼もしく感じられます。

 外山氏が「耳のことば」と呼ぶものは、気づく人も少なく、特に重要です。

「耳のことば」の軽視は、日本人の特徴といえるでしょう。現代に限らず、昔から、日本人は、耳よりも目のことばを上位においてきたために、欧米人などとくらべると、聴覚的理解力が劣っていると考えられます。つまり、耳がよくないのです。話を「聴く」ことが下手なのです。つまらないことならともかく、こみ入った、むずかしい話を聴くことが、なかなかできないのです。もちろんこれは、耳の訓練を受けていないから、そうなるので、幼いときに、しっかり聴くしつけをしておけば、こんなことにはならないはずです。(p.29)

 そのほかにも、未知の領域を読解できる本物の読書力のこと、素読の効用、話しことばの速度、縦書き横書き問題など、「ことば」にまつわるさまざまな論点を提示しています。総じて、外国語を会得した人にしか考えつかない議論、と思われました。幼児の言語習得のみならず、大人が「ことば」を見直すのによい本です。

 少しばかり残念なのは、本書を構成する四章のうち、私の関心を引くのは、第一章「だれにもある「絶対語感」」、第二章「耳のことば、目のことば」のみであり、第三章と第四章は、「ら抜きことば」をはじめとする「現代のことばの乱れ」を指摘するにすぎず、わざわざ外山氏がおっしゃることでもないように思われたことです。

 *外山滋比古『わが子に伝える「絶対語感」: 頭の良い子に育てる日本語の話し方』(飛鳥新社, 2003) Webcat所蔵館、110館(本日付け)。

符定一と章炳麟


聯緜字典(章炳麟) 符定一(1877-1958)の『聯緜字典』が初めて正式に出版されたのは、民国三十二年(1943)七月のこと、北京の京華印書局から出たものです。全十冊。

書物の題簽は、符定一本人が、篆文で「聯緜字典 定一題」と書いています。

第一冊の表紙を開くとそこに封面があり、「聯緜字典 章炳麟題」とあります。書名は篆文、書名は行書、「太炎」の朱印を捺します。これが、初版の『聯緜字典』に寄せられた、章炳麟(章太炎)の題詞です。

初版の『聯緜字典』には、卷首に「本書紹介文件」として、一「教育部国語統一籌委会中国大辞典編纂処通告」と二「北平各大学教授啓事」を載せます。このうち後者に、次のような文句が見えます。

符君『聯緜字典』一書、蒐羅宏富、取材精審、実為読古籍必備之参考書、甚足嘉恵士林。章太炎先生「復玄同書」称:「其実較明人『駢雅』為優」。……。銭玄同・楊樹達・呉承仕・高潤生・黎錦熙・高歩瀛・郭紹虞・劉異、同啓。民国二十二年五月。


ここに、章炳麟と『聯緜字典』との関係をかいま見ることができます。すなわち、章炳麟は銭玄同(1887-1939)に宛てた手紙の中で、『聯緜字典』を「明人の『駢雅』と較ぶるに優れりと為す」と評しているわけです。

「明人の『駢雅』」とは、小学の低迷期と章氏が考えた明代、朱謀*(しゅぼうい、明の宗室)が作った熟語の辞典です。章炳麟は『辞通』に寄せた序文の中でも、この辞書を引き合いに出しています。

それを考えると、「明人の『駢雅』と較ぶるに優れりと為す」という章炳麟の評語は、符定一にとって、嬉しいものであったかどうか。複雑なものを感じたかも知れません。初版本『聯緜字典』の第十冊の末には「作者以三十年専力著成此書。章炳麟・黄侃・葉徳輝・王樹枏、群相推重」という宣伝文が見えますが、実のところ、章炳麟の評価がそれ程高いものであったとはいえないのです。

なお、初版が出た民国三十二年(1943)、章炳麟(1869-1936)はすでにこの世の人ではありませんでした。しかし、前述した「北平各大学教授啓事」が民国二十二年(1933)に出されたことを考えると、正式出版前とはいえ、この頃、すでに『聯緜字典』の原稿は一応できあがっていたはずです。この段階で、符定一が章炳麟に題詞を依頼したものでしょう。まだ未完成の書物、あるいは出版の予定の決まらない書物のために、あらかじめ題詞をもらっておくことは、よくあることのようです。

符定一と毛沢東


聯緜字典(毛沢東) 中華書局版の『聯緜字典』の題字は、毛沢東(1893-1976)の書であるとのことです。

前回にも申し上げたとおり、『聯緜字典』の著者、符定一(1877-1958)は湖南省衡山県の人です。衡山県は、毛沢東の故郷である湘潭のすぐそばです。

ただ同じ湖南出身というだけではありません。1912年、符定一が湖南省高等中学校の校長であったとき、彼の目にとまったのが、当時19歳であった毛沢東その人でした。両者の関係は、長く続き、解放後、符定一が中央文史館の館長に抜擢されたのも、もちろん毛沢東の意向によるものです。詳しくはネット上に趙志超「我的好多知識是跟您学的:毛沢東与符定一」という文章がありますので、ご参照ください(いやなポップアップが出るので、リンクはしません)。

さてそこで、『聯緜字典』の題字の話です。上記の趙志超氏の文章にも詳しく紹介してあるとおり、この件に関して、1953年7月7日、毛沢東が符定一に宛てた手紙「致符定一」が存在するのです。『毛沢東書信選集』(人民出版社, 1983)に「根据手稿影印件刊印」として載せるものですが、ウェブサイト「毛沢東天地」にある「毛沢東資料中心」から、転載させてもらいます。

宇澄先生:
今日収到惠書,説尊著《聯緜字典》再版嘱為題詞事。我対尊著未曾研究,因此不可能発表意見。所謂“秦皇漢武之業”,大概是先生聴錯了。先生是著作家,似不宜与古代封建帝王的事業作類比。方命之処,尚祈鑒諒為荷!
毛沢東
一九五三年七月七日

「宇澄」とは符定一の字(あざな)ですから、彼本人が『聯緜字典』の題字を毛沢東に依頼したことが分かります。「方命之処,尚祈鑒諒為荷(ご用命の件につきましては、ご容赦下さると幸いです)」とありますから、この手紙において毛沢東はかつての恩師の依頼を断っているのですが、気が変わりでもしたのでしょう、最終的には毛沢東が揮毫して、1954年、『聯緜字典』は中華書局から出版された、という次第です。

符定一『聯緜字典』


双声・畳韻語を調べようとするとき、便利な辞書が二つあります。一つは『辞通』、これについては、このブログでもすでに取り上げました。もう一つが、今日ご紹介する、『聯緜字典』です。

『聯緜字典』には、双声・畳韻語を豊富に収めます。ただし、1983年に北京の中華書局から重印された際に付けられた「重印説明」にも見えるとおり、双声・畳韻語にとどまらず、より広い範囲に及ぶ「双音節詞」(要するに二字熟語です)をも含めて「聯緜詞」と呼び、本書に収録しています。

著者の符定一(1877-1958)は、湖南省衡山県の人。「重印説明」によると、32歳の頃(1910)に聯緜詞の蒐集を開始し、62歳の年(1940)に本書を完成させた、とのことです。一人の人物が自力で完成させた辞典というものは、その出来上がりがどのようなものであれ、尋常ならぬ執着と熱意を感じさせるものですが、本書『聯緜字典』もその例にもれません。

本書には「叙例」として、黄侃(こうかん)の序、王樹枏(おうじゅなん)の序、自序、凡例、後序を載せます。このうち、凡例に付けられた補記が面白いので、その一部を訓読して掲げてみましょう。

 民二十一年(1932)夏、黄侃(1886-1935)は乱を避けて平(北平、北京のこと)に居る。時に相い過従し、毎(つね)に見るに必ず曰く「君の書の凡例、事事に允当たり、語語に内行たり。湖南の人の学を治むるや、従(かつ)て未だ精核なること此の若(ごと)き者有らず」と。……。定一按ずるに、凡例は均しく黄君の審核を経るも、唯だ弟五・弟十三・弟十四・弟二十二の四事のみ、後来の増す所にして、黄君 未だ之を見ざる也。其の高足の弟子、陸宗達(1905-1988)、四事を見て極めて以て善と為す。蓋し能く其の師法を守る者かな。民廿九年(1940)孟春、定一 補して志(しる)す。

この補記は、9歳年下の黄侃と自分との関係のみを語っています。なぜ符定一は、それほど黄侃にこだわるのか。それを知るには清朝考証学に占める、江蘇・安徽・浙江三省の特別な地位について知る必要があります。吉川幸次郎の「清代三省の学術」(全集、巻16、所収)を読んでみてください。こと小学(古代中国語研究)に関しては、この三省以外の出身者の預かるところではなかったほど、圧倒的な実力差があったのです。

黄侃は湖北省の出身です。しかし彼は、浙江の産んだ知の巨人、章炳麟(章太炎とも。1869-1936)の第一の弟子でした。その意味では、民国二十年代当時、清朝小学を強く受け継いだ学問を最もよく体得していた人物の一人でした。その黄侃から「湖南の人の学を治むるや、従て未だ精核なること此の若き者有らず」と認可を得たことは、符定一にとって特別な意味があったわけです。「湖南出身でも、ここまで出来たぞ!」という喜びの表現です。

ただし符定一の学識は、本人の自負とは裏腹に、真に卓越したものであったとは言えないようです。『辞海』は同書を説明して、「但收詞并非都是聯緜詞,論字体完全墨守『説文』,是其缺点」とあります。強引な点もしばしば指摘されます。

そういう意味では、本書を工具書の中心に据えることは避けた方がよいでしょう。私はあくまで『辞通』の補佐として使い、独特な説が見えるときは慎重にあつかうようにしています。資料をよく集めているので、知見を広めるにはよいと思います。