符定一と毛沢東


聯緜字典(毛沢東) 中華書局版の『聯緜字典』の題字は、毛沢東(1893-1976)の書であるとのことです。

前回にも申し上げたとおり、『聯緜字典』の著者、符定一(1877-1958)は湖南省衡山県の人です。衡山県は、毛沢東の故郷である湘潭のすぐそばです。

ただ同じ湖南出身というだけではありません。1912年、符定一が湖南省高等中学校の校長であったとき、彼の目にとまったのが、当時19歳であった毛沢東その人でした。両者の関係は、長く続き、解放後、符定一が中央文史館の館長に抜擢されたのも、もちろん毛沢東の意向によるものです。詳しくはネット上に趙志超「我的好多知識是跟您学的:毛沢東与符定一」という文章がありますので、ご参照ください(いやなポップアップが出るので、リンクはしません)。

さてそこで、『聯緜字典』の題字の話です。上記の趙志超氏の文章にも詳しく紹介してあるとおり、この件に関して、1953年7月7日、毛沢東が符定一に宛てた手紙「致符定一」が存在するのです。『毛沢東書信選集』(人民出版社, 1983)に「根据手稿影印件刊印」として載せるものですが、ウェブサイト「毛沢東天地」にある「毛沢東資料中心」から、転載させてもらいます。

宇澄先生:
今日収到惠書,説尊著《聯緜字典》再版嘱為題詞事。我対尊著未曾研究,因此不可能発表意見。所謂“秦皇漢武之業”,大概是先生聴錯了。先生是著作家,似不宜与古代封建帝王的事業作類比。方命之処,尚祈鑒諒為荷!
毛沢東
一九五三年七月七日

「宇澄」とは符定一の字(あざな)ですから、彼本人が『聯緜字典』の題字を毛沢東に依頼したことが分かります。「方命之処,尚祈鑒諒為荷(ご用命の件につきましては、ご容赦下さると幸いです)」とありますから、この手紙において毛沢東はかつての恩師の依頼を断っているのですが、気が変わりでもしたのでしょう、最終的には毛沢東が揮毫して、1954年、『聯緜字典』は中華書局から出版された、という次第です。

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“符定一と毛沢東” への 2 件のフィードバック

  1.  いつも興味深いお話、ありがとうございます。まさか『聯緜字典』と毛沢東が結び付くとは思いもよりませんでした。驚きです。この字典にも深い歴史があったのですね。
     『辞通』の朱起鳳同様、30年もの年月をかけてコツコツと辞典を作り上げる情熱、物凄いですね。改めて手許にある『聯緜字典』への愛着が湧いてくるようです。お言葉通り、『辞通』の補佐として使ってみようと思います。
     毛沢東の書による題字を拝読致しまして、早速自分の『聯緜字典』を見たところ、私が持っているのが台湾版だからかもしれませんが、題字の下に「章炳麟」らしき文字が書かれていました。書体などに全くの無知ですので非常に怪しいのですが。それに章炳麟は字典の完成前に亡くなっているようですし。それでも、もし本当に章炳麟の題字であったとすれば、それこそ符定一は「湖南出身でも、ここまで出来たぞ!」と誇りに思ったのでしょうか。その後に自分の学校の生徒だった毛沢東に題字をお願いした時はどんな心境だったのか、など色々と想像が膨らみます。
     長々と駄文を連ねてしまいました。失礼致しました。

  2.  まっつんさま、コメントいただきましてたいへん嬉しく存じます。
     章炳麟と『聯緜字典』との関係、及び題詞につきましては、次回、お話しいたします。『聯緜字典』の初版本に章炳麟が寄せた題詞は、怪しいものではなく、確かに本人が書いたものです。では、機会を改めまして。

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