読書の学、新『読書雑志』


読書雑志 中国の史書と宗教をめぐる十二章

吉川忠夫氏『読書雑志-中国の史書と宗教をめぐる十二章』(岩波書店、2010)が刊行されました。このブログで初めて新刊書を取りあげます。

『読書雑志』というと、中国学を知る人ならば必ず王念孫(1744-1832)の名著を思い浮かべますが、吉川氏の新著はあえてそれと同名の題を用いたものです。「あとがき」に明らかにされているとおり、これは著者ご自身のご命名ではなく、ご本人は「立派な書名だが、あまりにも立派すぎてとても気恥ずかしい」と語っていらっしゃいます。

この命名については、賛否両論あるに違いありません。はじめ私もいくばくかの違和感をもったのですが、さっそく通読してみて、その上で『読書雑志』という書名をあらためて眺めてみると、これはこれでよいのではないかと感ずるようになりました。

それはどういうことか。王念孫の「読書の学」が、「小学」という宝剣を手にとってひたすら通行本の誤りを正し続け、校勘学に新境地を開いたものであるとするならば、対する吉川氏の「読書の学」とは、史料を博捜した上でそれを丁寧に吟味し、ことばの襞を読み解く、そのような読書を通じて対象を立体的に浮かび上がらせるものと言えそうです。

また、王念孫の文章が明快な考証文であるのに対し、吉川氏の文章は時に陰影に富み、時に熱くほとばしる美しい文学です。

これら鮮やかな対比は、王念孫『読書雑志』と吉川忠夫『読書雑志』の違いを際だたせます。つまり書名が同じであるにもかかわらず、吉川氏の新著は王念孫のものと似ても似つかぬものであるがゆえに、かえってさわやかさを感じさせます。清朝考証学に対する屈折した嫉妬や媚態などは微塵もなく、決して二番煎じではない明朗さを示しているのです。「読書」も「雑志」もそもそも固有名詞ではありませんし、王念孫のものでない「読書雑志」があっても当然よいのだ、と思えてきます。

中国の文学・史学・思想に通じ、さらに仏教・道教にも造詣の深い当世随一の碩学である著者が、博識をひけらかすことは決してせず、それでいて、時にさりげなく、時にはっきりと読書の喜びを表現し、さらなる書物の林へと読者を誘います。ここには吉川幸次郎の「読書の学」が深く根を張っており、家学の確かな存在を感じさせますが、そこにとどまることなく、読書を心から喜ぶ著者の姿が、紙面を通じて読者に迫ることでしょう。これまた読者にとっての、読書の喜びです。「最上の読書のたのしみがここにある」とある帯の文句は、誇張ではありません。

以前に執筆された解説や記事などを集めたものであり、すでに読んだことのあるものが多かったのですが、こうしてあらためて一冊にまとめられた本書を手に取ると、読書の嬉しさがまたしみじみと湧き上がります。

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