ブックガイドとしての『読書雑志』第四章


 吉川忠夫『読書雑志-中国の史書と宗教をめぐる十二章』(岩波書店、2010)を導きとして、中国学の書物の林に踏み入ります。

 その第四章は「范曄と『後漢書』」。もともとは、訓注本『後漢書』第一冊の解題(岩波書店、2001)として書かれたものです。構成は以下の通り。

 1.史書の伝統を継ぐ范曄『後漢書』
 2.范氏の先人たち―范汪、范寧、范泰
 3.さまざまの後漢時代史
 4.「反逆者」范曄
 5.范曄の心の軌跡―「諸甥姪に与うる書」
 6.范曄『後漢書』以後
 7.刊本の時代を迎えて

 范曄の人となりと『後漢書』とが周到に述べられており、本書『読書雑志』の中でもひときわ長い一章となっています。特に面白いのは、第4節と第5節。第4節では、劉宋の文帝に対して謀反を起こすという、だいそれたことをして処刑されるにいたった范曄の一生が描かれています。

 本書の52ページにこう書かれています。「私は今から四十年ほども昔、中央公論社の『歴史と人物』誌、昭和四十六年十一月号に「史家范曄の謀反」と題する一文を寄せているので、今ここではそのあらましを叙するにとどめよう」。確かにあらましはこの「解説」にも述べられていますが、『歴史と人物』、一読に値します。

吉川忠夫「史家范曄の謀反」(『歴史と人物』、昭和四十六年十一月号、中央公論社)

 冒頭に置かれた、范曄らが処刑場へと引き立てられてゆくシーン。沈約『宋書』范曄伝が伝える范曄の最期をこなれた日本語で描ききり、のっけから読者を引き込みます。王鳴盛がすでに指摘し、吉川氏もそれを踏まえるとおり、沈約は范曄に対して「忌心」があったといいます。つまり、沈約の書く范曄伝は公平でないということになります。そうであるからこそ、吉川氏は特に念入りに沈約の文章を追うのです。事柄を誇張して語る者の口元に生ずるゆがみを見逃すことは決してありません。

 范曄その人を謀反計画へと引き入れた孔熙先、彼のことばも如実に再現されます。孔熙先の口からもれる、范一族の忌まわしい風聞、近親相姦。そのことばに逆上し、まともな判断力を失い、謀反の企みに身を投じてゆく范曄。実に巧みな手さばきで、資料が紹介されてゆきます。詳しくは、どうぞ雑誌にて。

 本書本章の第5節では、范曄の遺書、「諸甥姪に与うる書」が紹介されます。素晴しい筆の走りぶりで、范曄というこの複雑で屈折した人の思いを描き尽くします。本書中の圧巻と称すべきでしょう。

 それにしても、『歴史と人物』、たいへんに面白い雑誌です。吉川氏が同誌に寄稿された他の三本、「南風競わず―侯景の乱始末記」「徐陵―南朝貴族の悲劇」「後梁春秋―ある傀儡王朝の記録」は、すべて中公新書『侯景の乱始末記』に収められました。

吉川忠夫『侯景の乱始末記―南朝貴族社会の命運』中央公論社(中公新書; 357), 1974

 いずれも秀逸の作品であるのに、「史家范曄の謀反」だけ、なぜ『侯景の乱始末記』に収録されなかったのでしょうか。それはそれとして惜しいことですが、ただ、多くの作家・学者たちが健筆を振るう昭和時代の歴史雑誌を手にとり、その中で若き吉川氏の名文を楽しむのも、これまたひとつの贅沢と言わざるをえません。


〔追記〕 とはいえ、『歴史と人物』、それほど入手が容易でないかも知れません。もし、「史家范曄の謀反」をお読みになりたい方がいらっしゃいましたら、ご一報ください。個人的にお見せしたいと思います。

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「ブックガイドとしての『読書雑志』第四章」への5件のフィードバック

  1.  今回は、まっつんさんの心を狙った放火のようなものです。無事、火がついてくれてよかった、よかった。
     『歴史と人物』、往年の歴史ファンの心を鷲づかみにして、発行部数も相当あったはずなのですが、いったい、どこに消えてしまったのでしょうか?もちろん、各家庭の書斎に愛蔵されているものも多いとは思いますが、いろいろな事情で「整理」されてしまったのかも知れませんよね。まっつんさんが探して見つからないというのは、容易でないということです。是非、ご探求をお続け下さい。
     それはそれとしても、「史家范曄の謀反」の部分はコピーを取ってありますので、お送りすることができます。「文言基礎」のプロフィール欄に公開してありますアドレスまでご連絡ください。すぐに手配しますよ。

  2.  大変興味深いお話、本当にありがとうございます。
     「史家范曄の謀反」、やはり素晴らしい内容なのですね。范曄の処刑場での場面はまた感慨深いものがあります。私はその場面が結構好きです。孔熙先の言葉、何故范曄に「人作犬豕相遇」などと言っていたのか、今ようやく分かりました!
     ああ!気になります!xuetui様のご紹介の文章がこれまたより一層の興味を引き立てられます。垂涎でございます。この時ほどインターネットの便利さと、現実の距離の遠さを恨んだことはありませぬ。逆に諦めていた『歴史と人物』該当号探索の火がつきました。
     
     投稿時に手違いをしてしまい、連続投稿になってしまったかもしれません。失礼致しました。

  3.  火が強すぎて火だるまになってしまいました(笑)。
     積読日記にも書きましたが、あっさりと見つかってしまいました。きっと、ある所にはあったのでしょう。何年もの間、探求の手を緩めていたから見つからなかったのかもしれません。これもひとえにxuetui様の火力の強さと、ご好意のお陰ですね。感謝感謝です。
     昨夜もこのエントリーを目にして、誤って途中で投稿してしまうほど興奮しましたが、表面上は平静を装いつつ、今日はそれ以上に興奮してしまいました。これこそが古書探求の最高の喜びです。もう少し冷静になったらじっくり味わおうと思っております。

  4. まっつんさま、本当におめでとうございます。しかも、100円ですか!また、感想をお聞かせ下さい、楽しみにしております。

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