ブックガイドとしての『読書雑志』第六章


 吉川忠夫『読書雑志-中国の史書と宗教をめぐる十二章』(岩波書店、2010)を導きとして、中国学の書物の林に踏み入ります。

 その第六章は「裴松之のこと」。『読書雑誌』の「初出一覧」によると、もと、ちくま学芸文庫の一冊『正史三国志』第二冊(1993年、筑摩書房)の解説として書かれたものである、とのことです。

 この文章は、もっぱら『三国志』の注釈者、裴松之(372-451)について綴られた文章です。その構成は、第1節から第3節に分けられています。

  • 第1節は、裴松之注(裴注)の特徴。この一節は、以前、筑摩書房の「世界古典文学全集」所収の『三国志』Ⅰの月報(1977)に「裴松之のこと(一)」として載せられたもの。
  • 第2節は、陳寿が個人的理由で筆を曲げて『三国志』を書いたか否か(吉川氏の言う「陳寿私怨著書説」)の検討。この一節は、以前、筑摩書房の「世界古典文学全集」所収の『三国志』Ⅱの月報(1982)に「裴松之のこと(二)」として載せられたもの。
  • 第3節は、裴松之の家族、「河東の裴氏」の家系と学風について。

 第1節では、中国の注釈学の二大系統「ことばに関する注釈とことがらに関する注釈」が紹介され、裴松之注が後者、「ことがらに関する注釈」に属することが説明されます。「ことがら」を述べたい裴松之が語る「極端な例」として、『三国志』魏書、第十、荀彧伝が引かれています。ここは、注まで日本語訳してある、次の訳で読んでみてください(言うまでもなく、原文で読める方は中華書局版で)。

今鷹真[ほか]訳『三国志』2,筑摩書房(世界古典文学全集;24B),1982年。のち、井波律子訳『蜀書』(『正史三国志』第五冊),筑摩書房(ちくま学芸文庫),1993年。

 荘重であったという「荀彧の風姿」をしつこく引用する裴松之の態度は、彼と同時代の『世説新語』の興味と一致することが多いように思われます。

 さらに吉川氏が例示する『三国志』魏書、卷四、高貴郷公紀の記事も裴注とともに読んでみましょう。

 第2章に紹介される「陳寿私怨著書説」は、「『三国志』に示された陳寿の見解はゆがんでいる」というものですが、これが、陳寿の死後、ちょうど裴松之の生きた時代にそうとう広まっていたことが、かなり詳しく紹介されており、そして、裴松之がそれにどう対処したのかも記されています。その問題に絡んで、吉川氏は、孫盛という人物の書いた『異同記』などの書物が「裴松之の貴重な史料源であ」る、という推測を述べられているのは、実に興味深いところです。

裴松之注に丹念にあつめられている諸記録は、孫盛がすでに集成していたものをひきうつしにするか、ないしは多少のものを補足したにとどまる場合がすくなくないのではないか、つまり孫盛をぬきにして裴松之注はありえなかったのではないか、とさえ想像されるのである。(本書、p.95)

このような吉川氏の洞察には、他の追随を許さぬものがあります。そういう目で見てみると、『三国志』注はさらに面白いかもしれません。

 第3節に紹介される、裴松之の家系、「河東聞喜の裴氏」。『三国志』魏書、第二十三には、裴松之の先祖、裴徽の兄である、裴潜が立伝されています。注とともに読めば、裴松之が自分の家族を誇る気分を見て取ることができるでしょう。

 魏晋時代の名族であった裴氏。裴氏のその後について、吉川氏は、次のように語ります。

河東の裴氏が琅邪の王氏とあいならぶ盛名を誇り得たのは、西晋時代までのことであった。晋室南遷以後の東晋時代になると、琅邪の王氏がいっそうの輝きをましたのとは異なり、河東の裴氏は往事の盛名を失ったごとくである。

 このような、魏晋南北朝時代の貴族の家系についての考察は、次の書物に収める諸論考、特に丹羽兌子氏「魏晋時代の名族:荀氏の人々について」が参考となることでしょう(吉川氏も「沈約の思想」という論文を寄せられています)。

中国中世史研究会編『中国中世史研究:六朝隋唐の社会と文化』東海大学出版会, 1970。

 なお、本章によると、裴氏の「盛名」を復活させたのは、裴松之その人に他なりません。彼の息子の裴駰は『史記集解』を書き、その息子の裴昭明は『南斉書』良政伝に伝が立ち、その子の裴子野は『宋略』により知られました。吉川氏はそこで筆を止めません。それなのに、こともあろうに、『宋書』の著者である沈約は、裴氏の子孫について冷たくこう書いたというのです、「松之より已後は聞こゆるもの無し」と。その後、『宋略』において裴子野が沈約への反撃を試みる…。これについては、本書の読者の楽しみにとっておきましょう。

 こうしてみると、裴松之の『三国志』注というのは、家系と家系のせめぎ合い、嫉妬と羨望とライバル意識の産物であることが分かります。このような魏晋南北朝時代の「貴族」、それも一流とは言い難い貴族たちが、なぜこのようなことに意をそそぎ続けたのかについては、当時の社会構造を知る必要があるでしょう。それを知るための、もっともよい手引きは、今なお、次の書物であると思えます。

宮崎市定『九品官人法の研究―科挙前史』中央公論社(中公文庫;み-22-13), 1997。

 当時の「家」は、我々の想像を絶するところにあるようです。その時代の社会や制度を度外視して、思想や文学のみを語るのは、賢明な態度とはいえません。

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“ブックガイドとしての『読書雑志』第六章” への 2 件のフィードバック

  1. 注釈学は、注釈書の作成を学問活動としているもの、になりますでしょうか。校勘学、というのを校勘の方法を研究する学、という風に説明している本を読んだことがあるのですが、かりにこれをあてはめると、注釈学は注釈方法を研究する学問、ということになります。こういう理解もできるのでしょうか…

    1.  哲学というと、(1)プラトンとかカントとかいった哲人が思考したことを指し場合と、(2)そのような哲学に対する後世の研究を指す場合、があると思います。「哲学研究者は哲学者とは言えない」などという議論は、その二つが必ずしも一致しないことを指摘するものでしょう。
       人文学の場合、特に古くからの源流を持つような学問には、大概、この二つの側面があるはずです。
       以前、「学退筆談」にて「訓詁」のエントリーを書いた際、「訓詁が、それ自体、学として独立したのは、清朝にまで下ると考えた方がよいかも知れません」と書いたことがあります。そういう見方にたてば、注釈学も、「後世の研究」の方がむしろその名に値するものであり、「漢代の注釈学」というのはおかしい、ということになるかも知れません。
       ただ、「注釈学」の場合、日本語・中国語としてどれほど熟しているのか、疑わしいところがあります。Googleで検索しても、私の名前などが上位にあがりますし。ちゃんと学として成熟しうるのか、どうか。これから微力を尽くして努力したいと思います。

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