哈燕を訪ねて


yenching library 縁あって、天下の哈仏燕京学社(略称「哈燕」、燕は平声。ツバメにあらず。Harvard-Yenching Institute)に訪問学者として一年間、籍を置かせていただいた。アメリカのことは何一つ知らずに、英語もろくに話せず、しかも家人を帯同して赴いたので、初めこそさまざまな局面においてとまどうことが多かったが、しかし、彼の地の優れた中国学を見聞できたのは、ありがたい経験であった。

 何をしてきたのか、と問われれば、アメリカを、英語を、そして彼の地の中国学を理解しようとし、英語を徹底的に習い、宿題のきついプロセミナーを聴講し、訪問学者を集める研究会の世話役を引き受け、哈燕の各種行事に参加し、また子供の学校に出向いたりと、普段、国内にいても大して活動の多くない私としては、かなり充実した一年であった。惜しげもなく経費を支給してくれた哈燕には心から感謝している。

 帰国して幾ばくかの時が経った今、しばしば妄想することがある。「もし現在、2010年、私が日本の大学を卒業する22歳の若者で、中国学の研究者を目指すとしたら、どこの国の大学院で勉強したいか?」22歳であった当時、実に視野が狭く、日本で学ぶこと以外、考えたこともなかったが、ある程度「国際漢学」の実態を了解し得た今、もしも私に複数の選択肢があるのなら、どのような判断を下すのであろうか。

 (一)中国、(二)アメリカ、(三)台湾、(四)日本。その優先順位が、妄想の問いに答える妄想の答えである。本場の中国で中国研究をしたいなどということは、学生時代、思ってもみなかったが、今ならそれを強く願う。アメリカで若いときから奨学金獲得や入試をめぐって揉まれるのは、人生に活気を与えるはずだし、外からの視線で中国を見ることは面白い。また、優れた漢学の伝統を有する台湾で、大陸と日本とを両にらみにするのもよい。

 自分自身が教育にも携わる日本の大学の優先順位が低いのは、どういうわけか。それはただ私が天の邪鬼なので、むしろ環境を変えて挑戦したいという気持ちが強いだけであり、日本の研究水準が低いということでは決してない。京大人文研の所員をはじめ、優れた日本の漢学家が多いことは百も承知だ。

 ただ、気になることはある。現代日本の中国古典教育は、どこか溌溂としていない。中国のプレゼンスが日に日に大きくなりつつある今日、中国研究の意義がいよいよ増している今日、中国研究に閉塞感など無縁であるはずの今日、中国哲学・中国史・中国文学を講ずる日本中の大学の教室は、もっと溌溂としていてしかるべきだ。

 まずは、自分にできることとして、訓読教育を廃止してみようかと思う。訓読は、あまりにも威厳に満ちており、留学生や初心者を萎縮させてしまう。訓読の壁に守られ、すでにグローバル化した中国学との対話を軽んずるなら、日本の中国学は、必然的に知のガラパゴスとなる。訓読は確かに日本の文化遺産であり、よいところ、便利なところもある。しかし、それが閉塞感の一因となってはいないか。「訓読は玄界灘に捨ててきた」と語った倉石武四郎の気概を受けつぐことは、できぬものか。

 アメリカ人の学生が、のびのびと中国古典を暗誦するのを聴いて、自由の風を感じ、訓読の功罪に思いを致した。

 【補】とはいえ、訓読は便利なものです。このブログでも、適宜、訓読を用いています。 

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