文言文の学び方


 日本人が漢語の「文言文」を学ぶときの方針について、私の考え方をかつてサイト「文言基礎」でかなり詳しく紹介しました。

 考え方は以上の通りとして、ではどのように文言文の基礎を学んでゆくか。私の答えは単純です。

  1. 現代中国語を学ぶ。
  2. 「文言基礎」で『千字文』を暗誦する。

 この方法で文言文の基礎を身につけられた方が何人もいらっしゃいます。もちろん、我々の先輩たちや古人は、『千字文』に限らず、さまざまな方法、教材で文言文を学ばれたので、私の方法が唯一絶対でないことは言うまでもありませんが、比較的、簡便な方法ではないかと自負しています。

 ところが、私のこの方法を信じてくれない人が、私の親しく知る学生諸君の中にもいることは、実に残念なことです。私の推奨する『新華字典』『辞源』に習熟しようとせず、相変わらず漢和辞典を手放さないのは、実に残念なことです。『千字文』を朗詠しないのは、実に残念なことです。

 私は、この方法を実践するのに、特別な聡明さ、特別な能力、特別な環境が必要だとは思いません。「ある程度までは」誰でも学べることです。それを信じてもらえないのは、私の不徳の致すところでもありますが、実に残念です。むかし「今女画」と言った人は、どのような気分だったのでしょうか。

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 相変わらずの、マイペースです。言いたいことだけ、言っています。でも、このブログ同様、私の本名を知らない人が読んでくださるとよいと願っています。

『現代漢語詞典』編纂雑識


1979年に『辞海』修訂本が上海辞書出版社から出た前年、1978年の12月、現代漢語の代表的な辞書、『現代漢語詞典』が商務印書館から出版されました。編者のひとりである孫徳宣氏の、「《现代汉语词典》编纂杂识」(『辞書研究』1980年第1輯)を読んで、感ずるところがありました。まずは孫氏の文章を訳して、その編輯経緯をたどります。

  • 『現代漢語詞典』は我が国の解放後、集団作業で編んだ初めての漢語中型詞典で、普通話を広め、漢語の規範化を促進することを編集方針とするものであった。
  • 1956年の後半以来、もとの「中国大辞典編纂処」および「新華辞書社」の一部の人員を中国社会科学院語言研究所に併せ、「詞典編集室」を成立させ、規則を定め、体例を検討し、次の年から大規模に資料を集めて整理をはじめた。
  • 1958年2月に試編を開始し、6月から正式に編写をはじめ、次の年の年末に初稿を完成させ、次々と油印版を印刷して意見を収集した。
  • 1960年には「試印本」を出版し、広く意見を収集した。1965年には「試用本」を出版し、関係各所に送って審査を受けた。1973年、「試用本」の紙型を用いて出版し、印刷部数を増やし、内部発行した。
  • 1966年5月、文化大革命が始まり、詞典の修訂作業は頓挫し、その過程で四人組による重大な妨害と破壊を受け、内部発行を停止した。
  • 四人組が粉砕された後、『現代漢語詞典』ははじめて新生することができ、修訂をさらに加えて、1978年12月、第一版が出版され、正式に発行された。

この修訂経緯は、まさに『辞海』の場合を想起させます。ともに困難な作業であったに違いありません。この文章は、その間の二十数年、孫氏が「よい辞典とは何か」を問い続けたことのもう一つの成果と言えましょう。

特に興味深いのは、「詞典の思想性」と題された第3節です。この場合、「思想性」とは、言うまでもなく共産主義思想の思想性のことです。「我々は社会主義国家であり、上層建築の文化領域の中にある工具書として、無産階級の政治に服務しなければならない、ここには些かの疑問もない」、としながらも、「警察」「商業」「銀行」「政治」などの項目につき、いちいち「無産階級にとってはどうの、資産階級にとってはこうの」とくだくだしく記述していた1960年「試印本」に疑義を呈しています。

我々が考えるに、語文の詞典とは、読者が字音や辞義を調べ、理解することに供するものであり、その注釈は、専門の巨著や百科全書のように委曲を尽くし、細大漏らさず、とはいかない。詞典は、法令でもなければスローガンの抜萃でもなく、宣伝パンフレットや政治教科書の代用にもできない。…。

「愛」「恨」といった条に「階級社会においては、愛(もしくは恨)には階級性がある」という一句を加えるべし、また「刑場」の注釈の「犯人を処刑する場所」の後に「革命烈士が義に殉じた場所」と加えるべし、と主張する同志もあったが、これは必要なのか?

孫氏によると、「形而上学極左思潮」は、別に四人組が作ったものでもなく、1950年代の後半にはすでに萌芽していた、とのこと。1978年にできあがった『現代漢語詞典』は、政治色がほどほどに抑えられています。このことは、まさしく孫氏の良識の賜物であると思われてなりません。それとともに、このような良識をもった人にとって、どれほどその編輯作業が苦しいものであったか、想像するに余りあります。

『辞海』編纂雑談


『辞書研究』1979年2期号に載せられている「《辞海》编纂杂谈」は、『辞海』の修訂にたずさわった方々が寄稿した短文を集めたものです。

  • 综合性辞书浅谈 舒池
  • 辞书编纂中的平衡问题 严庆龙
  • 从一枚金币看作者的辛勤劳动 肖岚
  • 编辞书和查资料 陈光裕
  • 关于”中国”一词的含义 朱方
  • 要让客观事实讲话 陈炳
  • 这也是”水分”! 王自强
  • 怎样介绍科学家 秦振庭
  • 从”福”字说起 卢润祥

面白いもの、面白くないもの、入り交じっていますが、この中で最も印象深かったのは、陳炳氏の「客観事実に話をさせるべし」という一文です。四人組が「堅持革命大批判」のスローガンのもと、『辞海』にきわめて劣悪な影響を与えたとして、「四人組の極左路線の暴威のもと、『辞海』修訂稿には、むやみに批判が加えられるという現象が出現し、「穿靴戴帽」(他人に罪を着せること)がきわめてひどかった」と言い、さらに次の例を挙げます。

たとえば、「劉復(劉半農)」条の釈文の、その中の一段に、「未定稿」では「若い頃には『新青年』の新文化革命運動に参加した。初期の詩作には反封建の傾向があり、詩の形式は民歌の模倣を狙うものであった。後に、思想が保守に向かった」とあった。

しかし、1974年に「語言文字分冊」を修訂した時、時勢に迫られ、「後に、思想が保守に向かった」という部分を「後に思想が後退し、孔子を尊敬し経書を読んだ」と変更した。

もともとは「保守に向かった」といったに過ぎず、とても軽いものであり、「保守」というのも、彼が若い頃に敢えて露骨に革命活動に参加したことや革命の同志たちとともに闘争の前列に立ち、突撃して敵を倒したことと、比較してそういったに過ぎない。それなのに、彼に「孔子を尊敬し経書を読んだ」などというレッテルを貼り、「後退した」などと汚名を着せたことで、性質が変化したのだ。

この変更に、劉復(1891-1934)の娘、劉小蕙が反応して手紙をよこし、「一字の違いには、万鈞の重さがあり、その影響は莫大だ!」と批判した、ということです。そして、父親が決して「後退」していなかったことを、証拠立てて主張した、とその内容を伝えています。

『辞海』の修訂作業において、政治の影響を最も露骨に受けたのは、「穿靴戴帽」の面であったらしく思われます。「穿靴」(「穿小靴」)とは、無理矢理に小さな靴を履かせること、つまり無理に貶めて政敵を苦しめること。「戴帽」(「戴帽子」)は、帽子をかぶせる、つまりレッテル貼りをすること。これらの言葉は、『辞書研究』のこの号に頻出します。それが、『辞海』修訂の一面であったことは疑えません。

それに対して、実害を被ったのは、立項された人物の親族、学生、関係者であったにちがいありません。劉復の例は、そのことを如実にあらわしています。

この陳氏の文以外にも面白いものがありました。単に「中華人民共和国の略」と言って済ませられない「中国」の語の記載をめぐる朱方氏の考察。また、「福」の字に迷信的な要素があるからといってそれを隠すべきでない、風俗を乱すことを恐れて「面首」(意味は各自、お確かめください)という語を載せないのは誤りだ、と述べた盧潤祥氏のものなどが勉強になりました。特に後者には、気骨を感じました。

『辞海』はどのように修訂されたか?


羅竹風「《辞海》怎么修订的?」(『辞书研究』1979年第2期)は、『辞海』修訂の経緯を記録した歴史の証人です。羅竹風氏(1911-1996)は、中国の言語学者、『辞海』修訂の常務副主編で、後に『漢語大詞典』の主編も務められた、とのことです。

1957年に毛沢東が修訂を命じて以来、22年の時を経て、『辞海』修訂本は1979年に完成しました。羅氏は、この22年を次の3期に分けることができると言います。

  • 第1期(1958-1965):16冊からなる「試行本」が出版される。さらに全国から意見を集め、2巻本の「未定稿」(内部発行)が出版される(1965年)。作業は順調に進んだが、一部、「極左思潮」による妨害をうけ、正式出版にこぎつけることはできなかった。
  • 第2期(1966-1976):文革期。「『辞海』未定稿は古今内外の封建思想、資本主義、修正主義を集大成した大毒草だと誣告され、十八層の地獄となり、すべての罪名がその書にかぶせられ、あたかも人間界の罪悪の淵藪となってしまったかのよう」であったという。四人組及びその手下たちの陰謀による被害は甚大なものであった。
  • 第3期(1977-1979):華国鋒による四人組粉砕の後、『辞海』出版の希望も見えてくる。1978年12月、上海市委は「辞海編委会」の恢復と充実を決定し、予定より早く、9ヶ月の作業を経て、『辞海』修訂本が完成する。

羅氏は言います。

二十二年来、『辞海』の修訂作業は、曲がりくねった「之」字形を進んだ。それはまったく、祖国と人民が歩んだ曲がり道を反映してもいる。しかし何であれ、真実がこの手中にあるならば、向かうところ敵なしなのであり、戦って負けなしの偉大な力となるのだ。悠久の歴史の発展という観点からはかるなら、「四人組」の災いなんてごくごく短い一瞬に過ぎず、蟷螂の斧が車に立ち向かうように、うまくゆくはずはなかったのだ。

興味深いのは、羅氏自身の自問、「毛沢東同志は、なぜ『辞海』修訂の任務を上海に委ねたのか?」という問題です。これに対する羅氏の自答は、必ずしも明瞭なものではありません。しかし完成に及んで、羅氏の心に去来するのは「毛沢東の意図」であった、それが根深く内面化されていた、このことの重みを読み取るべきでしょう。四人組の跋扈の背後に存在したのは毛沢東であったはずなのに、羅氏の思考は、「善き毛沢東と悪しき四人組」、という構図から離れることはなさそうです。そして、それは羅氏に特有なものではなく、『辞書研究』を見る限り、多くの人に共有された思考のようです。これは微妙な問題ですから、部外者が騒ぐことではないかも知れませんが。

それにしても、純然たる学術著作と見えるひとつの辞書の背後に、これだけ大きな「政治」の問題が存在していたことに、あらためて驚きの念を禁じ得ません。中国において知識人であることの難しさを考えさせます。

『辞海』修訂始末


民国時代、上海にあった中華書局から出版された辞典、『辞海』。1915年から編集が開始され、1936年に至って完成を見ました。時は移って、解放後の1957年、毛沢東は、上海に命じて『辞海』の修訂をさせる決断をしました。

それから22年後の1979年、『辞海』修訂本は完成し、上海辞書出版社から出版されました。その後も定期的に内容の更新がなされていますが、1979年修訂版こそ、我々が日用している『辞海』のもとです。

『辞海』修訂の経緯について、恥ずかしながら、私はまったく無知でした。それが、先日、唐作藩氏の論文を調べるために『辞書研究』(上海辞書出版社)という雑誌のバックナンバーを見ていたところ、唐氏の論文も載る『辞書研究』1979年2期号こそ、『辞海』の修訂を記念した特集号であることを知りました。

  • 出好辞书,为四个现代化服务:祝贺《辞海》1979年版诞生 本刊评论员
  • 《辞海》怎么修订的? 罗竹风
  • 解放思想是加速《辞海》出版的推动力 束纫秋 徐寿明
  • 尊重历史,实事求是 郭加复
  • 《辞海》编纂杂谈
    • 综合性辞书浅谈 舒池
    • 辞书编纂中的平衡问题 严庆龙
    • 从一枚金币看作者的辛勤劳动 肖岚
    • 编辞书和查资料 陈光裕
    • 关于”中国”一词的含义 朱方
    • 让客观事实讲话 陈炳
    • 这也是”水分”! 王自强
    • 怎样介绍科学家 秦振庭
    • 从”福”字说起 卢润祥
  • 试论辞书的政治性 巢峰
  • 坚持辞书的科学性 徐庆凯
  • 知识性:辞书的中心 杨祖希
  • 谈辞书的稳定性 冯英子
  • 辞典要有简明性 池哲
  • 选词十忌 王芝芬
  • 综合性辞书的体例 严霜 王自强

ここに挙げたもの以外にも、唐氏の論文を含め、直接間接に『辞海』修訂を記念した論文が並んでいます。これらを通覧すると、上海の知識人たちがどのような思いで『辞海』を修訂したのか、その間の22年、彼らがどのような苦難を体験したのか、如実に知ることが出来ます。

なかでも、羅竹風氏の「『辞海』はどのように修訂されたか?」は、それをもっともはっきりとつづった文章です。次回、その内容をご紹介します。

ついでながら、『辞書研究』の創刊号は、1979年1期ですから、この雑誌自体、自社で出版した『辞海』修訂本の出版を契機としていることが分かります。この雑誌は、今もなお刊行が続けれらています。

*『辞書研究』(《辞书研究》)、上海辞書出版社、1979-。 Webcat所蔵館は42館。

唐作藩「破読音的処理問題」


 最近、唐作藩氏(1927-)の音韻学入門を読み、その分かりやすい説明ぶりに舌を巻きました。そこで、もっと唐氏の著作を読みたいと思っていたところ、「破读音的处理问题」(『辞书研究』1979年第2期)という論文があるのを知り、さっそく読んでみました。

 「破読」とは、「一つの漢字の声調を変えて読み分けることにより、本来の意味や文法機能とは異なる意味や文法機能を表すこと」とご理解下さい。「破読音」を持つのは漢字全体からすると一部ですが、重要な漢字には、しばしばこの「破読」が存在します。

 以前、別のサイトで『千字文』を取りあげた際にも、この問題をあつかいましたので、そこから例を引いておきましょう。

  • 005「為」 wei2(平声)/wei4(去声)
  • 007「號」 hao2(平声)/hao4(去声)
  • 007「稱」 cheng1(平声)/cheng4(去声)
  • 011「衣」 yi1(平声)/yi4(去声)
  • 016「王」 wang2(平声)/wang4(去声)
  • 024「難」 nan2(平声)/nan4(去声)
  • 024「量」 liang2(平声)/liang4(去声)
  • 026「行」 xing2(平声)/xing4(去声)
  • 027「正」 zheng1(平声)/zheng4(去声)
  • 028「空」 kong1(平声)/kong4(去声)
  • 032「當」 dang1(平声)/dang4(去声)
  • 033「興」 xing1(平声)/xing4(去声)

 その時には、王力の次のような説明も引きました。

名詞・形容詞が動詞に転化した場合には、動詞を去声で読む。動詞が名詞に転化した場合には、名詞を去声で読む。要するに、転化したものは、一般的に去声で読むのである。(『漢語史稿』1996年重排本、第3章「語法的発展」第31節「語法発展的一般叙述」p.248)

 今日ご紹介する唐作藩氏の著作では、もとの音を「本音」と呼び、転化した音を「破読音」と呼んでいるので、それに従います。いろいろな例から、「本音」は平声・上声・入声、「破読音」は去声(または上声)であることが多いと分かります。

 この「破読」現象について、顧炎武をはじめとする清朝の学者たちは「中古の学者が、無理矢理に区別したもの(強生分別)」と見なしており、その意義を低くしか評価しませんが、それは明確に誤りであり、「破読」が漢語史の展開において、自然に生まれて発達したものであること、すでに王力・周祖謨、そして唐氏の説く通りです。

 さて、この論文における唐氏の関心は、「現代の辞書における破読記述を規範化する」ことにあり、『新華字典』『現代漢語詞典』『辞海』といった現代的な辞書について、実地に検討を加え、体例上の一貫性のなさを指摘しています。

 たとえば、『新華字典』では、「飾る」意の「文」の去声、”wen4″を”旧读”として挙げるのに、「王として君臨する」意の「王」の去声、”wang4″は”旧读”とも何とも言われていない、と指摘し、両者とも現代音に去声の読みはそもそもなく、”旧读”と書いたり書かなかったりで、不統一ではないか、と批判しています。もっともな話です。

 それはともかく、私が興味を持ったのは、唐氏が『群経音辨』『経史正音切韻指南』『馬氏文通』の諸書を駆使して挙げる資料の中で、「いまでは本音が存在しておらず、破読音だけが読音としてあるもの」43字です。

  1. 本音は平声で、破読音が去声だが、いまは去声でのみ読むもの13字:「貫」「怨」「令」「爨」「譽」「治」「忘」「慮」「料」「放」「慶」「任」「縱」。
  2. 本音は上声で、破読音が去声だが、いまは去声でのみ読むもの15字:「上」「下」「右」「柱」「去」「涕」「奉」「後」「近」「夏」「被」「樹」「善」「濫」「造」。
  3. 本音は平声で、破読音が上声だが、いまは上声でのみ読むもの3字:「總」「反」「攘」。
  4. 本音は去声で、破読音が上声だが、いまは上声でのみ読むもの1字:「仰」。
  5. 本音は入声で、破読音が去声だが、いまは去声でのみ読むもの11字:「炙」「*」「借」「貸」「告(誥)」「射」「覆」「刺」「帥」「畫」「易」。ただし、これは現代音では入声がないので、去声しかない、ということ。なお、「*」は唐氏の原文では「師」ですが、「錯」か何かの誤りだと思います。

 失われてしまった本音は、どこに行ってしまったのでしょうか?とても興味深い問題です。それとともに、去声というものの不思議さに、さらに惹かれてしまいます。

 「この程度のことは、『馬氏文通』を読んでいれば当たり前のことだ」とも言えます。私は遅ればせながら、唐作藩氏のこの論文を通して馬建忠『馬氏文通』(1898年刊)の力量を再認識しました。