『辞海』はどのように修訂されたか?


羅竹風「《辞海》怎么修订的?」(『辞书研究』1979年第2期)は、『辞海』修訂の経緯を記録した歴史の証人です。羅竹風氏(1911-1996)は、中国の言語学者、『辞海』修訂の常務副主編で、後に『漢語大詞典』の主編も務められた、とのことです。

1957年に毛沢東が修訂を命じて以来、22年の時を経て、『辞海』修訂本は1979年に完成しました。羅氏は、この22年を次の3期に分けることができると言います。

  • 第1期(1958-1965):16冊からなる「試行本」が出版される。さらに全国から意見を集め、2巻本の「未定稿」(内部発行)が出版される(1965年)。作業は順調に進んだが、一部、「極左思潮」による妨害をうけ、正式出版にこぎつけることはできなかった。
  • 第2期(1966-1976):文革期。「『辞海』未定稿は古今内外の封建思想、資本主義、修正主義を集大成した大毒草だと誣告され、十八層の地獄となり、すべての罪名がその書にかぶせられ、あたかも人間界の罪悪の淵藪となってしまったかのよう」であったという。四人組及びその手下たちの陰謀による被害は甚大なものであった。
  • 第3期(1977-1979):華国鋒による四人組粉砕の後、『辞海』出版の希望も見えてくる。1978年12月、上海市委は「辞海編委会」の恢復と充実を決定し、予定より早く、9ヶ月の作業を経て、『辞海』修訂本が完成する。

羅氏は言います。

二十二年来、『辞海』の修訂作業は、曲がりくねった「之」字形を進んだ。それはまったく、祖国と人民が歩んだ曲がり道を反映してもいる。しかし何であれ、真実がこの手中にあるならば、向かうところ敵なしなのであり、戦って負けなしの偉大な力となるのだ。悠久の歴史の発展という観点からはかるなら、「四人組」の災いなんてごくごく短い一瞬に過ぎず、蟷螂の斧が車に立ち向かうように、うまくゆくはずはなかったのだ。

興味深いのは、羅氏自身の自問、「毛沢東同志は、なぜ『辞海』修訂の任務を上海に委ねたのか?」という問題です。これに対する羅氏の自答は、必ずしも明瞭なものではありません。しかし完成に及んで、羅氏の心に去来するのは「毛沢東の意図」であった、それが根深く内面化されていた、このことの重みを読み取るべきでしょう。四人組の跋扈の背後に存在したのは毛沢東であったはずなのに、羅氏の思考は、「善き毛沢東と悪しき四人組」、という構図から離れることはなさそうです。そして、それは羅氏に特有なものではなく、『辞書研究』を見る限り、多くの人に共有された思考のようです。これは微妙な問題ですから、部外者が騒ぐことではないかも知れませんが。

それにしても、純然たる学術著作と見えるひとつの辞書の背後に、これだけ大きな「政治」の問題が存在していたことに、あらためて驚きの念を禁じ得ません。中国において知識人であることの難しさを考えさせます。

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