劉師培にしっぽがあった話


楊樹達『積微翁回憶録』から、奇妙な記事をひとつ。

高異群が言うに、「人にはもともと尾があり、今でも尾骨七節が体の中にある」、と。また「むかし、(湖南省の)桃源女子中学で、一人の女の子が言うことに、同級生の誰それという女子には尾があった、と」、とも。

むかし北京にいた頃、「劉師培には尾があった」と人が言うのを聞いたことがある。

「尾」の字は「尸」に従っており、おそらく字が出来た時代、人間の尾がまだ失われていなかったのではないか。(1943年9月6日、p.205)

尾骨が突出している人が存在する、というのは事実のようですが、劉師培(1884-1919)にしっぽがあったという話は初めて聞きました。いろいろと噂の多い人ですが、劉氏のしっぽの話は他の資料でも確認できるのでしょうか?知りたいものです。

文字学者、楊樹達が、漢字の成立時期の人々は、有尾人だったのではないか、と空想をはせているのも、面白いところです。

広告

唐作藩教授、王力を語る


 音韻学者、唐作藩氏(1927-)が、その師であり、偉大な語言学者である王力(1900-1986)を語る、という動画があるのを知りました。

 唐作藩『音韻学教程』(北京大学出版社、1987)は、とても分かりやすい音韻学の教科書ですが、この動画、「王力先生的学術生涯」もきわめて理解しやすく、内容も興味深いものです。最近、講義されたもののようですが、ご高齢を感じさせず、実に潑溂としていらっしゃいます。恐れ入りました。

 『音韻学教程』も、このような名調子で講義されたのか、と感慨深いものがあります。同時に、王力に対する関心も高まりました。王力が1980年に来日し、その後、ラジオを聴いて日本語を勉強していたことなど、面白くうかがいました。

 字幕もついているので、中国語の聞き取りが苦手な方も、理解できるのではないでしょうか。

日々の勉強


 我々、日本人にとって、中国学とは、どこまで行っても外国である中国のことを学ぶことです。わざわざこのように言うのは、「漢字漢文はすでに我が国の伝統であり、外国研究と呼べない」と思いこみ、中国文化を自文化と混同している人がいるために、あえて釘を刺すのです。 

 外国人である我々は、高度な研究をする前段階として、まず基礎的な訓練を積み続ける必要が、どうしてもあります。「中国人の幼児にさえ及ばない部分がある」という当たり前のことを忘れるべきではありません。たとえば、母親に中国語で子守唄を歌ってもらった経験がないのは、かなりのハンディキャップです。現代中国語の学習、文言の学習はもちろん、欠かすことができません。そういう意味では、一生かけて、基礎固めをするようなものです。それが困難であるからこそ、やりがいもまたあります。

 そのためには、童謡を聞いたり歌ってみたり、ニュースやドラマを見たり、中国人と直接つきあったり、いろいろな努力が必要ですが、「読書の学」に限ると、私が自分自身に課している学習方法は次のようなものです。「読書の学」と言っても、「読書」はその中の一部に過ぎませんが。

  1. 「誦書」。古典を読み上げる。
  2. 「読書」。古典、並びに研究書・概説書をたくさん読む。
  3. 「鈔書」。気に入った文章を書き写す。
  4. 「差書」。辞書や参考文献を用いて、調べ物をする。
  5. 「著書」。論を立て、ものを書く。

 この順番通りにするのが肝要です。時間配分についても、たとえば「差書」に時間を割きすぎるのは考えものです。「著書」に熱中しすぎるのも、見苦しいものです。見るところ、多くの人は、「誦書」と「鈔書」を軽視しているようですが、あまり賢い方法とは思えません。五感を刺激しつつ学んでこそ、効果的な学習が期待できるのです。

 この学習法をもう少し具体的に説明すると、次のようなことです。

  1. 「誦書」。毎日、『千字文』や気に入った韻文を口ずさみ、また、初見の文章を声に出して読み上げます。朗読のCDをよく聴いて、参考にします。
  2. 「読書」。毎日、古典を読み、毎日、清朝・民国の学者が書いたものを読み、毎日、現代人の書いた中国文を読みます。
  3. 「鈔書」。気に入った文章、自分にとって必要な文章を書き写します。一文を暗記してから、ノートに写します。
  4. 「差書」。工具書や注釈書を用いて、自由自在に調べます。
  5. 「著書」。大げさなものを書こうというわけではありません。身の丈にあったブログや論文を書きます。

 これでは、「学」ぶばかりで、「思」うところがないではないか、と反論があるかもしれません。「思」うことは、もちろん大切です。すべての段階において、常に「思」いながら、書物と接してゆけたら、とても幸せな読書人生が送れるのではないでしょうか。

陸心源の肖像印


陸心源肖像印 『積微翁回憶録』(上海古籍出版社、1986年)から、ひとつ。

1930年7月12日、長澤規矩也に連れられ、楊樹達が東京世田谷の静嘉堂文庫を訪問したことを、数日前に書きました。当日の記録を『積微翁回憶録』から抜いておきましょう。

又到静嘉堂文庫,庫藏宋元本一、二百種,不能盡覽,僅閲二十餘種。一為『莊子』成疏,字大悦目,黎蒓齋、楊惺吾皆有跋,為『古逸』本所自出。一為蜀大字本『周禮』鄭注,黄蕘圃舊藏,印有陸存翁六十五歳小像印記,此以前藏書家所未有也。陸氏藏書盡售於庫,故有此。…。(p.50)

文中に見える「陸存翁」は、著名な蔵書家であった陸心源(1834-1894)、あざなは剛甫、室名は存斎、浙江帰安の人。陸氏の蔵書、「皕宋楼」は岩崎氏の静嘉堂文庫に売却されましたが、その陸氏の「六十五歳小像」の印が『周礼』に捺してあった、というわけです。

これに対し、楊樹達の甥であり、『楊樹達文集』編輯委員会の主編でもある楊伯峻(1909-1992)は、次の按語をつけています。

伯峻謹案:陸心源〔1834-1894〕年僅六十一,未至六十五,疑小像印記有偽。

楊伯峻は、61才までしか生きなかった陸心源が65才の印を作ったわけがないから、印は偽物でないか、というのですが、事の真相は、こうです。『周礼』等に捺してある印の印文は、正しくは「存齋四十五歳小像」なのです。篆文では「四」の字と「六」の字がよく似ており、楊樹達は「六」と見間違えたのでしょう。その誤りの上に、甥の楊伯峻がわざわざ「疑小像印記有偽」などという、的はずれな按語をつけてしまったのです。

古文字学の大家、楊樹達の誤りも決して誉められたものではありませんが、楊伯峻の疑いはいかにも軽率です。

それに以外にも、いくつかの誤字を見受けましたので、メモしておきます。

  • 石田幹之助(1891-1974)の「幹」を「韓」に誤る(p.48)。
  • 野口正之の「口正」を誤って合して一字とする(p.122)。
  • 東久邇宮の「久」を「文」に誤る(p.229)。
  • 「貢職圖」の「職」を「織」に誤る(p.277)。
  • 「天官陰陽」の「官」を「宮」に誤る(p.301)。

『積微翁回憶録』は民国時代の学界を知る絶好の書物なのですから、再印の時には是非とも修正してもらいたいものです。

陸心源の肖像印 の続きを読む

『東方文化事業の歴史』


義和団賠償金を資金とし、1923年に制定・発布された「対支文化事業特別法」に基づいて施行された、「東方文化事業」。山根幸夫氏(1921-2005)による、『東方文化事業の歴史-昭和前期における日中文化交流』(汲古書院、2005年)は、東方文化事業を概観する書物です。

東方文化事業は、多岐にわたる事業をかかえていました。北京人文科学研究所・上海自然科学研究所の設立・運営、北京近代科学図書館・在上海日本近代科学図書館の開設、東方文化学院の設立・運営、東亜同文会・同仁会への援助、中国留学生の受け入れ、日中双方の人物交流など。昨日、書きました1930年の楊樹達来日も、この事業の一部として実現したものです。

本書では、以下の構成により、東方文化事業をとらえます。

  • 序説
  • 第1章    東方文化事業総委員会
  • 第2章    北京人文科学研究所
  • 第3章    上海自然科学研究所
  • 第4章    東方文化学院
  • 第5章    北京近代科学図書館
  • 第6章    在上海日本近代科学図書館
  • 結語

本書に描かれる北京人文科学研究所の失敗の歴史(第2章)は、一時は「パラダイス」とも称されたという、上海自然科学研究所の場合(第3章)と、好対照をなしています。北京人文科学研究所の最大のタスクは『続修四庫全書提要』の編纂でしたが、日本側の研究員は(橋川時雄を除いて)働かず、中国側の協力者は原稿料稼ぎに提要を書くだけ、何の学術交流もなかった、というのが、山根氏の見方です。本書第2章には次のようにあります。

東方文化事業の最重要事業として、何故服部(宇之吉)や狩野(直喜)は続修四庫提要の編纂にこだわったのであろうか。勿論、続修四庫提要の編修は無意味な事業とは言わないが、どうして続修四庫提要でなければならなかったのか。本来、日中双方の研究者が協同して学術交流を進める為の事業と云い乍ら、実際にこれに参画したのは、服部、狩野の他は、安井小太郎と内藤虎次郎の両名に過ぎなかった。而も、実際に提要の執筆に加わったのは、中国側の研究嘱託だけであった。日中の学術交流を云うなら、日本の研究者を北京に常駐させて、中国の研究者と一緒に提要の執筆に加わらせるべきでなかったのだろうか。北京人文科学研究所の研究事業の重要性を強調しながら、何故それにふさわしい対応をとらなかったのであろうか。(p.61)

第4章で取り扱われる、東方文化学院の東京・京都の両研究所についても、次のように言います。

東方文化学院を設立したことは、確かに日本人の研究者にとっては有難い措置であったかも知れないが、それが東方文化事業本来の目的に即応したと言えるのであろうか。それを先頭に立って実施した服部宇之吉や狩野直喜の意図はどこにあったのであろうか。どう考えても、日本側の恣意的なやり方ではなかったかと考えられる。(p.139)

本書全体を通読して、山根氏が「東方文化事業の事業計画の公正さを問うた批判の書」、そのような印象を持ちました。服部宇之吉・狩野直喜の意図が分からない、と、両碩学に対する疑義が繰り返し呈されています。

近代日中関係史を専門とされ、東方文化事業をご自分の生涯と関わらせてとらえる著者が遺されたこの見方は、重いものであるに違いありません。また賠償金というものの性質上、金の使い方は適正でなければならなかった、というのもよく分かる話です。しかし「学術交流」に対しての見方は、必ずしも一様ではないはずです。東方文化学院の意義、そして遺された『続修四庫提要』草稿の意義を積極的に評価する立場も、当然、もう一方に存在し得ることでしょう。

*山根幸夫『東方文化事業の歴史-昭和前期における日中文化交流』(汲古書院、2005年)、Webcat所蔵図書館は130館(本日付)。

1930年、楊樹達の日本再訪


清朝の末期、楊樹達(1885-1956)が国費留学生として来日し、東京・京都で学んだことを先日、紹介しました。時は過ぎて1930年、再び日本を訪れる機会が、46歳の楊樹達にめぐってきました。

これは日本側が資金を準備して、楊樹達ら知識人を日本に招待したものでした。当時、日本政府が外務省管轄の文化事業部という部局を設けて行った「東方文化事業」の一環です。この東方文化事業は、因縁深いものです。ことは19世紀末に起こった義和団の乱(「庚子事変」)に溯ります。義和団は光緒26年(1900)、イギリス・アメリカ・ロシア・フランス・ドイツ・オーストリア・イタリア・日本の連合軍により北京に籠もった義和団は鎮圧され、1901年、「北京議定書」(「辛丑条約」)が交わされ、清国は列強に対して歳入10年分にも及ぶ気の遠くなるような賠償金を負う約束をします。

日本も連合軍中の一国として賠償金を受け取りますが、余りにも巨額であったため、その一部を中国に関わる文化事業に還元することになり、設立されたのが、対華文化事業部でした。詳しくは、山根幸夫『東方文化事業の歴史-昭和前期における日中文化交流』(汲古書院、2005年)をご参照ください。

このような因縁から生まれたのが、楊樹達の日本再訪でした。1930年6月23日、楊樹達は張貽恵・陳映璜・曾仲魯・柯某(名は未詳)とともに、北京を出発します。瀋陽・ソウルを陸路通過し、釜山から乗船して、6月28日、下関に上陸します。その後、日本各地を旅行し、名士たちと交流し、7月23日、中国に戻りました。ちょうど一月に及ぶ旅行でした。

その道程を詳しく紹介することは避けますが、訪れた土地土地で面談した日本の名士たちとの学術交流、そして各地の図書館で彼らが見た本の数々は、大いに目を楽しませます。以下、日時と訪問先、人名を挙げてみましょう。敬称は省略します。

  • 6月26日、ソウル。朝鮮総督府附属博物館・朝鮮故皇室宮殿・科学館・京城帝国大学。辛島驍助、藤塚鄰。
  • 6月29日、別府温泉。
  • 7月1日、大阪。朝日新聞社・上甲子園・宝塚動物園。
  • 7月2日、奈良。奈良公園・春日神社・東大寺・女子高等師範学校。
  • 7月3日、京都。京都大学。狩野直喜。
  • 7月4日、京都。京都府立第一中学・同志社大学・比叡山・琵琶湖。吉田卯三郎。
  • 7月5日、京都。御所・二条離宮・桂離宮・島津工場。
  • 7月6日、名古屋、犬山。八木幸太郎・一柳智成。
  • 7月7日、名古屋。真福寺・徳川公邸・第八高等学校。八木幸太郎。
  • 7月9日、東京。東洋文庫。長沢規矩也・石田幹之助。
  • 7月10日、東京。宮内省図書寮。塩谷温・長沢規矩也。
  • 7月11日、東京。東京帝国大学。
  • 7月12日、東京。東京文理科大学・上野図書館・静嘉堂文庫。諸橋轍次・長沢規矩也。
  • 7月14日、東京。内閣文庫・帝国教育会館。長沢規矩也・坪上貞二(文化事業部長)・塩谷温・国枝元治。
  • 7月15日、東京。古城貞吉。
  • 7月16日、東京。学士会館。服部宇之吉・諸橋轍次・塩谷温・宇野哲人・中山久四郎・小柳司気太・阪島忠夫・山田準慶・前川三郎・古城貞吉・高田真治・平野彦次郎・寺田范三・細田謙蔵・佐久節・竹田復・山本邦彦。
  • 7月17日、東京。山本邦彦・古城貞吉。

その間、各地の図書館で、『古逸叢書』の底本となった善本をはじめとする、古刻旧鈔を大量に参観していますが、東京での差配は主に長沢規矩也によるようです。また、7月16日、学士会館で開かれた大宴会には、ご覧の通り、当時の錚々たる漢学者が名を連ねており、まさに学界の佳話とも呼ぶべき華やかさです。

このような日本の漢学者との交流は、楊樹達の帰国後も続きます。しかしその一方で、1931年9月18日に瀋陽で起きた柳条湖事件を契機として(『積微翁回憶録』にも「聞日本強佔瀋陽消息」と見えます)、日中関係はどんどん悪化してゆきました。日本人に対する楊樹達の気持ちも複雑なものとなっていったことでしょう。1931年11月22日の記事に次のように見えます。

橋川時雄がやって来た。私は「日本人の侵略には理がない」と、きつく責めたが、彼も敢えて強く弁解したりはしなかった。

近代の日中関係の渦にまきこまれた人と人との交流は、「政治と学術とは切り離すべき」という建て前が通用しがたいほど入り組んだものであったように思われます。

楊樹達と陳三立


 楊樹達(1885-1956)と陳寅恪(1890-1969)とが親友であったことは、比較的よく知られたことです。楊樹達の回想録『積微翁回憶録』にも、陳氏が楊氏を「漢聖」と称し(1932年4月8日記事)、楊氏が陳氏の論文「四声三問」を「後人師法」と褒めており(1933年12月20日記事)、肝胆あい照らす仲であったことがよく分かります。

 驚いたのは、『積微翁回憶録』1933年12月17日の条に見える、次の記事です。

陳寅恪の父君、散原先生(陳三立)が療養のために北平に来たので、本日お目にかかった。寅恪は不在だったが、先生はすでに私を知っているらしく、「著述に意を注ぐように」などと私に言われた。おそらく、寅恪がすでにあらかじめ先生に(私のことを)言っておいてくれたのだろう。先生は私にむかって、時務学堂での試験で答案を採点したのは先生である、と告げられた。

  初対面だとばかり楊樹達が思っていた陳寅恪の父が、実は自分の入試答案の採点者であった、この事実を楊氏ははじめて知ったのです。長沙に時務学堂を建てた湖南巡撫の陳宝箴(1831-1900)が陳寅恪の祖父であることは、当然、楊氏もずっと認識していたことでしょう。しかし、清朝が滅亡して二十数年も経ったこの時、時務学堂にて「校閲試卷」した、と陳三立からだしぬけに告げられた楊氏は、さぞや驚いたのでないでしょうか。

  『中國近現代人物名號大辭典』を藍本にして、陳三立の伝記を略述しておきます。

陳三立(1852-1937)、江西義寧の人。あざなは伯厳、号は散原。光緒十五年(1889)の進士。吏部主事となる。戊戌変法の期間(1898)、父の湖南巡撫、陳宝箴を助けて、湖南の地で新政を施行した。政変後(1898)は、父子ともに左遷された。辛亥革命(1911)後は清朝の遺老として暮らし、杭州・潯陽あたりに隠居していたが、のちに南京にもどった。晩年には北平に移り、民族の大義を堅持し、日本の誘いにのらなかった。その詩は難解で、好んで奇字僻典を用い、「同光体」(同治・光緒ころ流行した詩体、陳三立も代表的作者の一)中の「生渋奥衍」派、と呼ばれた。著書に『散原精舍詩文集』。陳衡恪・陳寅恪の父。

 楊樹達は、陳氏一家との縁の深さをあらためて思ったことでしょう。なお陳寅恪も、楊樹達が来日当初に学んだ、弘文学院の学生だったことがあるのです。

1905年、楊樹達の日本留学


楊樹達像(湖南大学文学院) 楊樹達(1885-1956)、あざなは遇夫、号は積微、湖南長沙の人。「漢聖」(陳寅恪による)とまで称せられた漢代研究の巨人であり、また、清朝の小学と近代的な文法を繋いだ語言学者でもあります。

 その楊樹達が日記をもとに書いた回想録が面白い、という話は先輩たちから聞いていたのですが、ついつい機会を失していたのを、最近読み始めました。楊樹達『積微翁回憶録・積微居詩文鈔』(上海古籍出版社、1986年)。

 長沙の楊氏の家は、もともと豊かな農家であったそうで、本格的に学問を始めたのは楊樹達の父親の代から、とのこと。幼い頃、楊樹達は家庭教育を受けて育ちました。1897年、13歳の時、長沙に湘水校経堂が設立されると、楊樹達たちは、入学したいと思って見学にゆきますが、払う学費がありません。数学の授業を見ていた楊樹達が、従兄に向かって、「これは簡単だよね」と笑っていたのを学校の人に見つかり、特別試験を受けて特待生になったとのことです。

 同じ年の10月、湖南に時務学堂が作られ、その試験にも合格しています。毎日、午前中4時間は英語の学習、午後の2時間は国語の授業がありましたが、しかし、1日6時間の授業には体力的に耐えられず、やむなく中退。時務学堂自体も、1898年には解散してしまいますから、この時代、学校、受講生とも、中国の教育が不安定であったことが分かります。

 その後、時務学堂に代わって設立された求実書院などで学びますが、1905年、21歳の頃、友人の勧めや従兄の影響もあり、日本留学を希望するようになり、国費留学の試験を受けます。科挙を受けさせたがっていた祖父が反対しますが、「来年の郷試は、必ず戻ってきて受験するから」と説得し、従兄と二人、留学が決まりました。この年、科挙が廃止されてしまいましたから、祖父の願いはかないませんでしたが。

 武昌を経由して上海に至り、そこから船に乗りこみ神戸に上陸、さらに汽車で東京に向かいました。友人の周大椿という人が、先に留学していたので、小石川区三軒町(現在の文京区小日向)にあった彼の借家に同居することになりました。1906年9月、弘文学院大塚分校に入学、翌年の7月に卒業。1908年4月、第一高等学校に設けられた予科に入学し、翌年、卒業。1909年8月、京都に向かい、第三高等学校に入学しますが、1911年、武昌革命が起こり、本国から送られてくるはずの奨学金がストップし、帰国を余儀なくされます。

 6年に及んだ楊樹達の日本留学は、こうして、清朝の終焉とともにあっけなく終わってしまいました。一高予科の頃、皆で日光を旅行したことなどは描かれているものの、日本人との学術的な交流は、留学時期の『回憶録』から、まだうかがえません。しかしながらこの留学体験が、後年、楊樹達と日本人とを深く結びつける契機となったのです。

*楊樹達『積微翁回憶録・積微居詩文鈔』上海古籍出版社(『楊樹達文集』17;楊伯峻主編)、1986年。Webcat所蔵図書館は16館。

『敦煌経籍叙録』


 1900年、敦煌莫高窟から写本が発見されて以来、110年、敦煌学は大きな発展を遂げ続けています。近年においては、北京大学の栄新江氏、京都大学の高田時雄氏など、大きな影響力を持つ大学者もプレゼンスを示して、敦煌学は活況を呈しています。

  どの学問分野でも同じかと思いますが、学術的な研究が進めば進むほど、分野の細分化が問題として浮かび上がります。その分野全体を見渡すことが難しくなるのです。しかし、中国の学術においては、学術全体を見渡そうとする意志が存在しています。それが「目録学」であり、それゆえにこそ、目録学は「学術の史」と呼ばれるのです。

  敦煌学においても目録学が存在し、目録書が存在します。その代表が、王重民『敦煌古籍叙録』(商務印書館, 1958)です。王重民が欧州で敦煌文献を調査したのは1930年代ですから、この目録にまとめられているのは、その当時の成果を基礎としている、ということになります。このような比較的に若い学問分野においては、研究が日進月歩ですから、いくら優れた目録であったとしても、更新し続けることがどうしても欠かせません。その意味で、「敦煌文献の目録」として、王重民を超えるものが、長く出なかったのは残念なことでしょう。

  このような状況の中、2006年、世に問われたのが、浙江大学の許建平氏の手になる『敦煌經籍叙録』(中華書局)です。ここにいう「經籍」とは、経学の書籍、の謂いであり、この叙録は、敦煌から発見された文献のうち、経部の書物を網羅的に収めたものです。王重民の目録は、67件の経部書を収めていますが、許氏の目録は320件を収めているといいます。この数字を見るだけでも、大きな進展と言えそうです。これまで、経部の書物を見渡すことすら、容易ではなかったわけですから、その一点をとっても、大きな成果であるにちがいありません。

  同書は、著者の博士学位論文として蘭州大学に提出されたもので、1年足らずで書かれたそうです。しかし許氏が「後記」において、「ただ本書を書くためになした準備作業は、かえって私の十年まるまるの日月を費やしたのである!」とあり、その苦心のさまもうかがわれ、心打たれます。そんなに簡単に書かれたものでないことは、本書を見れば分かることです。

  叙録は、写本を整理し、ふさわしい書名を与え、解説を書き、先行研究を周到に紹介しています。著者が特に得意とするのは、複数の機関に分蔵されている写本の断片をつなぎ合わせる「綴合」ですが、目録中に写真を用いて綴合結果を示しているのには、説得力があります。また附録として、経書の篇目から写本の所在を確かめられる表(たとえば、『尚書』堯典に、何種類の敦煌写本が存在するか、一目瞭然、分かる表)や、先行研究の目録がついていることも、学界に資するところ大であるはずです。

  本書の「緒論」は、高い見識に基づいて撰述されており、特にその第2節に敦煌文献を用いた経学研究が総括してあり、一読の価値があります。その発展的な面のみならず、たとえば、呉福熙『敦煌殘卷古文尚書校注』について、はっきりと「退歩」と評しており、学術的に厳正な態度で書かれていることに、好感が持てます。

 *許建平『敦煌經籍叙録』中華書局, 2006年。Webcat所蔵図書館は13館。

『敦煌音義滙考』


『敦煌音義汇考』希羨林題辞 張金泉、許建平『敦煌音義滙考』(杭州大學出版社, 1996年)は、20世紀初頭、甘粛省の敦煌から発見された典籍群、「敦煌遺書」のうち、「音義」に関わる書物について、写真を集め、解題、校勘記を記したものです。

 南北朝時代には、古典の読音を考える学問が発達し、その集大成が『経典釈文』であり、同書は現在にも伝わっています。敦煌遺書の中に、『経典釈文』の古い写本、そしてそれ以外の音義書が含まれており、当時の古典学を知る上で、きわめて貴重な資料です。『経典釈文』は中国古典の音義ですが、それ以外に、仏教経典の音義である『一切経音義』(これには、数種あります)などもあり、その敦煌写本もいろいろあります。

 本書の「前言」によると、P2494『楚辞音』、P2823『文選音』、S2729『毛詩音』などは、早くも1920年代から熱い研究課題とされてきたものの、これまで、音義書についての全面的、徹底的な整理がされてこなかったという現状に鑑みて、先行研究の成果を取り入れ、細かい校勘と論評とを加えた、とのこと。

 643件の写本を検討した結果、33種の書物としてまとめることができたそうで、全体を「四部書音義」「字書音義」「佛道經音義」の三類に分けています。細かい断片を集めた「四部書散音滙録」「佛道經散音滙録」を合わせると、35種になります。メモのため、その35種を挙げておきます。

 四部書音義

  • 『經典釋文』 S5735, P2617, P3315, 殷44(=BD09523)
  • 『毛詩音』 S2729(3), дх13660
  • 『毛詩音』 S10v
  • 『毛詩音』 P3383
  • 『毛詩』周頌 S5705
  • 『禮記音』S2053(2)
  • 『論語鄭注音義』 殷42
  • 『爾雅』郭注殘卷 P2661, P3735, P5522
  • 『春秋後語釋文』 S1439
  • 『莊子集音』 P3602
  • 『莊子音義』S6256
  • 『楚辭音』 P2494
  • 『文選音』 P2833, S8521
  • 注音本『文選』 S3663
  • 李善注『文選』 P2528, P2527
  • 「四部書散音滙録」

 字書音義

  • 『字書』 P3016
  • 『韻書摘字』P3823
  • 『注音本開蒙要訓』 P2578
  • 『字寶』 P2717, S619, P3906, S6204, P2508, 雨90
  • 『俗務要名林』S617, P2609, P5001, P5579(8)
  • 『雜集時要字』七種 S5514, P3776, S610, P3391, S3836, S3227, S6208
  • 『正名要録』 S388
  • 『辨別字』 S388
  • 『新商略古今字様撮并行正俗釋』S6208, S6117, S5731, S11423

 佛道經音義

  • 『一切經音義』S3469, S3538, P3734, ф23, P2901, P2271, P3765
  • 『新集藏經隨函録』 P3971, P2948, S5508, 李39, S3553
  • 『大般涅槃經音』 P2712, P3025, S2821, S3366, P2428, P5738, P3415
  • 『大佛頂如來密因修證了義諸菩薩萬行首楞嚴經音義』 S6691v, P3429, 宇26,S6985, S3720
  • 『佛本行集經難字』 P3506
  • 『妙法蓮華經音義』 P3406,S3082, S114
  • 『金光明最勝王經音義』 S6691v, S1117, S980, S17, 雲93, S267, S649, S2097, S18, S712, S814
  • 『佛經難字』 S5712, S5999, P3823
  • 「佛道經散音滙録」
  • 『諸難雜字』P3109, 秋26v, S4622(2), S840, P3365v, P3270

 このように、数百もの写本を逐一整理し、校勘記まで作られた張・許両氏の労力は察するに余りあります。写本の異体字を過度に整理しないために、1315頁にわたるこの厚冊は、わざわざ手写されています。

 残念なことに、写真に不鮮明なものが多く、まったく判読できないものさえありますが、写本の写真は、現在では比較的容易に見られるわけですから、深く責める必要はないでしょう。

*張金泉, 許建平『敦煌音義滙考』杭州大學出版社, 1996年。Webcat所蔵図書館は26館(本日付)。 『敦煌音義滙考』 の続きを読む