楊樹達と陳三立


 楊樹達(1885-1956)と陳寅恪(1890-1969)とが親友であったことは、比較的よく知られたことです。楊樹達の回想録『積微翁回憶録』にも、陳氏が楊氏を「漢聖」と称し(1932年4月8日記事)、楊氏が陳氏の論文「四声三問」を「後人師法」と褒めており(1933年12月20日記事)、肝胆あい照らす仲であったことがよく分かります。

 驚いたのは、『積微翁回憶録』1933年12月17日の条に見える、次の記事です。

陳寅恪の父君、散原先生(陳三立)が療養のために北平に来たので、本日お目にかかった。寅恪は不在だったが、先生はすでに私を知っているらしく、「著述に意を注ぐように」などと私に言われた。おそらく、寅恪がすでにあらかじめ先生に(私のことを)言っておいてくれたのだろう。先生は私にむかって、時務学堂での試験で答案を採点したのは先生である、と告げられた。

  初対面だとばかり楊樹達が思っていた陳寅恪の父が、実は自分の入試答案の採点者であった、この事実を楊氏ははじめて知ったのです。長沙に時務学堂を建てた湖南巡撫の陳宝箴(1831-1900)が陳寅恪の祖父であることは、当然、楊氏もずっと認識していたことでしょう。しかし、清朝が滅亡して二十数年も経ったこの時、時務学堂にて「校閲試卷」した、と陳三立からだしぬけに告げられた楊氏は、さぞや驚いたのでないでしょうか。

  『中國近現代人物名號大辭典』を藍本にして、陳三立の伝記を略述しておきます。

陳三立(1852-1937)、江西義寧の人。あざなは伯厳、号は散原。光緒十五年(1889)の進士。吏部主事となる。戊戌変法の期間(1898)、父の湖南巡撫、陳宝箴を助けて、湖南の地で新政を施行した。政変後(1898)は、父子ともに左遷された。辛亥革命(1911)後は清朝の遺老として暮らし、杭州・潯陽あたりに隠居していたが、のちに南京にもどった。晩年には北平に移り、民族の大義を堅持し、日本の誘いにのらなかった。その詩は難解で、好んで奇字僻典を用い、「同光体」(同治・光緒ころ流行した詩体、陳三立も代表的作者の一)中の「生渋奥衍」派、と呼ばれた。著書に『散原精舍詩文集』。陳衡恪・陳寅恪の父。

 楊樹達は、陳氏一家との縁の深さをあらためて思ったことでしょう。なお陳寅恪も、楊樹達が来日当初に学んだ、弘文学院の学生だったことがあるのです。

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