1930年、楊樹達の日本再訪


清朝の末期、楊樹達(1885-1956)が国費留学生として来日し、東京・京都で学んだことを先日、紹介しました。時は過ぎて1930年、再び日本を訪れる機会が、46歳の楊樹達にめぐってきました。

これは日本側が資金を準備して、楊樹達ら知識人を日本に招待したものでした。当時、日本政府が外務省管轄の文化事業部という部局を設けて行った「東方文化事業」の一環です。この東方文化事業は、因縁深いものです。ことは19世紀末に起こった義和団の乱(「庚子事変」)に溯ります。義和団は光緒26年(1900)、イギリス・アメリカ・ロシア・フランス・ドイツ・オーストリア・イタリア・日本の連合軍により北京に籠もった義和団は鎮圧され、1901年、「北京議定書」(「辛丑条約」)が交わされ、清国は列強に対して歳入10年分にも及ぶ気の遠くなるような賠償金を負う約束をします。

日本も連合軍中の一国として賠償金を受け取りますが、余りにも巨額であったため、その一部を中国に関わる文化事業に還元することになり、設立されたのが、対華文化事業部でした。詳しくは、山根幸夫『東方文化事業の歴史-昭和前期における日中文化交流』(汲古書院、2005年)をご参照ください。

このような因縁から生まれたのが、楊樹達の日本再訪でした。1930年6月23日、楊樹達は張貽恵・陳映璜・曾仲魯・柯某(名は未詳)とともに、北京を出発します。瀋陽・ソウルを陸路通過し、釜山から乗船して、6月28日、下関に上陸します。その後、日本各地を旅行し、名士たちと交流し、7月23日、中国に戻りました。ちょうど一月に及ぶ旅行でした。

その道程を詳しく紹介することは避けますが、訪れた土地土地で面談した日本の名士たちとの学術交流、そして各地の図書館で彼らが見た本の数々は、大いに目を楽しませます。以下、日時と訪問先、人名を挙げてみましょう。敬称は省略します。

  • 6月26日、ソウル。朝鮮総督府附属博物館・朝鮮故皇室宮殿・科学館・京城帝国大学。辛島驍助、藤塚鄰。
  • 6月29日、別府温泉。
  • 7月1日、大阪。朝日新聞社・上甲子園・宝塚動物園。
  • 7月2日、奈良。奈良公園・春日神社・東大寺・女子高等師範学校。
  • 7月3日、京都。京都大学。狩野直喜。
  • 7月4日、京都。京都府立第一中学・同志社大学・比叡山・琵琶湖。吉田卯三郎。
  • 7月5日、京都。御所・二条離宮・桂離宮・島津工場。
  • 7月6日、名古屋、犬山。八木幸太郎・一柳智成。
  • 7月7日、名古屋。真福寺・徳川公邸・第八高等学校。八木幸太郎。
  • 7月9日、東京。東洋文庫。長沢規矩也・石田幹之助。
  • 7月10日、東京。宮内省図書寮。塩谷温・長沢規矩也。
  • 7月11日、東京。東京帝国大学。
  • 7月12日、東京。東京文理科大学・上野図書館・静嘉堂文庫。諸橋轍次・長沢規矩也。
  • 7月14日、東京。内閣文庫・帝国教育会館。長沢規矩也・坪上貞二(文化事業部長)・塩谷温・国枝元治。
  • 7月15日、東京。古城貞吉。
  • 7月16日、東京。学士会館。服部宇之吉・諸橋轍次・塩谷温・宇野哲人・中山久四郎・小柳司気太・阪島忠夫・山田準慶・前川三郎・古城貞吉・高田真治・平野彦次郎・寺田范三・細田謙蔵・佐久節・竹田復・山本邦彦。
  • 7月17日、東京。山本邦彦・古城貞吉。

その間、各地の図書館で、『古逸叢書』の底本となった善本をはじめとする、古刻旧鈔を大量に参観していますが、東京での差配は主に長沢規矩也によるようです。また、7月16日、学士会館で開かれた大宴会には、ご覧の通り、当時の錚々たる漢学者が名を連ねており、まさに学界の佳話とも呼ぶべき華やかさです。

このような日本の漢学者との交流は、楊樹達の帰国後も続きます。しかしその一方で、1931年9月18日に瀋陽で起きた柳条湖事件を契機として(『積微翁回憶録』にも「聞日本強佔瀋陽消息」と見えます)、日中関係はどんどん悪化してゆきました。日本人に対する楊樹達の気持ちも複雑なものとなっていったことでしょう。1931年11月22日の記事に次のように見えます。

橋川時雄がやって来た。私は「日本人の侵略には理がない」と、きつく責めたが、彼も敢えて強く弁解したりはしなかった。

近代の日中関係の渦にまきこまれた人と人との交流は、「政治と学術とは切り離すべき」という建て前が通用しがたいほど入り組んだものであったように思われます。

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“1930年、楊樹達の日本再訪” への 3 件のフィードバック

  1. 4月から学術振興会特別研究員として人文研にお世話になる鄒双双です。Michael Hoeckelmann(何弥夏)と『華裔学志』について話し合った時に、先生のモニュメンタ・セリカ研究所を訪問される記事を紹介してくれました。陳垣や楊樹達について書かれた読書記を大変面白く読ませていただきました。実は、私は日中戦争期の北京における日中文化人について研究しております。これまで銭稲孫という翻訳家を調べて博士論文を書きましたが、「近代の日中関係の渦にまきこまれた人と人との交流は、「政治と学術とは切り離すべき」という建て前が通用しがたいほど入り組んだものであった」ということにつくづく同感します。

  2. 鄒先生

    コメントお寄せ下さいまして、まことにありがとうございます。返事が遅れまして、申しわけございません。

    ご高論「30年代の北京における銭稲孫像」、拝読しました。たいへん興味深く、勉強になりました。「偽」北京大学の学長もつとめた銭稲孫という学者の内面にまで踏み込まれたご研究と拝察いたします。認識を大いに改めました。

    せっかくですので、お目にかかる機会を持ちたいと思っております。近日中にこちらからうかがいます。

    学退拝復

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