『東方文化事業の歴史』


義和団賠償金を資金とし、1923年に制定・発布された「対支文化事業特別法」に基づいて施行された、「東方文化事業」。山根幸夫氏(1921-2005)による、『東方文化事業の歴史-昭和前期における日中文化交流』(汲古書院、2005年)は、東方文化事業を概観する書物です。

東方文化事業は、多岐にわたる事業をかかえていました。北京人文科学研究所・上海自然科学研究所の設立・運営、北京近代科学図書館・在上海日本近代科学図書館の開設、東方文化学院の設立・運営、東亜同文会・同仁会への援助、中国留学生の受け入れ、日中双方の人物交流など。昨日、書きました1930年の楊樹達来日も、この事業の一部として実現したものです。

本書では、以下の構成により、東方文化事業をとらえます。

  • 序説
  • 第1章    東方文化事業総委員会
  • 第2章    北京人文科学研究所
  • 第3章    上海自然科学研究所
  • 第4章    東方文化学院
  • 第5章    北京近代科学図書館
  • 第6章    在上海日本近代科学図書館
  • 結語

本書に描かれる北京人文科学研究所の失敗の歴史(第2章)は、一時は「パラダイス」とも称されたという、上海自然科学研究所の場合(第3章)と、好対照をなしています。北京人文科学研究所の最大のタスクは『続修四庫全書提要』の編纂でしたが、日本側の研究員は(橋川時雄を除いて)働かず、中国側の協力者は原稿料稼ぎに提要を書くだけ、何の学術交流もなかった、というのが、山根氏の見方です。本書第2章には次のようにあります。

東方文化事業の最重要事業として、何故服部(宇之吉)や狩野(直喜)は続修四庫提要の編纂にこだわったのであろうか。勿論、続修四庫提要の編修は無意味な事業とは言わないが、どうして続修四庫提要でなければならなかったのか。本来、日中双方の研究者が協同して学術交流を進める為の事業と云い乍ら、実際にこれに参画したのは、服部、狩野の他は、安井小太郎と内藤虎次郎の両名に過ぎなかった。而も、実際に提要の執筆に加わったのは、中国側の研究嘱託だけであった。日中の学術交流を云うなら、日本の研究者を北京に常駐させて、中国の研究者と一緒に提要の執筆に加わらせるべきでなかったのだろうか。北京人文科学研究所の研究事業の重要性を強調しながら、何故それにふさわしい対応をとらなかったのであろうか。(p.61)

第4章で取り扱われる、東方文化学院の東京・京都の両研究所についても、次のように言います。

東方文化学院を設立したことは、確かに日本人の研究者にとっては有難い措置であったかも知れないが、それが東方文化事業本来の目的に即応したと言えるのであろうか。それを先頭に立って実施した服部宇之吉や狩野直喜の意図はどこにあったのであろうか。どう考えても、日本側の恣意的なやり方ではなかったかと考えられる。(p.139)

本書全体を通読して、山根氏が「東方文化事業の事業計画の公正さを問うた批判の書」、そのような印象を持ちました。服部宇之吉・狩野直喜の意図が分からない、と、両碩学に対する疑義が繰り返し呈されています。

近代日中関係史を専門とされ、東方文化事業をご自分の生涯と関わらせてとらえる著者が遺されたこの見方は、重いものであるに違いありません。また賠償金というものの性質上、金の使い方は適正でなければならなかった、というのもよく分かる話です。しかし「学術交流」に対しての見方は、必ずしも一様ではないはずです。東方文化学院の意義、そして遺された『続修四庫提要』草稿の意義を積極的に評価する立場も、当然、もう一方に存在し得ることでしょう。

*山根幸夫『東方文化事業の歴史-昭和前期における日中文化交流』(汲古書院、2005年)、Webcat所蔵図書館は130館(本日付)。

広告

「『東方文化事業の歴史』」への1件のフィードバック

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中