日本の大学図書館における中国書の貧弱さ


 このブログ、「学退筆談」では、中国学を研究する際に必要と思われる中国書を紹介するよう、心がけています。もちろん、私個人の一面的な見方ではありますが、どうでもいいような書物、欠陥の大きな書物は避けているつもりです。

 書物を読む時、皆さんは書店で購入されますか?それとも図書館を利用されますか?「蔵書派」と「図書館派」の分かれ目です。大部分の方は、自分の蔵書と図書館の図書の両方をご利用のことと思います。

 大学生には、自分の通う大学の図書館を十分に活用してもらいたいと思います。大学の蔵書の豊かさは、それぞれの大学の力を測るメルクマールのひとつです。同じような授業料を払うなら、優秀な図書館を持つ大学に通った方が断然よいにちがいありませんし、また、同じ大学に通うなら、図書館の資料をより多く使いこなすことを目指すべきでしょう。

 そういう意味で、このブログで書物を紹介するたびに、大学図書館の連合目録、Webcatの所蔵状況をメモしてあります。皆さんの通う大学、将来、通いたい大学に、書物があるのかどうかを、こまめにチェックしてもらいたいと思っています。必要な書物がない場合は、図書館に申請書を出して、購入を促すべきです。

 しかしこのメモも、だんだんと苦痛になってきました。というのは、私の紹介する書物を所蔵する図書館が、あまりにも少ないからです。最近、紹介した書物の所蔵館数を見てください。

  • 中国社会科学院語言研究所古代漢語研究室『古代漢語虚詞詞典』商務印書館,1999年。Webcat所蔵図書館は39館。
  • 郑慧生『校勘杂志 : 附司马法校注』河南大学出版社,2007年。Webcat所蔵館は,2館。
  • 彭林『中国古代礼儀文明』中華書局(文史知識文庫),2004年。 Webcat所蔵館は,11館。
  • 錢玄,錢興奇編著『三禮辭典』江蘇古籍出版社,1993年,Webcat所蔵館は32館。
  • 張金泉,許建平『敦煌音義滙考』杭州大學出版社,1996年。Webcat所蔵図書館は26館。
  • 許建平『敦煌經籍叙録』中華書局,2006年。Webcat所蔵図書館は13館。
  • 楊樹達『積微翁回憶録・積微居詩文鈔』上海古籍出版社,1986年。Webcat所蔵図書館は16館。
  • 唐作藩『音韵学教程』,北京大学出版社,1987年。Webcat所蔵館は5館。
  • 唐作藩『音韻學教程』第2版,北京大學出版社,1991年。Webcat所蔵館は12館。
  • 唐作藩『音韻學教程』第3版,北京大學出版社,2002年。Webcat所蔵館は0館。
  • 『啓功口述歴史』北京師範大学出版社,2004年。Webcat所蔵館は0館。

 日本の大学図書館の中国書蒐集に、このような穴があるとは思いませんでした。とても残念なことです。中国書の蒐集が軽んじられているのでしょうか。学生の皆さんにというより、大学図書館の関係者に対する問題提起です。

『啓功口述歴史』


啓功 『啓功口述歴史』(《启功口述历史》北京師範大学出版社、2004年)は、書法家、古典学者として名高い啓功氏(1912-2005)が生前に遺された歴史の証言です。出版後、中国ではかなり話題になっていましたが、今頃になって読んでみました。

 啓功氏は、雍正帝の10世の子孫、清朝の皇室に連なる人です。もっとも、曾祖父の溥良の頃には、だいぶ爵位も下がっており、溥良は爵位を捨てて科挙を受験して官人となったそうです。そして啓功氏の父親が早く亡くなったこともあり、啓功氏の一生は、清室の貴人ということばから連想される華やかさとはほど遠いものであったことが、この書物を通して分かります。

  • 第1章 我的家族
  • 第2章 我的童年和求学之路
  • 第3章 我与辅仁大学
  • 第4章 我与师大
  • 第5章 学艺回顾

 みずからの家系から説き起こして、父を早くに失った少年時代、ラマ教徒としての宗教生活、匯文小学・中学時代、溥心畬・斉白石らについて学んだ修業時代、輔仁大学での仕事ぶりや「校長」陳垣との関わり、解放後に輔仁が北京師範大学に合併された後の苦労、反右派闘争(啓功氏はその出自からして、早々に右派と決めつけられました)、文化大革命、そして晩年における名声の確立と、めまぐるしく語られる啓功氏の生涯は、まさに近現代中国の激動の縮図です。

 偉人が自己を語るという点においては、『福翁自伝』に似ていなくもありません。ともに「口述」が成功を収めています。隠すことなく自分自身を語るところに、歴史の証人としての非常に大きな価値を感じます。

 この人にしか語り得なかったことが満載されています。16開という大きな版型と比較的軽い料紙には、最初、違和感を持ちましたが、慣れてくると、豊富に盛り込まれた貴重な写真とあいまって、まるで週刊誌を手に取るかのような気安さを感じ、最後まで心地よく読むことが出来ました。

 心にのこったエピソードを一つ。文革末期の1975年、長年、苦楽をともにした夫人が病気で亡くなりました。弔問に訪れる人々に感謝しつつも、彼らに対して、啓功氏は、少しだけ夫人と二人にしてほしい、と頼みます。そして、啓功氏は夫人の遺体の前でひっそりとお経を上げました。文革期に宗教が禁止されていた中、人目を忍んで夫人を悼む啓功氏の姿は、読者の胸を打ちます。

 学術生活においては、輔仁時代の交友関係の話題がもっとも精彩に富んでいます。そのほかにも、文革中の「二十四史」点校プロジェクトの話などは、初めて知ることで、興味深く読みました。

 内容のおもしろさもさることながら、活き活きとしたことばで語られているので、中国語の学習にももってこいです。本書を1週間程度で読了できる人は、相当に中国語の読解力が高いといえるのではないでしょうか。

 日本の書道界には、啓功氏のファンが多いようなので、本書の邦訳にはある程度の需要が見込めるのかも知れません。

* 『啓功口述歴史』(北京師範大学出版社、2004年)、Webcat所蔵館は、0館(本日付)。

『啓功口述歴史』 の続きを読む

「二つの封面」の答え


 【推理】初版は本文が簡化字であったので、それに見合った封面でしたが、第2版以降は本文を繁体字に変更したため、あらためて周祖謨氏に依頼して書いてもらったものでしょう(ただし、まだ第2版を実見していないので、この推理は誤っているかも知れません)。

 ただそれだけの話なのですが、思ったことなどを少し。

 【印象】中国の書物の場合、題簽は名のある人に書いてもらうことが多いですが、その際、芸術的な効果が優先され、個々の文字の形に拘泥することは少ないように思います。たとえば、『現代漢語詞典』の題簽は郭沫若氏(1892-1978)の揮毫とのことですが、「現」「語」「詞」が簡化されていない字で、うるさく言うと「典」も異体字です。また、ポスト郭沫若時代に題簽を多く手がけた啓功氏(1912-2005)も、簡化字版の書籍に対して繁体字の題簽を多く書かれています。それとは別に、繁体字の書籍に対して、簡化字の題簽が書いてある例も少なくありません。そういう一般的な事情を考慮すると、『音韻學教程』の場合、少しこだわり過ぎなのかな、という印象を持ちました。唐氏は簡化字が嫌いなのかもしれない、それが封面を変更した主な理由なのではないか、と勘ぐっています。現代漢語詞典

【補一】背表紙には「音韵學教程」と書名が表記されています。これは単純な誤記かも知れません。奥付(”版本记录”)では、正しく「音韻學教程」となっています。

【補二】初版の「学」字は、簡化字の規範に従ったものというよりは繁体字「學」をくずしたものに見えます。

二つの封面


 クイズです。音韻学教程初版

 唐作藩『音韻学教程』の初版(北京大学出版社、1987年)と第3版(北京大学出版社、2002年)の二つが手もとにあるのですが、封面を見比べてみると、似てはいますが、違います。上のものが初版の封面、下のものが第3版の封面です。

 両方とも、高名な語言学者である周祖謨(1914-1995)氏の揮毫です。音韻学教程3版

 「なぜわざわざ、このようにそっくりな封面を二度も書く必要があったのでしょうか?推理してみてください」。これが今回の問題です。ふるってお答え下さい(ヒントは前回のエントリにあります)。

『音韻学教程』


 唐作藩(1927-)『音韻学教程』第3版(北京大学出版社、2002年)は、漢語の音韻学を学ぶための教科書であり、中国の大学の授業で用いられているものです。

 第1章 緒論

  • 第1節 音韻學的對象
  • 第2節 音韻學的功用
  • 第3節 音韻學的學習方法

第2章 音韻學的基本知識

  • 第1節 漢語音韻結構特點
  • 第2節 反切
  • 第3節 關於聲紐的概念
  • 第4節 關於韻母的概念
  • 第5節 關於聲調的概念
  • 第6節 等韻圖

第3章 《廣韻》音系

  • 第1節 《廣韻》的由來和體例
  • 第2節 《廣韻》的性質
  • 第3節 《廣韻》的聲母系統
  • 第4節 《廣韻》聲母和現代普通話聲母的比較
  • 第5節 《廣韻》的韻母系統
  • 第6節 《廣韻》韻母和現代普通話韻母的比較
  • 第7節 《廣韻》的聲調
  • 第8節 《廣韻》音系的構擬
  • 第9節 《廣韻》反切的規律

第4章 漢語音韻學簡史

  • 第1節 韻書産生以前的古音研究
  • 第2節 《廣韻》以後的韻書

 私は学生時代、漢語音韻学の大家に手ほどきを受け、自分でも幾つか概説書を読んでみたのですが、どうしても理解した気になれませんでした。音韻学は、中国語学を専攻する人にとって必要なのはもちろん、中国文学・中国思想を学ぶためにも重要な学科です。さように重要でありながら、マスターできる人は多くありません。「音韻学は難しい、理解しがたい」、というのは、必ずしも私にかぎった話でもなさそうです。

 本書の著者、唐作藩氏は次のように書いています。

 「音韻学は難しいか、難しくないか?」と問うた人がいる。難しい一面もあるが、また容易な一面もある、と我々は答えたい。難しいというのは、音韻学を学ぶのは、他の学科を学ぶのと違うところがあるからだ。たとえば古典文学、現代漢語などを学ぶ場合、過去に我々は多少なりとも対象に接触したことがあるわけだが、音韻学の場合、初めて接触するものだ。さらに面倒なことに、漢字は表音文字ではなく、古代には科学的に音を記録する道具もなかったので、表音文字ではない漢字によって語音を記述し、それによって漢字の読音を分析するのだから、どうしても専門的な術語を作る必要があったので、それが我々にいささかの困難をもたらしてしまうのである。……。

 けれども、我々が、音韻学は難しくない、そして容易ですらある、と言うのにも根拠がある。音韻学は畢竟、一種の「口耳の学」であり、ある言語やある方言を習うのと同じで、本来、特別なところはまったくなく、音韻を学習するというのは古代の語音を学習するということで、さらに語音は言語の三要素(語音、語彙、文法)のうちで最も系統性に富んでおり、語音の声母、韻母はともに有限であるから、それらを掌握してしまえば、系統全体も掌握することができるので、それゆえ、学習する際、その便利なところが確かにあるのだ。(p.12、第1章第3節)

 漢語音韻学は、外国人にとって難しいのみならず、漢語を母語とする人々にとっても、難しい面があることが知られます。著者は、長年、音韻学の講義をされて、学生が難しく感じる部分を熟知しているのでしょう。難しさを解消すべく、音声学をしっかりと説明し、国際音声記号(国際音標)を基準にしている点が、私にとっては分かりやすく感じられました。

 音声の問題を抜きにして、音韻学上の諸概念を理詰めで理解できる人もきっといるのでしょうが、その方法では私には理解できませんでした。たとえば、「五音」とは、音節のはじめの子音を喉音・舌音・歯音・唇音・牙音の五つに分ける伝統的な術語ですが、歯音といわれても、具体的にどう発音するのか、はっきりしません。しかし「精」の中古音の声母が、「舌尖前、塞擦音、清、不送気(Voiceless alveolar affricate)」であることが分かれば、国際音声記号表に照らして、それは現代漢語の「資」の声母と同じ音だと分かります。伝統的な音韻学の術語は、すべて国際音声記号で解釈できる、というのが、この教科書のミソです。

 目次からも分かるように、第3章、中古音の解説が内容の主体となっています。ただ、それを理解するためには、第2章の理解が不可欠であり、そこを読めば音声が分かるようになっています。逆に言うと、第2章をよく理解すれば第3章は難しくない、と感じました。音韻学は、確かに「口耳の学」なのだ、と納得できました。

 中古音の推定音価は、あくまでも「推定」ですから、確定したものではありません(そもそも古代の音を厳密に復元するのは原理的に不可能でしょう)。しかしながら、そうではあっても、手がかりとしてはきわめて有用です。歴史地図が、必ずしも正しくないとしても、古地理の理解に不可欠であるのと似ています。推定音価に疑いを抱くのは、初級の段階では不要ではないかと思います。

  私の読んだのは第3版ですが、第2版(1991年)と初版(1987年)もあります。書架を探ってみたところ、初版も見つかりました(橋本先生手沢本、なぜ私の手もとにあるのか、不明)。初版は簡化字版ですが、第2版・第3版は繁体字版です。比較してみたところ、内容は同一ですが、初版にあった誤りが第3版では訂正されているなど、細かい修正が加えられています。

*唐作藩『音韵学教程』(北京大学出版社、1987)、Webcat所蔵館は5館。

*唐作藩『音韻學教程』第2版(北京大學出版社、1991)、Webcat所蔵館は12館。

*唐作藩『音韻學教程』第3版(北京大學出版社、2002)、Webcat所蔵館は0館。