『北朝礼制法系研究』


 李書吉『北朝礼制法系研究』(人民出版社、2002年)は、中国の北朝時代における礼制と法体系を論じた書物です。北魏の制度の解釈に大きな紙幅が割かれています。

  • 绪论
  • 第一章 北魏孝文帝托周改制 第一节 关于礼制的缘起及相关问题概述 第二节 孝文帝改制前北魏的国家形态和政治治理 第三节 孝文帝以“齐美于殷周” 小结
  • 第二章 北朝周典化礼制体系 第一节 以圆丘大祭为核心的北朝祭祀 第二节 以服制为重点的终丧制度的改革 第三节 重定姓氏指导下的婚制改革 第四节 以尊老举贤为主要内容的巡狩乡饮之礼 第五节 礼制孝本位的回归 第六节 北朝礼制的特点和基本精神  小结
  • 第三章 北朝礼学系统 第一节 佛教心性的缘起及其流传 第二节 心性说的佛道、佛儒南北二系 第三节 南北义疏之学与礼学 第四节 南北二系三教在礼制轨道上的归宗及三礼的著述 小结
  • 第四章 南北朝时期的法律北系 第一节 北魏前礼法的发展以及二者关系概述 第二节 北朝以礼入法及中华法系的基本奠定 第三节 中华法系为什么能奠定于北朝 小结
  • 第五章 对中华法系的基本认识 第一节 从《太和律》至《唐律疏议》的脉系传承 第二节 《唐律疏议》中的礼制内容 第三节 法系判例案由分析
  • 附论

  鮮卑族の拓跋部の出身である、北魏の皇帝たちがどのように北中国を支配し、その国家を漢化していったのか、孝文帝(在位471-499)に焦点を当てて、その前後の脈絡を丁寧に追っています。

 孝文帝は父、献文帝の後見人でもあった馮太后の影響を強く受けて漢化をすすめました。馮太后は漢人であって(十六国の北燕の皇室の子孫です)、わずか5歳で即位した孝文帝を後見したのですから、影響が決定的であったのは理解できます。鮮卑では、皇帝が即位する前にその実母を殺す習慣でしたから、このようなわきからの影響が成り立ち得たのです。

 異民族であった鮮卑は、漢族との協調をとるために、漢化せざるを得ませんでした。これは、すでに陳寅恪(1890-1969)が論じたことでした。著者である李書吉氏の論点は、「鮮卑を漢化するためには、彼らに礼を守らせるしかなかった。そして彼らに礼を守らせるには、法律によって強制するしかなかった。それには中央集権的な発想と手段を用いるほかなかった」というものです。その議論は非常に明快で、首肯するところが数多くありました。

 ストーリーは単純ですが、多くの資料によって裏付けをとりながら、北魏の律から『唐律』へ、そして『唐律』から後世へ、とつながる、中国の律令制度の展望を示しています。中国の歴史は長いので、およそありとあらゆるものには「前代からの継承」の面があり、礼や法の体系も、まさにその例です。しかし北魏におけるそれは、単なる継承ではなく、「漢民族/異民族」の強烈な対立があったからこそ、新たな体系として生まれ変わり、それが中国史上、画期的であった、というわけです。

 隋唐の国家制度設計に与えた影響力から考えると、南朝よりも北朝の方がはるかに大きかった、というのは、陳寅恪も論じ、銭穆も論じたことですが、李書吉氏の議論もなかなか堂々たるものです。「北魏なかりせば、日本の律令制度輸入もなかったかも知れない」、との感想を受けました。興味深い一冊でした。

 *李書吉『北朝礼制法系研究』(人民出版社、2002年)。Webcat所蔵館は、13館。(本日付け)

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ミレス作のヘディン像


ミレスのポセイドン スウェーデンを代表する彫刻家、カール・ミレス(Carl Milles, 1875-1955)の自宅兼アトリエを公開している、ミレス・ガーデン(Millesgården)を見学してきました。

 ストックホルムの市街の公共施設などに相当数の作品が今も伝えられる作家で、肉体の構造をかなり軽視した独特の人体描写、「野蛮な微笑み」と称される表情の造形を行っています。一度見ると忘れられない、個性的な表現です。彼が作るブロンズ像は、かなり複雑な制作工程を重ね、手間と金のかかるものであった、と聞きました。そのような彫刻を自宅の庭園に集めたのが、ミレス・ガーデンです。

Statue of Sven Hedin そのミレスが作ったスウェン・ヘディン像がこの庭に存在しました。ラクダにまたがったヘディンが、なにやら計測器のようなものを眼に当て、遠方をのぞんでいます。小さな像ではありますが、まさに探検家が次の一歩を踏み出すべく、遠くを眺めやっている、という趣で、力強く感じました。その表情に「野蛮な微笑み」があるわけではなく、ミレスの代表作というわけでもなさそうですが、ヘディンに対する思慕の念を抱きました。

 それ以外にも、面白いものを見ました。郭沫若(1892-1978)が1962年に揮毫した書が壁に掛けられているのです。それにより、郭沫若が3度もこの庭園、「米列士園」を訪れたことがわかります。郭沫若とミレス、ほかの資料からも両者のつながりを知りたいものです。

スウェーデン民族誌博物館にて


the museum of ethnography 本日、ストックホルムの民族誌博物館(英 the Museum of Ethnography, 瑞 Etnografiska Museet)を訪問。この博物館は規模こそ大きくありませんが、東洋学を志すものにとっては、大きな意味を持っています。というのは、この博物館は、スウェーデンの生んだ大探検家、スウェン・ヘディン(Sven Hedin, 1865-1952)の蒐集品や蔵書を収めているからです。

 ヘディンの発見は、中国史、中央アジア史にきわめて重要な資料をもたらし、新たな光を当てました。特に1901年における楼蘭の発掘はよく知られ、多くの概説書が書かれ、ドキュメンタリー番組も作られました。こ の博物館を訪れてヘディンに触れ、そしてヨーロッパの「探検熱」に触れ、有意義でした。

 楼蘭文書は通常展示としてもいくつか陳列されていますが、それ以外にも、「残紙」「木簡」を特別に見せていただくことができ、幸運でした。3世紀、4世紀の素晴らしい書法を目にすることができました。

 1989年に当時、西武百貨店の美術館で展示されたことがあります。その時、東京文化財研究所が仲介して、装丁をしたそうです。表裏両面に書かれた紙も数点ありますが、いったん表裏をはがした上で中に和紙を挟んで貼り合わせ、両面とも判読できる姿に再構成されています。博物館のホーカンさんは、「内容も素晴らしいが、装丁も同じように素晴らしい」と胸をはっていらっしゃいました。よくできた桐箱に入れられ、大切に保管されています。

 楼蘭の紙は敦煌の紙以上に古いものです。北欧の地にて、古い紙、古い墨を眼にするのは、不思議な体験です。「19世紀的な文化侵略」などと浅薄な批判をする気にはなれません。ここでは、中央アジアの遺物がたいへん重んじられていることを知りました。

 なお、この博物館に収める楼蘭文書は、冨谷至編著『流沙出土の文字資料-楼蘭・尼雅文書を中心に』(京都大学学術出版会、2001年)に収録されており、見ることができますので、図書館などでご覧ください。    

啓功と『真草千字文』


啓功千字文 先日ご紹介した、『啓功口述歴史』(北京師範大学出版社、2004年)から、『真草千字文』にまつわる話題をひとつ。

 啓功(1912-2005)は17歳の時、顔真卿『多宝塔碑』の拓本を目にして、突然「開悟」し、書家として身を立てることを決意するに至ったそうです。その後、趙孟頫、董其昌、欧陽詢、柳公権を学び、書家としての基礎を築いた、と語っています(p.171-173)。さらに、次のように言葉を継ぎます。

  後に、私は歴代の各種の墨跡碑帖をさまざま臨書したが、なかでも智永の『千字文』にはもっとも力を注ぎ、いったい何度臨書したことか知れないが、ならうたびにかならず新しい体得と進歩があった。出土文物や古代の文字がたえず発見され世に伝わるのに従い、さいわい、我々はより多く古人の真品の墨跡を目にすることができるようになり、これは私が書法を学ぶのにたいへん大きな助けとなった。

 私は碑拓の作用を否定するわけではなく、碑拓はつまるところ原作の基本的なありさまを保存できているわけだし、とりわけ、好い碑刻は神髄を伝えうる水準にさえあるのだが、ただ古人の真品の墨跡は、その結構の由来と、運筆の点画曲折を、我々によりはっきりと見せるのだ。(p.173)

 そして、現代の複製技術が、書法の学習に大いなる便をもたらしていることに触れ、さらにこう言います。

 智永の『千字文』について言うと、もともと智永の石刻本と呼ばれたものには4種あるが、模刻が精密でなく、繰り返し拓を取られることにより本来の姿が失われ、あるものは筆意こそ墨跡自体と合致するものの、欠損がひどく、結局は模刻に過ぎず本物ではない。ところが日本で智永の真跡が発見されてからというもの、このような遺憾な事態はすべて解決された。…。現在、この真跡は高度な科学技術により影印出版されており、だれもが入手可能で、私もこの本によって臨模した。(p.174)

  我々の先祖がよく保存し、よく伝えた『真草千字文』は、我が国の国宝であるのみならず、人類の貴重な遺産です。私は『千字文』の読誦をみずからにも学生にも課し、「文言基礎」というサイトも作りましたが、それは、この『真草千字文』を広く伝えたいという気持ちもあってのことでした。

 なお、二玄社「書跡名品叢刊」のような書跡の写真版は、現在ではあまりにも入手がしやすく、そのありがたみを感じづらくなってすらいますが、古人と比べてはるかに恵まれた条件の下に我々はあるのだ、という啓功のことばは、確かにその通りで、忘れるべきでないと思います。

ブログ購読のお願い


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 もともとこのブログ「学退筆談」は、自分のメモ代わりのつもりで始めたのですが、だんだんと読者の皆さまの目を意識するものへと変貌してゆきました。この方向性は、しばらく変えないつもりです。そういう意味では、皆さまのご希望に即した内容としたいと思います。コメントも、これまで以上、積極的にお寄せ下さい。

【追記】ブログのテーマ変更にともないまして、「メール購読」ボタンの位置を変更しました。現在、サイト下方、フッタに設置してあります。よろしくご利用下さい。

唐写本『説文』木部


大阪の武田薬品、杏雨書屋がいま所蔵する、国宝の唐写本『説文』木部残巻。この本の真贋をめぐって、清末以来、論争があります。贋作と見るのは、孫衣言、孫詒讓、朱一新、黄以周、惲天明、何九盈ら。一方、真作と見るのは、莫友芝、楊守敬、内藤湖南、周祖謨、梁光華、沈之傑ら。

写本は紛れもなく唐代のものであり、本来こんなことは問題にもならないはずです。しかし、1957年に雑誌『中国語文』で、惲天明氏が孫詒讓の偽作説を紹介し、さらに2006年、何九盈氏が問題を蒸し返しました。『中国語文』を主戦場に交わされた戦いは、以下の通り。

  • 周祖謨〈許愼和他的《説文解字》〉,《中國語文》1956年9月(總51期)。
  • 惲天明、周祖謨〈關於唐本《説文》的真偽問題〉,《中國語文》1957年5月(總59期)
  • 何九盈〈唐寫本《説文・木部》殘帙的真偽問題〉,《中國語文》2006年5期(總314期)
  • 梁光華〈也論唐寫本《説文・木部》殘帙的真偽問題〉,《中國語文》2007年6期(總321期)
  • 沈之傑〈試説唐寫本《説文・木部》殘帙在清代以前的定位與流傳〉,《中國語文》2007年6期(總321期)

莫友芝(1811-1871)が幻の唐代写本、『説文解字』木部を入手して喜び、1864年、《唐寫本説文解字木部箋異》を木版印刷して世に問いました。それに対し、木板印刷からでは、唐写本の存在を信じ切れなかった学者たちがおり、当時17歳の孫詒讓も含め、彼らがあやふやな論拠を基に本書を疑った、というのが一連の偽書騒動の実情のようです(梁氏、2007)。孫詒讓らは、何と、現物も写真も見ずに疑ったのです。当時、写真版が技術的に可能であれば、問題にすらならなかった話でしょう。

それだけに、「何でいまさら」の感がぬぐえません。特に、孫詒讓関係の資料は惲氏がすでに出しているにも関わらず、何氏が『孫衣言孫詒讓父子年譜』(上海社会科学出版社、2003)からの新出資料扱いで提示しているのは、粗忽です(梁氏、2007)。

2007年6期号に、すかさず反論が2本載せられたのは、さすがに『中国語文』の良心というべきでしょう。ともに有効な反論になっているので、ご関心の向きは是非、ご一読を(梁氏のものは、ネット上でも読めます)。一方、わが『汲古』に載せられた何氏論文の紹介には、何氏への批判がありませんでした。この点、残念に思いました。

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漢数字の表記


四部叢刊本玉篇 この8月はかなり無理をして論文を書いたので、ブログの更新が止まってしまいました。申し訳ございません。久々の更新となりましたが、これからもよろしくお願いいたします。

さて今日は、漢数字の書き方のお話です。たとえば56という数字を漢字で表記する場合、文言文ならば「五十六」と書き、138なら「一百三十八」と書くのが正しいはずです。事実、基本的にそのように表記されています。

近代以後、56を「五六」と書き、138を「一三八」と書く習慣が普及しました。民国以後の学者たちも、文言の中にそのような表記法を混入させています。

これについて、私はてっきりwestern impact の現れの一つなのだと思っていました。ところが今日、これが誤解であることに気がつきました。「四部叢刊」に影印を収める、元刊本の『大広益会玉篇』の「総目」を見てください。1は「一」、2は「二」、…、10は「十」、11は「十一」、…、20は「廿」、21は「廿二」、…、30は「卅」、31は「卅一」、…、40は「四十」。ここまでは、違和感がないのです。ところが何と、41を「四一」、42を「四二」と表記しているではありませんか!これには驚きました。以下、99までは、そんな調子です(10の倍数は「五十」「六十」「七十」「八十」「九十」で、正しいのですが)。100は「一百」。101が「百一」というのは愛嬌でしょう(正式には「一百一」)。141になると、また「百四一」です。こんな感じで、最後の部首「五百四二、亥」まで続くのです。

これは、「総目」に1行5つの部首を整然と並べるため、スペースをケチった結果かも知れません。その証拠に、本文の見出しには、正しく「四十一、面」「一百二十六、走」と、変な省略をせずに書いてあります。

しかし私が西洋風だと思っていた書き方も、スペースの省略のために近代の文言文に導入された、と言えなくもありません。そう考えると、もっと重要な問題は、「零」「〇」の字を数字として文言文に持ち込んだのは、誰であったか、ということではないでしょうか。古代ローマや古代中国にゼロに当たる文字がなかったことは有名な話ですが、「零」「〇」を「漢数字として」文言文に持ち込んだのは、如何なる人物であったのか?

『辞源』で「零」字を調べると、「數的零頭或空位」の義として、次の資料が挙げられています。

宋・包拯『孝肅包公奏議』「擇官再舉范祥」:「勘會范祥新法,…二年計増錢五十一萬六千貫有零」。

明『兵科鈔出題本』「戸部題為襄餉告罄目前難支等事」:「通共三百零三萬餘兩」。

しかし上記の例では、「五一六零零零」「三零三萬」などとは表記されていません。おそらく、「零」「〇」についての詳しい考証も、すでになされていることでしょう。答えを知りたいものです。

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