漢数字の表記


四部叢刊本玉篇 この8月はかなり無理をして論文を書いたので、ブログの更新が止まってしまいました。申し訳ございません。久々の更新となりましたが、これからもよろしくお願いいたします。

さて今日は、漢数字の書き方のお話です。たとえば56という数字を漢字で表記する場合、文言文ならば「五十六」と書き、138なら「一百三十八」と書くのが正しいはずです。事実、基本的にそのように表記されています。

近代以後、56を「五六」と書き、138を「一三八」と書く習慣が普及しました。民国以後の学者たちも、文言の中にそのような表記法を混入させています。

これについて、私はてっきりwestern impact の現れの一つなのだと思っていました。ところが今日、これが誤解であることに気がつきました。「四部叢刊」に影印を収める、元刊本の『大広益会玉篇』の「総目」を見てください。1は「一」、2は「二」、…、10は「十」、11は「十一」、…、20は「廿」、21は「廿二」、…、30は「卅」、31は「卅一」、…、40は「四十」。ここまでは、違和感がないのです。ところが何と、41を「四一」、42を「四二」と表記しているではありませんか!これには驚きました。以下、99までは、そんな調子です(10の倍数は「五十」「六十」「七十」「八十」「九十」で、正しいのですが)。100は「一百」。101が「百一」というのは愛嬌でしょう(正式には「一百一」)。141になると、また「百四一」です。こんな感じで、最後の部首「五百四二、亥」まで続くのです。

これは、「総目」に1行5つの部首を整然と並べるため、スペースをケチった結果かも知れません。その証拠に、本文の見出しには、正しく「四十一、面」「一百二十六、走」と、変な省略をせずに書いてあります。

しかし私が西洋風だと思っていた書き方も、スペースの省略のために近代の文言文に導入された、と言えなくもありません。そう考えると、もっと重要な問題は、「零」「〇」の字を数字として文言文に持ち込んだのは、誰であったか、ということではないでしょうか。古代ローマや古代中国にゼロに当たる文字がなかったことは有名な話ですが、「零」「〇」を「漢数字として」文言文に持ち込んだのは、如何なる人物であったのか?

『辞源』で「零」字を調べると、「數的零頭或空位」の義として、次の資料が挙げられています。

宋・包拯『孝肅包公奏議』「擇官再舉范祥」:「勘會范祥新法,…二年計増錢五十一萬六千貫有零」。

明『兵科鈔出題本』「戸部題為襄餉告罄目前難支等事」:「通共三百零三萬餘兩」。

しかし上記の例では、「五一六零零零」「三零三萬」などとは表記されていません。おそらく、「零」「〇」についての詳しい考証も、すでになされていることでしょう。答えを知りたいものです。

【追記】 私はこれまで『大広益会玉篇』を使いながら、今日にいたるまで上記の事実に気づきませんでした。慙愧にたえません。言い訳をすると、私は普段、中華書局の沢存堂本影印本を利用しているのですが、今日、手もとにたまたま「四部叢刊」本のみあったので、その「総目」を見ました。そこでようやく、この事実に気づいたのです。何とも、お恥ずかしい話です。

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