許慎の故郷にて


趙振鐸先生筆跡  『説文解字』の著者、許慎の故郷は、汝南の召陵。現在の地名で言うと、河南省漯河市召陵区です。その漯河市にて、許慎の偉業を称える第2回「許慎文化国際研討会が大々的に催され、私も参加してきました。

 この会議に関して書くべき事は少なくなく、許慎を顕彰すべく新しく、許慎の墓の前に「許慎文化園」が作られたことなどは、その様子を日本の読者にお伝えすべき事ですが、それは、後日のこととさせていただくこととして、何より、多くの旧知の先生方に拝謁し、そして、初めてお目にかかる方々が多かったことが、私にとって嬉しいことでした。

 中でも、このブログでも紹介した趙振鐸先生のお目にかかることができたのは、望外の幸せです。『訓詁学概論』『訓詁学史略』の著者である趙先生は、私が心から尊敬する学者です。この学会の席で、何度かお見かけしても、緊張のあまり挨拶することもできませんでしたが、思い切ってお声をおかけすることができました。

 素直に大ファンである旨を告げると、快く握手してくださいました。そして、”boduoyetailang”先生という日本人と友人である、とおっしゃいました。日本人の姓名は、中国語で聞くと分からないので、紙に書いてもらいました。それが上掲の写真です。そして、「波多野先生はお元気か?」と問われました。私自身、波多野先生のご業績を愛用させてもらいながら、一度もお目にかかったことがなく、それゆえ、趙先生のご質問にも答えられなかったのは、実に残念でした。それでも、趙先生と波多野先生との交流に思いをはせ、とても満足しました。一生、忘れられない思い出となることでしょう。

 そして今夜は、学会も閉幕し、同じように敬愛してやまない葉国良先生のお酒におつきあいさせていただくことができたのは、幸せのきわみです。白酒の杯を傾けながら、親しく葉先生の高邁な理想をうかがい、深く感動しています。

 もちろん、この感動を今後、どのように自分の学問に反映させるのか、それが一番の問題であることは、間違いないことです。

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清華大学にて


海寧王先生之碑銘
陳寅恪「海寧王先生之碑銘」

 今日、清華大学を初めて訪問しました。清華大学は、1911年に創建された大学で、中国の近現代史を語る際、落とすことのできない要素の一つです。

 ということは、この大学を語るためには、数冊もの書物を書くことが当然、必要となりますが、ここにその余裕はもちろんありません。初めてこの学園を訪れた者として驚いたのは、この大学が、あまりにも鮮明に清朝の王族の庭園たる、熙春園(清華園)の面影を伝えていることでしょうか。学園内で見かける「水木湛清華」の語には、まったく偽りがありません。

 学内の到る所に名所があることは申すに及びませんが、漢学を専攻する者がまず第一に興味を抱くのは、陳寅恪が亡き王国維のために書いた「海寧王先生之碑銘」に違いありません。この碑は、文革中、行方知れずになっていたそうですが、後に分かってみると、どこかの実験室の物置台になっていたということです。今は「恢復」されて、誰でも参観できるようになっています。

立碑の分業 面白い話をうかがいました。近年、これも「恢復」された清華大学の文科の授業において、ある先生は、この碑の内容を理解しているかどうか、清華の学生に様々な問題を出すそうです。とても文化的な話だと、私は感じました。

 ここは本当に素晴らしい学園です。学生寮は低額、食堂も品数豊富で安価ときては、学生にとっては実に魅力的なことでしょう。

 漢学の伝統も復活させ、来年、清華大学は建学100周年を迎えます。これから、この大学がどのように発展してゆくのか、大いなる関心を持って見守っています。

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嵩山の如し


 小林新兵衛は、享保年間(1716-1735)の出版界に重きをなした出版者です。しかしながら、小林新兵衛の子孫のうち、その当主は代々、小林新兵衛を名のりましたので、小林新兵衛がどの小林新兵衛なのかを確定させるのは、なかなか難しい話でしょう。それはともかく、江戸の学者たちの得面目躍如たる逸話集、原念斎『先哲叢談』(平凡社、東洋文庫、1994年)から、享保年間に活躍した小林新兵衛の逸話をすこし。

 かの小林新兵衛は、荻生徂徠(1666-1728)と深い付き合いがありました。次のエピソードはたいへんに有名なものです。

書商小林新兵衛、徂徠に請ひて曰く、「小子家号無し。願はくは先生命ぜよ」と。徂徠笑ひて曰く、「書賈、吾が門に出入する者五人あり。而して爾が鬻(ひさ)ぐ所、価最も高し。猶ほ嵩山の五嶽に於けるが如し。宜しく嵩山房と名づくべし」と。(『先哲叢談』巻6、荻生徂徠、第13条、p.287)

  中国の五名山のうち最も高いという嵩山になぞらえるという、徂徠らしい皮肉によって家号が付いたわけです。東洋文庫本の注に「江戸日本橋通二丁目。徂徠の『学則』(享保十二年刊)、『中庸解』(宝暦三年刊)を出版し、また春台をはじめとする蘐園諸子の書を刊行した」(p.287)と言うように、徂徠門下との関わりの深い出版者でした。

  嵩山房と太宰春台(1680-1747)の関係も、もちろん『先哲叢談』に見えます。吉宗の側近が春台『経済録』を嵩山房から入手して吉宗に進呈しようとしたところ、いろいろ理由をつけて春台が写本の供与を拒んだ、というものです(『先哲叢談』巻6、太宰春台、第5条、p.321)。

  そして享保十六年、太宰春台は、中国大陸で伝を絶っていた『古文孝経』孔安国伝を逆輸出する意図をもって、同書の校刻を行い、翌年、出版しました。当初は、商業出版ではなかったはずですが、小林新兵衛に目を付けられたのでしょう、結局、嵩山房から何度も版を重ねて売られる仕儀となりました。

 最も信頼できる和刻本漢籍の目録、長澤規矩也『和刻本漢籍分類目録』(汲古書院、1976年)にも嵩山房の太宰純点『古文孝経』として、延享元年、天明3年、寛政4年、文化9年、文政2年、嘉永2年、嘉永4年、万延元年、慶応2年版を載せていますが、これらは、江戸時代を通じて出版された嵩山房の太宰点『古文孝経』のごくごく一部です。『和刻本漢籍分類目録』の「凡例」に「孝経については薄冊なので、比較は楽である一方、無刊記の刊本が多く、それらの版種の異同の区別が難しい。最近斯道文庫の大沼君が全国の所蔵家を歴訪して伝存目を編修中なので、この目を基礎にして完成を同君に求める」とあります。嵩山房の『孝経』に限って言っても、徹底的な目録を作るのはなかなか難しい作業だと想像します。かの長澤氏ですら、そう言われたのでした。

  私も十数年ほど前、いろいろと嵩山房の『古文孝経』を古書肆で買いましたが、版面を比較してみると、一つとして重複するものがありませんでした。和刻本のなかには、刊記から見ると、違う出版者が出した異版のように思えるが、実は同一の版木を使用した同版である、というものもありますが、嵩山房の『古文孝経』の場合は、見事にそれぞれ違う、という印象でした。

 徹底的に調べたわけではないので、確定的ではありませんが、これは、「版が磨滅するほど多くの部数を刷り、しかも版木が古くなるたびに版木を新調して刷って売り続けた」ということを意味するはずです。「猶ほ嵩山の五嶽に於けるが如し」と評されるほど、本の値段を高く付けた嵩山房のことですから、この薄い薄い『古文孝経』の版権を独占し、巨万の富を築いたのは、想像に難くありません。「漢籍を売って富を得る」時代、それが江戸時代の一面であったのです。

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僧洪の奇跡


銅銭と仏像の関係について書いていて、思い出したのが、『高僧伝』の興福篇です。

梁の慧皎『高僧伝』では、訳経(翻訳僧)、義解(経典を解釈して教える僧)など、僧侶を十の類に分けて伝記を書いています。その中の第八、興福篇は「仏教寺院の建立や仏像の製作などに手腕を発揮した沙門の伝記を集成」したもので(吉川忠夫・船山徹訳注『高僧伝』4、岩波書店、2010年、p.258)、14人の僧侶の伝記を収めます。この篇には、金銅仏を鋳造した僧侶たちの伝記が幾つか見えます。

そのうち釈僧洪の伝は、金銅仏を作ることが命がけであった時代がかつて存在したことを我々に知らせてくれます。

釋僧洪、豫州人、止于京師瓦官寺。少而修身整潔。後率化有縁、造丈六金像、鎔鑄始畢、未及開模。時晉末銅禁甚嚴、犯者必死。宋武于時為相國、洪坐罪繫于相府、唯誦『觀世音經』、一心歸命佛像。夜夢所鑄像來、手摩洪頭、問「怖不」、洪言「自念必死」、像曰「無憂」。見像胸方尺許、銅色燋沸。會當行刑、府參軍監殺、而牛奔車壤、因更剋日。續有令從彭城來云「未殺僧洪者可原」、遂獲免。還開模、見像胸前果有燋沸。洪後以苦行卒矣。(湯用彤校注『高僧傳』、中華書局、1992年、p.484)

新しく出版された吉川忠夫氏の訳を一部お借りします。

有縁の人々を指導教化して丈六の金銅像を製作したが、鋳造はやっと終わったものの、まだ鋳型から取り出すまでには至らなかった。当時、東晋末の銅禁はとても厳しく、違反者は必ず死罪に当てられた。宋の武帝がその時、相国であり、僧洪は罪に坐して相国の役所に繋がれた。(『高僧伝』4、p.281

その後、『観音経』を一心に唱えたところ、夢に鋳造した仏像があらわれ、心配するな、と言って帰り、なんと夢のお告げ通り、僧洪は死罪を免れた。そのような内容です。

岩波文庫版の訳注によると、この僧洪の話は、他にも『名僧伝抄』に引く『名僧伝』、『繋観世音応験記』にも見えるとのこと。『繋観世音応験記』は、京都東山の青蓮院に古写本が伝えられていますが、いま、孫昌武氏がそれを整理した『觀世音應驗記三種』(中華書局、1994年)から、僧洪の記録を抜きます。

道人釋僧洪者、住都下瓦官寺。作丈六銅像、始得注畢。于時晉義煕十二年、大禁鑄銅。僧洪未得開模見像、便為官所収、繫在相府。判奸罪、應入死。僧洪便誦念『觀世音經』。得一月日、忽夢見其所作像來至獄中、以手摩其頸間、「汝怖不」、僧洪具以事答。像曰「無所憂也」。夢中、見像胸前方一尺許銅色燋沸。後遂至出市見殺。爾日府參軍應監刑。初喚駕車、而牛絶不肯入、既入便奔、車即粉碎、遂至暝無監、更復剋日。因有判從彭城還、道若未殺僧洪者、可原。既出破模者、像果胸前如夢。此像今在瓦官寺、數禮拝也。(『觀世音應驗記三種』、p.34)

『繋観世音応験記』は、南斉の陸杲により書かれたもので、『観音経』、すなわち『法華経』の観世音菩薩普門品を読誦することによって生じたという奇跡譚を蒐集しています。時代的にいって『高僧伝』にやや先んずるのみならず、記述もより詳しいと言えます。

たとえば、牛が暴れたため刑の執行が延期されたエピソードについていうと、『高僧伝』では「會當行刑、府參軍監殺、而牛奔車壤、因更剋日」とあるだけですが、『繋観世音応験記』は「後遂至出市見殺。爾日府參軍應監刑。初喚駕車、而牛絶不肯入、既入便奔、車即粉碎、遂至暝無監、更復剋日」と、より生き生きと記述しています。

話はそれますが、『高僧伝』に用いられている言葉は、とても面白いと思います。「銅禁」の語が目についたので辞書を繰ってみたところ、後世の用例しかなく、『高僧伝』のこの例を逃していました。また、「鋳物を型から取り出すこと」を「開模」「破模」(ともに『漢語大詞典』に載ってない言葉です)というのも、面白く感じました。

また岩波文庫版の『高僧伝』は、訳文が流麗なことは言うまでもありませんが、詳細な注が付いていることも、また特筆すべきです。中国仏教史研究の新たな水平を開いた、といって過言ではないでしょう。僧洪についても「また恐らく同じ内容を伝えるものとして、『出三蔵記集』一二・法苑雑縁原始集目録序に「瓦官寺の釈僧洪、丈六の金像を造るの記」を著録する」などとあり(p.281)、周到です。

大正蔵本や中華書局「中国佛教典籍選刊」があれば、『高僧伝』の本文を一通り読むことはできますが、もし岩波文庫版をも手もとにおいて読むなら、初期の中国仏教に関する厖大な知識を得ることができるはずです。

桂庵玄樹の「直読」


 金文京氏の新著、『漢文と東アジア-訓読の文化圏』(岩波書店、岩波新書、2010年)から、「直読」の話題を。直読とは、中国文を訓読によらず、中国語で読むことです。今の日本においても、「中国の文言文を直読するか?それとも訓読するか?」は、しばしば問題とされますが、これには歴史があるのです。江戸時代の学者、荻生徂徠(1666-1728)が訓読の廃止を主張したことは有名ですが、それ以前、室町時代の禅僧がその先駆けとなった、との指摘が金氏の著書に見えます。

  金氏の著の第1章第6節「訓読の新たな展開―鎌倉時代から近代まで」は、副題の通り、我が国の中世・近世・近代における漢文読方の歴史を追ったものです。その中に「訓読に対する新たな考え方」という見出しを付し、室町時代の禅僧、桂庵玄樹(1427-1508)による漢文の読み方を紹介した部分があり、次のように言います。 

 (桂庵は)朱子の『大学章句』を刊行するなど、朱子学の普及に努めたが、彼にはまた『桂庵和尚家法和訓』という訓読についての著述がある。その中で桂庵は、「文字読ヲバ無落字(落字なき)様ニ、唐韻ニ読ミ度キ也。其故ハ偶一句半句、ソラニ覚ユル時モ、ヲキ字不知曰其何字也(其の何の字と曰うを知らざるなり)、口惜事」と言っている。ここで落字、ヲキ字(置字)と言っているのは、漢文の原文にはあるのに訓読では読まれない字のことで、おもに「而」「也」などの助辞を指す。…。

 ところが桂庵は、その置字、落ち字も全部読む、しかも訓読ではなく唐韻、というのはおそらく当時の中国音を指すと思えるが、それで読みたいと言う。…。

 これは、漢文はすべて訓読で読み、訓読で理解すればよいとする平安中期から院政期までの考えと真っ向から対立するものであろう。桂庵にとって、訓読は原文を理解するための補助的な手段にすぎず、文意はあくまでも原文によって理解すべきものであった。しかも原文をできれば中国語で読みたいというのであるから、これは直読への志向にほかならない。(p.66,67)

 また金氏は、伊藤東崖・荻生徂徠ら、江戸時代の学者の「直読」志向を説くに際し、「かつて桂庵が述べた漢文を直読したいという願望、言い換えれば訓読廃止論が再び現れるのは、自然の勢いであろう」(p.73)と言っています。つまり、桂庵玄樹を「直読」派の祖とみなし、その流れの上に伊藤東崖・荻生徂徠らの主張を置くのです。 

 その一方で、金氏は「日本ではじめて朱子のもっとも重要な著作である『四書』を講義したのは、京都五山のひとつ東福寺の僧、岐陽方秀であった。その岐陽の訓点を後に桂庵玄樹が改訂し、さらに文之玄昌が完成させる。これがいわゆる文之点であり、文之点が江戸時代の四書訓読の基礎となった」(p.66)とも言います。

 「直読」志向と「訓読」の正統派、この両者は、桂庵という一人の人物の中で、どのようにして両立しえたのでしょうか?私は疑問に思い、これを機に『桂菴和尚家法倭點』を読んでみました。とはいっても、私の読んだのは、写本でも版本でもなく、国会図書館「近代デジタルライブラリー」にて公開している活字本(明治四十一年序)のコピーですが。

  この書物を読んだ私の印象は、「これは直読派の書物ではなく、訓読派の書物だ」というものです。たとえば、「カリカ子(雁がね点。レ点のこと)」を述べた、次のような部分があります。

一二上下甲乙之点ハ、不点カナハサル處ニ用之也、古点ニ任筆可点鴈金處二用一二、一二ノ處ニ上下甲乙ヲ用フ、甚惡也。

  「古点」、すなわちそれ以前の訓点は、レ点・一二点・上下点・甲乙点の使用原則が守られておらず、「筆に任せて」いい加減である、と非難するのです。他にも古い訓読を批判する部分は多く、まさに「訓読の革新者」という意気込みを感じさせます。

 そうであるとすると、桂庵の「直読」はどうなるのでしょう?金氏が引用した「唐韻ニ読ミ度キ也」をあらためて確認しましょう。前にある文章とともに引きます。

世界申シツケタ様ニ讀テ、早ク達理為肝要(理に達するを肝要と為す)也。雖然、郷談、其外卑辞(其の外いやしきことば)、又宜正之也。古點、「不亦樂乎(亦たのしからずや)」之類、イヤシキナリ。「タノシマザランヤ」ト読テ好ナリ。唐音ニ読度(読みたき)也。其故ハ偶 一句半句、ソラニ覺ユル時、ヲキ字、不知有其何字也(其の何の字有ることを知らず)、口惜哉。

  この一段は、なかなか読みにくいのですが、どうやら、漢音・呉音の別を述べ、また読書に用いられる音と世俗に用いられる音を述べたもののようです。「世の中の読む通りに読んで、意味をとるのが大事だが、それでも俗語やその他の卑しいことばは正すべきだ」と論じ、「いやしい」と言ってまたぞろ「古點」批判をした後、突如、「唐音ニ読度也」というのです。脈絡を追いづらい文章ですが、基調として訓読の革新を目指しつつも、確かに金氏の言われるとおり、「直読」への志向も見えます。なお、この一段は、本文の末に位置しています(附録として、さらに「儒釋道三教」の一文があります)。

  では、桂庵が「唐音ニ読度也」というのは一体どういうことかというと、絶好の例が、『桂菴和尚家法倭點』の序文に当たる部分に見えます。そこでは、宋以来の儒学革新を紹介し、中国大陸では誰もが朱子学を学んでいると言った後、「朱子を宗とせざれば元 學に非す、看て匡廬に到りて始めて是れ山(朱子にのっとった学問でなければ学問とは言えぬが、いま廬山を見ると、これこそが山というものだ、と分かった)」という対句を示しています。そして驚くべきことに、次の文が続くのです。

兩句ヲ唐音ニハ「不(フ)宗(スン)朱(チウ)子(シ)元(エン)非(ヒ)學(イヨウ)、看(カン)到(シをン)匡(シヨウ)廬(ル)始(シ)是(シイ)山(サイ)」。

  明らかに、当時の中国語のいずれかの方言を音写したものでしょう(この部分、おそらくは注記です)。ちょっとおかしい音があるので、写本などを調べて細部を確定する必要が有ります。明治四十一年に活字となった際につけられた西村時彦の序を読むかぎり、この書物の成立・流伝は明確でないようですが、少なくとも、写本を調べれば、桂庵の「唐音」は分かるのではないでしょうか。桂庵は「明に入るや、蘇杭の諸儒に就きて宋學を研究し、歸朝の後も、專ら鼓吹する所あり」(西村時彦序)という人物なので、そのあたりで聞き覚えたことばかも知れません。

  これぞ、「唐音ニ読度也」の実例でしょう。留学経験のある自分は、「一句半句、ソラニ覺ユル時」、ちょっとした句などの暗誦はできるが、一般の日本人にはそれも難しいがゆえに、訓読の改良を目指さざる得なかった、というのが実情ではないでしょうか。

 鎌倉時代の道元禅師以来、中国に入った禅僧たちも、当然、禅句などは中国音で覚えたことでしょう。そうであるなら、桂庵の立場もその延長線上にあることになります。金氏の説を否定するわけではありませんが、私は桂庵が「直読」を唱えた、とすることに、やはり躊躇を覚えるのです。少なくとも、「桂庵にとって、訓読は原文を理解するための補助的な手段にすぎず、文意はあくまでも原文によって理解すべきものであった」(p.67)と、までは言えないように思います。

  なお、「不宗朱子元非學、看到匡廬始是山」の「匡廬」とは廬山のことで、江西省北部の名山です。この句は、明代の詩人、聶大年(1402-1455)が、福建省と江西省の間にまたがる武夷山を詠んだという「不宗朱子元非學、看到武夷方是山」に酷似しています。廬山と武夷山とは、むろん別の山ですが、少なくとも桂庵が覚えてきたのが「匡廬」の方であったことは、疑いのないところです。

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図書館の「図」


 昨日に続きまして、金文京氏の新著、『漢文と東アジア-訓読の文化圏』(岩波書店、岩波新書、2010年)から、もう一つ、「図書館」「博物館」の語をめぐって。

「図書館」「博物館」は、中国語や韓国語でも発音がちがうだけで、同じ単語を使うが、ヴェトナムだけ「書院」「院宝蔵」となにやらお寺のような名前になっているのはなぜであろうか。図書館や博物館は元来、東アジアにはなかったものであり、近代日本において、library, museumの訳語として作られた言葉である。それが中国、韓国でも使われているわけだが、このような日本製漢語の影響を直接受けていなかったヴェトナムには入っていないのである。(p.6)

 なるほど、同じ漢字文化圏といっても、ヴェトナムは違うのか、と蒙を啓かれました。

 さて、日本で作られた和製漢語の「図書館」ですが、先日、徐福墉撰『太倉縣立圖書館藏書目録』(民國12年、排印本、2册)という書目を調べていた時、あることに気がつきました。

 この図書館は、江蘇省太倉県の県立図書館として、中華民国8年(1919)に設立されました。近代中国における公立図書館の設立はいうと、省レベルの図書館は、すでに清末から盛んに作られるようになりましたが、県レベルの図書館はかなり立ち後れ、地方の人士の尽力にゆだねられたようで、この太倉県立図書館も、当初は70種ほどしか書物のない貧弱なものだったと言います(李士龍「圖書館書目序」)。

  それが徐福墉らの力によって、民国12年(1923)の秋、書目が完成したのです。そのもとの図書分類は、1920年に書かれた顧聘璜・錢詩棣・徐福墉「圖書館目録跋」から知られます。そこには第七「圖部」を次のように設置することを言います。

館以圖書名、宜圖與書並備。今則有書無圖、無以稱也。乃於各部中擇其義近於圖者、立第七曰圖部。

 つまり、「図書館」を名乗る以上、「書」ばかりで「図」がないのは不都合だ、それゆえ「図」に近いものを抜き出して「図部」を設けるのだ、というわけです。

  ところが、1923年に仕上がった目録を見ると、「図部」は存在せず、經部、史部、子部、集部、叢書部、新著部、外國文部、郷人著述部の8部からなっています。1920年の構想はもろくも崩れたのです。そもそも、図をろくに持ってもいないのに、「体」を「名」にあわせようとして、靴にあわせて足を削り、「図部」など作ったのが無理なことでした。しかし、少なくとも彼らにとって「図書館」の「図」は見落とせないものであったことが、この一件から分かります。

  また学生時代、「図書」ということばをレポートの中で用いたところ、中国人の先輩に、「図書というと、河図洛書(カトラクショ、黄河や洛水から出現したという、神秘的な記号の書いてある図です)を連想する。ほかのことばに代えた方がよいのではないか」とアドバイスを受けました。

 和製漢語たる「図書館」は、民国初期の人々のみならず、ことばに特に敏感な人にとって、違和感が今も消えずにあるのでしょう。そう考えると、急に「図書館」の「図」が奇妙に思え、かえってヴェトナムの「書院」が自然に感じられてきました。

  もともと、律令制下の朝廷の蔵書処は、「図書寮(ズショリョウ)」と名づけられ、それは蕭何が「収秦丞相御史律令圖書藏之」したと『史記』にあるのなどにちなんで命名したものでしょうから(この場合の「圖書」は地図と文書の意)、「図書」それ自体は、それなりに典雅なことばです。しかし図書館の「図」とは何か、いったん気になり出すと確かに気になる、という話でした。

正則と変則


 以前、斎藤兆史『英語達人列伝』(中央公論新社、中公新書、2000年)という本を読みました。そこに1896年、有名な正則英語学校を設立した斎藤秀三郎(1866-1929)が、自分の学校に「正則」と名づけた経緯が書いてありました。

この耳慣れない学校名は、斎藤の一番弟子・伝法久太郎の提案によるものだと言われている。伝法が「今迄の英語を変則流と云われるならば、こちらは正則英語ではどうです」と言うと、斎藤は、「アゝ是れなる哉、正則、正則」と答えたという。なんのことはない、店の名物に「元祖」や「本家」をつけるのと基本的に同じ心理である。(p.65)

 これを読んでも事情が分からず、なんとなく不審に思っていました。

 近頃、新刊の金文京『漢文と東アジア-訓読の文化圏』(岩波書店、岩波新書、2010年)を読み、より古い「正則」「変則」の用例があることを知りました。それは、東京大学の前身である大学南校の校則である「大学南校規則」というもので、明治3年閏10月(1970)に発布されました。金氏の書物につぎのように言います。

訓読風の英語学習法は、実際に当時の大学での授業でも行われたらしい。東京大学の前身である大学南校の規則では、英語の授業を正則と変則の二種類にわけ、正則は外国人教師による発音、会話の学習を、変則では日本人教師により、「訓読解意」を主とすることになっていた。(p.82)

 資料を確認すべく、東京大学百年史編集委員会編『東京大学百年史』(東京大学、1984-1987)を繰ってみました。改組の経緯は「通史一」巻の第2章「維新直後の再編と展開」第2節「大学南校・南校とその教育」により知られますが、当面問題となる「正則」「変則」については、「資料一」巻に収める「大学南校規則」の第7条に見えます(p.582)。

第七条 一諸生徒ヲ正則変則ノ二類ニ分チ正則生ハ教師ニ従ヒ韻学会話ヨリ始メ変則生ハ訓読解意ヲ主トシ教官ノ教授ヲ受クヘキ事

但シ正則生既ニ洋学ヲ研究シ独見ノ学力アル者ハ正科ノ別ニ講習ヲ授ケ其学力ヲ助ク初学ニシテ独見シ能ハサル者ハ素読ヲ授ケ教官之ヲ教授スヘキ事

  前述の「大学南校・南校とその教育」によると、大学南校の教育コースには「正則、変則の二種類があった。正則とは外国人教師に従って語学及諸学科を学び、変則とは日本人教官に従って語学及諸学科を学ぶものである。したがって正則の授業はすべて外国語で行われた」といいます。

 大学南校は、普通科と専門科に分かれ、普通科では英語・フランス語の学習以外に、数学、地理、万国史、究理書などを学び、専門科では理科・法科・文科の学科が学ばれました。そういうわけなので、「正則」「変則」の別は、語学の学習だけでなく、すべての科目に及んだことが分かります。

  1879年に東京大学予備門に入学した斎藤秀三郎は、この「大学南校規則」のような意味での「正則」「変則」を当然、知っていたことでしょう。お上の用語を借用して自らの学校に命名したものと私には思えるのですが、如何でしょうか。

  なお、『日本国語大辞典』で「正則」の語を引くと、第2義として「規則にかなっていること。また、そのさま。特に、明治時代、西洋の言語を学ぶ際に、西洋人などについて正しい語学を学ぶこと。これに対して、明治以前の西洋語の学問を変則という」とあり、徳富蘆花「思い出の記」の「駒井先生の英学は正則では無かったが」、夏目漱石『明暗』の「不幸にして正則の教育を受けなかったために」(ただしこれは語学に限らず教育一般のことを指す)などが挙例されています。明治時代には盛んに使われたもののようです。

 変則が大学南校の制度に正式に組み込まれていることを考えれば、「明治以前の西洋語の学問」であるという説明は、やや不正確ですが、いずれにせよ、発音練習を重んじない、「訓読式」の西洋語読解法であったことは間違いないようです。

銭と仏像


北周の「永通万国」銭
北周の「永通万国」銭

 李書吉『北朝礼制法系研究』(人民出版社、2002年)第3章に、北周武帝の廃仏(574)が、財政上の理由によるものであった、と述べた部分があります(p.138-141)。そこに、マックス・ウェーバー『儒教と道教』が引かれていたので、日本語訳の第1章「社会学的基礎」第1節「貨幣制度」を読み直してみました。

 ウェーバーは、中国の伝統社会における「銅本位制」について述べる中で、次のように言います(木全徳雄訳『儒教と道教』、創文社、1971年、から訳文を拝借します)。

銅本位は、(銅の原料)価格がいちじるしく廉価であったにもかかわらず、前述の造幣費の驚くべき高価を意味したばかりではなく、貨幣の輸送経費が高くつくことによって総じて貨幣経済の発展や取引にとってきわめて不便な貨幣形態をも意味したのであった。…。加うるに、処分できる銅量の変動は、平時においても、銅が工業的および美術的に使用される(仏像)ために、その後も並はずれて大きく、物価においても、ことに税負担のさいにも、感知しうる状態がつづいた。…。

仏教徒や道教徒に対する迫害も、たしかに非常に主要な部分は宗教政策的な理由によるものではあったけれども、しかしそれとならんでしばしば純鋳貨財政的な理由も働いていたのである。すなわち、仏像、花瓶、祭式装具など、総じて寺院芸術によって刺激された貨幣原料の芸術的な使用は、通貨をたえずくり返し危機にさらした。すなわち、〔鋳貨の〕大量の鎔解は、鋳貨のひどい欠乏と銅材の退蔵と物価の下落という結果に導き、その結果として物々交換経済に導いたのであった。国庫による僧院の計画的強奪や、銅製品の関津税設定がおこなわれ、ついには青銅器および銅製品の国家的独占の試みがなされ、さらにのちにはあらゆる金属製品製造の独占が続いた。

 李書吉氏は、周の廃仏(建徳3年、574)の前後に、5度も貨幣改革と鋳造に関わる詔が出されている事実に注目し、仏像を鋳つぶして銅貨の原料を得ることが、この度の廃仏の重要な動機であったと指摘しています。また、李氏は周の武帝による廃仏のもう一つの目的は、儒教を中心とする国家運営であった、と言います。

 ウェーバーの説は、あらためて考慮してみる必要があるかも知れません。確かに銅の用途はきわめて広く、通貨と美術品、実用品を兼ねており、特に仏像鋳造の用途は南北朝時代においては重要であったことでしょう。「北朝の石仏はよく遺ったが、南朝の金銅仏は鋳つぶされてしまったので伝わるものが少ない」という話を聞いたこともあります。また、山田勝芳『貨幣の中国古代史』(朝日新聞社、2000年)には、次のようにあります。

北周の銭は鋳造技術が高く、いずれも精巧である。そして、「五銖」などの前漢以来の銭にみられた重さを示した銘文がまったくないという大きな特色がある。これは、漢以来の伝統を離れて、それより前の周代に行われた理想的な諸制度を実現するのだという北周の政治姿勢と関わる可能性がある。(p.276)

 これも面白い指摘です。

 とはいえ、以上のように見るだけで、周の廃仏の全貌が理解できるわけではありません。この時の廃仏には、衛元嵩という人物が深く関与しており、当初、廃仏に関心を示さなかった武帝を焚きつけたことが分かっています。余嘉錫が仏書から資料を丹念に集めて衛元嵩を考証した「衛元嵩事跡考」(『余嘉錫論学雑著』、中華書局、1963年、所収)を参照すべきでしょう。それによると、「黒衣」、すなわち僧侶が国を奪う、という妖言が当時、流布しており、それを武帝が恐れていたことや、衛元嵩の個人的な不満が上書につながった経緯などが記されています。いずれも勘案すべき事由です。

「北朝礼学系統」


 昨日、李書吉『北朝礼制法系研究』(人民出版社、2002年)という書物を取りあげて紹介しましたが、その中に、少し気になる章がありました。それは本書の第3章「北朝礼学系統」という章です。

〈 北朝礼学系统〉

  • 第一节 佛教心性的缘起及其流传 一、佛教心性说的缘起 二、佛教心性说在北朝的流传
  • 第二节 心性说的佛道、佛儒南北二系
  • 第三节 南北义疏之学与礼学
  • 第四节 南北二系三教在礼制轨道上的归宗及三礼的著述 一、南北二系三教在礼制轨道上的归宗 二、北朝三礼著述情况 三、北朝周隋时对诸学的熔铸 小结

 この一文、どこかで見たことがあると思い出し、蔵書を繰ったところ、果たして『北朝史研究』(商務印書館、2004年)という論文集の一章でした。

〈北朝礼学与佛教心性学〉

  • 一 佛教心性的缘起及其在北朝的流传
  • 二 心性说的佛道、佛儒南北二系
  • 三 南北义疏之学与礼学
  • 四 南北二系三教在礼制轨道上的归宗趋势
  • 五 北魏周隋对礼学的熔铸及其对礼制建设的匡扶

 タイトルも異なり、後半部分に、やや変更がありますが、両者ともほぼ同一の論文です。ここでは『北朝礼制法系研究』に収められたものについて、以下、感想を述べます。

 この一文の論旨は、「『涅槃経』に見える「一切衆生悉有仏性」の説が、南北朝時代における人間観に大きな影響を及ぼした」「南朝においては主に仏教と道教とが融合し、北朝においては仏教と儒教とが融合した」「南朝でも北朝でも、礼が重んじられた」「南朝でも北朝でも、礼というプラットフォームの上で儒仏道三教が融合する方向に進んだ」というものです。

 著者も言うように、南北朝時代において儒仏道三教が「会通」した経緯については、これまで定説というべきものは出されていません。李氏はこの難問に答えようとして、本章を執筆したのでしょうが、残念ながら、少なくとも私は十分に納得することができませんでした。疑問点を挙げてみます。

  1. 『涅槃経』に見えるような性説が、その時代の思想に決定的な影響を与えたと言えるのか?
  2. 著者の用いる「礼」という語の意味が曖昧すぎないか?
  3. 中国思想における性説の展開を十分に踏まえずに論じているのではないか?

 そのような点が気になります。ここでは、第3点目について反論します。李氏は皇侃『論語義疏』陽貨篇に見える次の文を引用します。

(人)稟天地陰陽氛氳之氣、氣有清濁、若稟得淳清者則爲聖人、〔若得淳濁者則爲愚人、愚人淳濁、雖澄亦不清、聖人〕淳清、攪之不濁、故上聖遇昏亂之世、不能撓其眞、下愚値重堯疊舜、不能變其惡、故云「唯上智與下愚不移也」、而上智以下、下愚以上、二者中間、顏閔以下、一善以上、其中亦多清少濁、或多濁少清、或半清半濁、澄之則清、攪之則濁、如此之徒以隨世變改、若遇善則清升、逢惡則滓淪。(〔〕内は私が補いました)

 皇侃のこの説を、李氏は「『大乗起信論』で「一心二門」の「衆生心」が「真如門」「心滅門」であるというのや、「真心本覚」の「心性本淨」や「性寂滅」「性寂静」とあい通ずる。だから、仏教が心性説に対して改変を加えたのは明らかだ」と評します。

 しかし、これは的をはずした議論ではないでしょうか。『論衡』率性篇に「稟氣有厚泊(泊與薄同)、故性有善惡也」とあり、同書の命義篇に「人稟氣而生、含氣而長、得貴則貴、得賤則賤」とあるように、人間には生まれつき、受けた「気」の質による差があることを言うのは、漢代以来の伝統であり、決して仏教の影響ではありません。

 同様に、『論語義疏』が「志於學」を解して「志者、在心之謂也」と言ったのをも、「心」に引きつけた南北朝的な解釈だと、李氏は言いますが、『尚書』孔伝に「在心為志」とあるように、これは普通の訓詁であり、仏教の影響などまったくありません。

 このように、本章の議論を駁することは難しくないのですが、はたと考えさせられました。南北朝時代における「礼」「心」「性」、これはなかなか新鮮なテーマなのではないか、と。新鮮すぎてついてゆけなかったのかも知れませんが、今後は私なりにも考えてみたいと思います。ただし、「礼」の問題をあつかう時、国家制度レベルの話と、個人倫理レベルの話をあえて混同する論じ方をするなら、著者と同じ陥穽にはまることは間違いなさそうです。

*殷憲主編『北朝史研究:中国魏晋南北朝史国際学術研討会論文集』(商務印書館、2004年)、Webcat所蔵館は21館(本日付け)。