銭と仏像


北周の「永通万国」銭
北周の「永通万国」銭

 李書吉『北朝礼制法系研究』(人民出版社、2002年)第3章に、北周武帝の廃仏(574)が、財政上の理由によるものであった、と述べた部分があります(p.138-141)。そこに、マックス・ウェーバー『儒教と道教』が引かれていたので、日本語訳の第1章「社会学的基礎」第1節「貨幣制度」を読み直してみました。

 ウェーバーは、中国の伝統社会における「銅本位制」について述べる中で、次のように言います(木全徳雄訳『儒教と道教』、創文社、1971年、から訳文を拝借します)。

銅本位は、(銅の原料)価格がいちじるしく廉価であったにもかかわらず、前述の造幣費の驚くべき高価を意味したばかりではなく、貨幣の輸送経費が高くつくことによって総じて貨幣経済の発展や取引にとってきわめて不便な貨幣形態をも意味したのであった。…。加うるに、処分できる銅量の変動は、平時においても、銅が工業的および美術的に使用される(仏像)ために、その後も並はずれて大きく、物価においても、ことに税負担のさいにも、感知しうる状態がつづいた。…。

仏教徒や道教徒に対する迫害も、たしかに非常に主要な部分は宗教政策的な理由によるものではあったけれども、しかしそれとならんでしばしば純鋳貨財政的な理由も働いていたのである。すなわち、仏像、花瓶、祭式装具など、総じて寺院芸術によって刺激された貨幣原料の芸術的な使用は、通貨をたえずくり返し危機にさらした。すなわち、〔鋳貨の〕大量の鎔解は、鋳貨のひどい欠乏と銅材の退蔵と物価の下落という結果に導き、その結果として物々交換経済に導いたのであった。国庫による僧院の計画的強奪や、銅製品の関津税設定がおこなわれ、ついには青銅器および銅製品の国家的独占の試みがなされ、さらにのちにはあらゆる金属製品製造の独占が続いた。

 李書吉氏は、周の廃仏(建徳3年、574)の前後に、5度も貨幣改革と鋳造に関わる詔が出されている事実に注目し、仏像を鋳つぶして銅貨の原料を得ることが、この度の廃仏の重要な動機であったと指摘しています。また、李氏は周の武帝による廃仏のもう一つの目的は、儒教を中心とする国家運営であった、と言います。

 ウェーバーの説は、あらためて考慮してみる必要があるかも知れません。確かに銅の用途はきわめて広く、通貨と美術品、実用品を兼ねており、特に仏像鋳造の用途は南北朝時代においては重要であったことでしょう。「北朝の石仏はよく遺ったが、南朝の金銅仏は鋳つぶされてしまったので伝わるものが少ない」という話を聞いたこともあります。また、山田勝芳『貨幣の中国古代史』(朝日新聞社、2000年)には、次のようにあります。

北周の銭は鋳造技術が高く、いずれも精巧である。そして、「五銖」などの前漢以来の銭にみられた重さを示した銘文がまったくないという大きな特色がある。これは、漢以来の伝統を離れて、それより前の周代に行われた理想的な諸制度を実現するのだという北周の政治姿勢と関わる可能性がある。(p.276)

 これも面白い指摘です。

 とはいえ、以上のように見るだけで、周の廃仏の全貌が理解できるわけではありません。この時の廃仏には、衛元嵩という人物が深く関与しており、当初、廃仏に関心を示さなかった武帝を焚きつけたことが分かっています。余嘉錫が仏書から資料を丹念に集めて衛元嵩を考証した「衛元嵩事跡考」(『余嘉錫論学雑著』、中華書局、1963年、所収)を参照すべきでしょう。それによると、「黒衣」、すなわち僧侶が国を奪う、という妖言が当時、流布しており、それを武帝が恐れていたことや、衛元嵩の個人的な不満が上書につながった経緯などが記されています。いずれも勘案すべき事由です。

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