図書館の「図」


 昨日に続きまして、金文京氏の新著、『漢文と東アジア-訓読の文化圏』(岩波書店、岩波新書、2010年)から、もう一つ、「図書館」「博物館」の語をめぐって。

「図書館」「博物館」は、中国語や韓国語でも発音がちがうだけで、同じ単語を使うが、ヴェトナムだけ「書院」「院宝蔵」となにやらお寺のような名前になっているのはなぜであろうか。図書館や博物館は元来、東アジアにはなかったものであり、近代日本において、library, museumの訳語として作られた言葉である。それが中国、韓国でも使われているわけだが、このような日本製漢語の影響を直接受けていなかったヴェトナムには入っていないのである。(p.6)

 なるほど、同じ漢字文化圏といっても、ヴェトナムは違うのか、と蒙を啓かれました。

 さて、日本で作られた和製漢語の「図書館」ですが、先日、徐福墉撰『太倉縣立圖書館藏書目録』(民國12年、排印本、2册)という書目を調べていた時、あることに気がつきました。

 この図書館は、江蘇省太倉県の県立図書館として、中華民国8年(1919)に設立されました。近代中国における公立図書館の設立はいうと、省レベルの図書館は、すでに清末から盛んに作られるようになりましたが、県レベルの図書館はかなり立ち後れ、地方の人士の尽力にゆだねられたようで、この太倉県立図書館も、当初は70種ほどしか書物のない貧弱なものだったと言います(李士龍「圖書館書目序」)。

  それが徐福墉らの力によって、民国12年(1923)の秋、書目が完成したのです。そのもとの図書分類は、1920年に書かれた顧聘璜・錢詩棣・徐福墉「圖書館目録跋」から知られます。そこには第七「圖部」を次のように設置することを言います。

館以圖書名、宜圖與書並備。今則有書無圖、無以稱也。乃於各部中擇其義近於圖者、立第七曰圖部。

 つまり、「図書館」を名乗る以上、「書」ばかりで「図」がないのは不都合だ、それゆえ「図」に近いものを抜き出して「図部」を設けるのだ、というわけです。

  ところが、1923年に仕上がった目録を見ると、「図部」は存在せず、經部、史部、子部、集部、叢書部、新著部、外國文部、郷人著述部の8部からなっています。1920年の構想はもろくも崩れたのです。そもそも、図をろくに持ってもいないのに、「体」を「名」にあわせようとして、靴にあわせて足を削り、「図部」など作ったのが無理なことでした。しかし、少なくとも彼らにとって「図書館」の「図」は見落とせないものであったことが、この一件から分かります。

  また学生時代、「図書」ということばをレポートの中で用いたところ、中国人の先輩に、「図書というと、河図洛書(カトラクショ、黄河や洛水から出現したという、神秘的な記号の書いてある図です)を連想する。ほかのことばに代えた方がよいのではないか」とアドバイスを受けました。

 和製漢語たる「図書館」は、民国初期の人々のみならず、ことばに特に敏感な人にとって、違和感が今も消えずにあるのでしょう。そう考えると、急に「図書館」の「図」が奇妙に思え、かえってヴェトナムの「書院」が自然に感じられてきました。

  もともと、律令制下の朝廷の蔵書処は、「図書寮(ズショリョウ)」と名づけられ、それは蕭何が「収秦丞相御史律令圖書藏之」したと『史記』にあるのなどにちなんで命名したものでしょうから(この場合の「圖書」は地図と文書の意)、「図書」それ自体は、それなりに典雅なことばです。しかし図書館の「図」とは何か、いったん気になり出すと確かに気になる、という話でした。

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“図書館の「図」” への 4 件のフィードバック

  1. 段注に圖の中の部分が嗇で、惜しむ(?)、の意味であるようなことが書いてあります。図書は、書を惜しむ、で『史記』の文も、書を圖(おし)んで之を蔵す、と読めますでしょうか。とらえかたがあっているかわかりませんが、図書館に行くのも、書を惜しむため、という意味合いを読み込めるなら、普通の図書館生活と違う側面がもしかしたらあるのかなと思いました。

    1.  コメント、ありがとうございます。

       さて、段注はただ説解の「啚、難意」の「啚」を説明しようとして「啚、嗇也」と言っているだけなので、これでは「圖」に「嗇也」の訓があることは、まだ確認できていません。

       お説を成り立たせるための、一般的な手順は、以下の通りになります。
      (1)「圖」に「嗇」の訓があることを確認する(『経籍籑詁』などを用いて)。
      (2)「圖」が目的語を取って、オシム意である例が複数存在することを確認する。
      (3)『史記』のこの文の中でも、オシム意でしか理解できないことを確定させる(『辞源』では「地圖與書籍」と釈していますが、これが誤りであることを論証する)。

       私から見ると、この場合、無理があるように思います。特に『史記』の文意が通らなくなります。

      1.  御教授、有難うございます。
         付け焼刃の書込をして申し訳ございません。

         図書が前の動詞の目的語になっている(?)のを理解いたしました。
         研究手順のお話ありがとうございます。圖のとりうる意味については、あらためまして、勉強いたします。

  2.  思ったことを書いていただければよいので、お気になさらず。

     「読み」は難しいですよね、一般的な読みに従うのが、まず基本ですが、それだけでは学問にはなりませんし。かといって、奇抜な読みをすればよいものでもありません。繰り返し読んで、書いた人の個性を感じ取る、ということでしょうか。

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