桂庵玄樹の「直読」


 金文京氏の新著、『漢文と東アジア-訓読の文化圏』(岩波書店、岩波新書、2010年)から、「直読」の話題を。直読とは、中国文を訓読によらず、中国語で読むことです。今の日本においても、「中国の文言文を直読するか?それとも訓読するか?」は、しばしば問題とされますが、これには歴史があるのです。江戸時代の学者、荻生徂徠(1666-1728)が訓読の廃止を主張したことは有名ですが、それ以前、室町時代の禅僧がその先駆けとなった、との指摘が金氏の著書に見えます。

  金氏の著の第1章第6節「訓読の新たな展開―鎌倉時代から近代まで」は、副題の通り、我が国の中世・近世・近代における漢文読方の歴史を追ったものです。その中に「訓読に対する新たな考え方」という見出しを付し、室町時代の禅僧、桂庵玄樹(1427-1508)による漢文の読み方を紹介した部分があり、次のように言います。 

 (桂庵は)朱子の『大学章句』を刊行するなど、朱子学の普及に努めたが、彼にはまた『桂庵和尚家法和訓』という訓読についての著述がある。その中で桂庵は、「文字読ヲバ無落字(落字なき)様ニ、唐韻ニ読ミ度キ也。其故ハ偶一句半句、ソラニ覚ユル時モ、ヲキ字不知曰其何字也(其の何の字と曰うを知らざるなり)、口惜事」と言っている。ここで落字、ヲキ字(置字)と言っているのは、漢文の原文にはあるのに訓読では読まれない字のことで、おもに「而」「也」などの助辞を指す。…。

 ところが桂庵は、その置字、落ち字も全部読む、しかも訓読ではなく唐韻、というのはおそらく当時の中国音を指すと思えるが、それで読みたいと言う。…。

 これは、漢文はすべて訓読で読み、訓読で理解すればよいとする平安中期から院政期までの考えと真っ向から対立するものであろう。桂庵にとって、訓読は原文を理解するための補助的な手段にすぎず、文意はあくまでも原文によって理解すべきものであった。しかも原文をできれば中国語で読みたいというのであるから、これは直読への志向にほかならない。(p.66,67)

 また金氏は、伊藤東崖・荻生徂徠ら、江戸時代の学者の「直読」志向を説くに際し、「かつて桂庵が述べた漢文を直読したいという願望、言い換えれば訓読廃止論が再び現れるのは、自然の勢いであろう」(p.73)と言っています。つまり、桂庵玄樹を「直読」派の祖とみなし、その流れの上に伊藤東崖・荻生徂徠らの主張を置くのです。 

 その一方で、金氏は「日本ではじめて朱子のもっとも重要な著作である『四書』を講義したのは、京都五山のひとつ東福寺の僧、岐陽方秀であった。その岐陽の訓点を後に桂庵玄樹が改訂し、さらに文之玄昌が完成させる。これがいわゆる文之点であり、文之点が江戸時代の四書訓読の基礎となった」(p.66)とも言います。

 「直読」志向と「訓読」の正統派、この両者は、桂庵という一人の人物の中で、どのようにして両立しえたのでしょうか?私は疑問に思い、これを機に『桂菴和尚家法倭點』を読んでみました。とはいっても、私の読んだのは、写本でも版本でもなく、国会図書館「近代デジタルライブラリー」にて公開している活字本(明治四十一年序)のコピーですが。

  この書物を読んだ私の印象は、「これは直読派の書物ではなく、訓読派の書物だ」というものです。たとえば、「カリカ子(雁がね点。レ点のこと)」を述べた、次のような部分があります。

一二上下甲乙之点ハ、不点カナハサル處ニ用之也、古点ニ任筆可点鴈金處二用一二、一二ノ處ニ上下甲乙ヲ用フ、甚惡也。

  「古点」、すなわちそれ以前の訓点は、レ点・一二点・上下点・甲乙点の使用原則が守られておらず、「筆に任せて」いい加減である、と非難するのです。他にも古い訓読を批判する部分は多く、まさに「訓読の革新者」という意気込みを感じさせます。

 そうであるとすると、桂庵の「直読」はどうなるのでしょう?金氏が引用した「唐韻ニ読ミ度キ也」をあらためて確認しましょう。前にある文章とともに引きます。

世界申シツケタ様ニ讀テ、早ク達理為肝要(理に達するを肝要と為す)也。雖然、郷談、其外卑辞(其の外いやしきことば)、又宜正之也。古點、「不亦樂乎(亦たのしからずや)」之類、イヤシキナリ。「タノシマザランヤ」ト読テ好ナリ。唐音ニ読度(読みたき)也。其故ハ偶 一句半句、ソラニ覺ユル時、ヲキ字、不知有其何字也(其の何の字有ることを知らず)、口惜哉。

  この一段は、なかなか読みにくいのですが、どうやら、漢音・呉音の別を述べ、また読書に用いられる音と世俗に用いられる音を述べたもののようです。「世の中の読む通りに読んで、意味をとるのが大事だが、それでも俗語やその他の卑しいことばは正すべきだ」と論じ、「いやしい」と言ってまたぞろ「古點」批判をした後、突如、「唐音ニ読度也」というのです。脈絡を追いづらい文章ですが、基調として訓読の革新を目指しつつも、確かに金氏の言われるとおり、「直読」への志向も見えます。なお、この一段は、本文の末に位置しています(附録として、さらに「儒釋道三教」の一文があります)。

  では、桂庵が「唐音ニ読度也」というのは一体どういうことかというと、絶好の例が、『桂菴和尚家法倭點』の序文に当たる部分に見えます。そこでは、宋以来の儒学革新を紹介し、中国大陸では誰もが朱子学を学んでいると言った後、「朱子を宗とせざれば元 學に非す、看て匡廬に到りて始めて是れ山(朱子にのっとった学問でなければ学問とは言えぬが、いま廬山を見ると、これこそが山というものだ、と分かった)」という対句を示しています。そして驚くべきことに、次の文が続くのです。

兩句ヲ唐音ニハ「不(フ)宗(スン)朱(チウ)子(シ)元(エン)非(ヒ)學(イヨウ)、看(カン)到(シをン)匡(シヨウ)廬(ル)始(シ)是(シイ)山(サイ)」。

  明らかに、当時の中国語のいずれかの方言を音写したものでしょう(この部分、おそらくは注記です)。ちょっとおかしい音があるので、写本などを調べて細部を確定する必要が有ります。明治四十一年に活字となった際につけられた西村時彦の序を読むかぎり、この書物の成立・流伝は明確でないようですが、少なくとも、写本を調べれば、桂庵の「唐音」は分かるのではないでしょうか。桂庵は「明に入るや、蘇杭の諸儒に就きて宋學を研究し、歸朝の後も、專ら鼓吹する所あり」(西村時彦序)という人物なので、そのあたりで聞き覚えたことばかも知れません。

  これぞ、「唐音ニ読度也」の実例でしょう。留学経験のある自分は、「一句半句、ソラニ覺ユル時」、ちょっとした句などの暗誦はできるが、一般の日本人にはそれも難しいがゆえに、訓読の改良を目指さざる得なかった、というのが実情ではないでしょうか。

 鎌倉時代の道元禅師以来、中国に入った禅僧たちも、当然、禅句などは中国音で覚えたことでしょう。そうであるなら、桂庵の立場もその延長線上にあることになります。金氏の説を否定するわけではありませんが、私は桂庵が「直読」を唱えた、とすることに、やはり躊躇を覚えるのです。少なくとも、「桂庵にとって、訓読は原文を理解するための補助的な手段にすぎず、文意はあくまでも原文によって理解すべきものであった」(p.67)と、までは言えないように思います。

  なお、「不宗朱子元非學、看到匡廬始是山」の「匡廬」とは廬山のことで、江西省北部の名山です。この句は、明代の詩人、聶大年(1402-1455)が、福建省と江西省の間にまたがる武夷山を詠んだという「不宗朱子元非學、看到武夷方是山」に酷似しています。廬山と武夷山とは、むろん別の山ですが、少なくとも桂庵が覚えてきたのが「匡廬」の方であったことは、疑いのないところです。

【補】「不宗朱子元非學、看到匡廬始是山」の二句ですが、『江西詩徴』巻二十九に収める元の高若鳳「遊白鹿洞書院」に「碧瓦參差儼杏壇、白雲深鎻洞門閑。不宗朱氏元非學、看到匡廬方是山。十里松風潮洶洶、一溪泉雨珮珊珊。便當卜築書臺近、五老峰前任往還」とある詩が、それに当たるようです。

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