僧洪の奇跡


銅銭と仏像の関係について書いていて、思い出したのが、『高僧伝』の興福篇です。

梁の慧皎『高僧伝』では、訳経(翻訳僧)、義解(経典を解釈して教える僧)など、僧侶を十の類に分けて伝記を書いています。その中の第八、興福篇は「仏教寺院の建立や仏像の製作などに手腕を発揮した沙門の伝記を集成」したもので(吉川忠夫・船山徹訳注『高僧伝』4、岩波書店、2010年、p.258)、14人の僧侶の伝記を収めます。この篇には、金銅仏を鋳造した僧侶たちの伝記が幾つか見えます。

そのうち釈僧洪の伝は、金銅仏を作ることが命がけであった時代がかつて存在したことを我々に知らせてくれます。

釋僧洪、豫州人、止于京師瓦官寺。少而修身整潔。後率化有縁、造丈六金像、鎔鑄始畢、未及開模。時晉末銅禁甚嚴、犯者必死。宋武于時為相國、洪坐罪繫于相府、唯誦『觀世音經』、一心歸命佛像。夜夢所鑄像來、手摩洪頭、問「怖不」、洪言「自念必死」、像曰「無憂」。見像胸方尺許、銅色燋沸。會當行刑、府參軍監殺、而牛奔車壤、因更剋日。續有令從彭城來云「未殺僧洪者可原」、遂獲免。還開模、見像胸前果有燋沸。洪後以苦行卒矣。(湯用彤校注『高僧傳』、中華書局、1992年、p.484)

新しく出版された吉川忠夫氏の訳を一部お借りします。

有縁の人々を指導教化して丈六の金銅像を製作したが、鋳造はやっと終わったものの、まだ鋳型から取り出すまでには至らなかった。当時、東晋末の銅禁はとても厳しく、違反者は必ず死罪に当てられた。宋の武帝がその時、相国であり、僧洪は罪に坐して相国の役所に繋がれた。(『高僧伝』4、p.281

その後、『観音経』を一心に唱えたところ、夢に鋳造した仏像があらわれ、心配するな、と言って帰り、なんと夢のお告げ通り、僧洪は死罪を免れた。そのような内容です。

岩波文庫版の訳注によると、この僧洪の話は、他にも『名僧伝抄』に引く『名僧伝』、『繋観世音応験記』にも見えるとのこと。『繋観世音応験記』は、京都東山の青蓮院に古写本が伝えられていますが、いま、孫昌武氏がそれを整理した『觀世音應驗記三種』(中華書局、1994年)から、僧洪の記録を抜きます。

道人釋僧洪者、住都下瓦官寺。作丈六銅像、始得注畢。于時晉義煕十二年、大禁鑄銅。僧洪未得開模見像、便為官所収、繫在相府。判奸罪、應入死。僧洪便誦念『觀世音經』。得一月日、忽夢見其所作像來至獄中、以手摩其頸間、「汝怖不」、僧洪具以事答。像曰「無所憂也」。夢中、見像胸前方一尺許銅色燋沸。後遂至出市見殺。爾日府參軍應監刑。初喚駕車、而牛絶不肯入、既入便奔、車即粉碎、遂至暝無監、更復剋日。因有判從彭城還、道若未殺僧洪者、可原。既出破模者、像果胸前如夢。此像今在瓦官寺、數禮拝也。(『觀世音應驗記三種』、p.34)

『繋観世音応験記』は、南斉の陸杲により書かれたもので、『観音経』、すなわち『法華経』の観世音菩薩普門品を読誦することによって生じたという奇跡譚を蒐集しています。時代的にいって『高僧伝』にやや先んずるのみならず、記述もより詳しいと言えます。

たとえば、牛が暴れたため刑の執行が延期されたエピソードについていうと、『高僧伝』では「會當行刑、府參軍監殺、而牛奔車壤、因更剋日」とあるだけですが、『繋観世音応験記』は「後遂至出市見殺。爾日府參軍應監刑。初喚駕車、而牛絶不肯入、既入便奔、車即粉碎、遂至暝無監、更復剋日」と、より生き生きと記述しています。

話はそれますが、『高僧伝』に用いられている言葉は、とても面白いと思います。「銅禁」の語が目についたので辞書を繰ってみたところ、後世の用例しかなく、『高僧伝』のこの例を逃していました。また、「鋳物を型から取り出すこと」を「開模」「破模」(ともに『漢語大詞典』に載ってない言葉です)というのも、面白く感じました。

また岩波文庫版の『高僧伝』は、訳文が流麗なことは言うまでもありませんが、詳細な注が付いていることも、また特筆すべきです。中国仏教史研究の新たな水平を開いた、といって過言ではないでしょう。僧洪についても「また恐らく同じ内容を伝えるものとして、『出三蔵記集』一二・法苑雑縁原始集目録序に「瓦官寺の釈僧洪、丈六の金像を造るの記」を著録する」などとあり(p.281)、周到です。

大正蔵本や中華書局「中国佛教典籍選刊」があれば、『高僧伝』の本文を一通り読むことはできますが、もし岩波文庫版をも手もとにおいて読むなら、初期の中国仏教に関する厖大な知識を得ることができるはずです。

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「僧洪の奇跡」への2件のフィードバック

  1. Xuetui様
                            2010年12月27日
    前略。
    ◎岩波文庫『高僧伝』。「詳細な注が付いていることも、また特筆すべきです」。
    今、2冊目を読んでいます。「支遁伝」P、71~73には、『荘子』、『左伝』、『論語』、『老子』、『史記』、『易』からに自在に引かれていました。
    ところで、P、91「竺法崇伝」、「不覺老之將至」。ここに、『論語』述而篇「不知老之將至云爾」が引かれていません。お忘れか、敢えて注を付けなかったのか。迷っています。
    藤田 吉秋・Eメール・toubokuji@nifty.com

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