清華大学にて


海寧王先生之碑銘
陳寅恪「海寧王先生之碑銘」

 今日、清華大学を初めて訪問しました。清華大学は、1911年に創建された大学で、中国の近現代史を語る際、落とすことのできない要素の一つです。

 ということは、この大学を語るためには、数冊もの書物を書くことが当然、必要となりますが、ここにその余裕はもちろんありません。初めてこの学園を訪れた者として驚いたのは、この大学が、あまりにも鮮明に清朝の王族の庭園たる、熙春園(清華園)の面影を伝えていることでしょうか。学園内で見かける「水木湛清華」の語には、まったく偽りがありません。

 学内の到る所に名所があることは申すに及びませんが、漢学を専攻する者がまず第一に興味を抱くのは、陳寅恪が亡き王国維のために書いた「海寧王先生之碑銘」に違いありません。この碑は、文革中、行方知れずになっていたそうですが、後に分かってみると、どこかの実験室の物置台になっていたということです。今は「恢復」されて、誰でも参観できるようになっています。

立碑の分業 面白い話をうかがいました。近年、これも「恢復」された清華大学の文科の授業において、ある先生は、この碑の内容を理解しているかどうか、清華の学生に様々な問題を出すそうです。とても文化的な話だと、私は感じました。

 ここは本当に素晴らしい学園です。学生寮は低額、食堂も品数豊富で安価ときては、学生にとっては実に魅力的なことでしょう。

 漢学の伝統も復活させ、来年、清華大学は建学100周年を迎えます。これから、この大学がどのように発展してゆくのか、大いなる関心を持って見守っています。

〔補〕上海で聞いた笑い話。北京大の学生が、王国維の碑を見に清華大にいったそうです。北京大学と清華大学とは、となりどうしですが、どうやら、さまざまな対抗意識があるようで。

 彼が清華の学生に向かって、王国維の碑の場所を聞いても、誰にも分からなかったといいます。清華は、理科系の学生が多いから、無理もありません。北京大の学生は、やっと、碑を知る学生を見つけました。「海寧王の碑なら知ってる!」王国維の碑文を、なんと、王様の碑文だと思っていたのです。無事、王国維の碑に、たどり着きましたとさ。

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“清華大学にて” への 6 件のフィードバック

  1. Xuetui様、いつも興味深く読ませて頂いております。
    このような石碑をご紹介いただき、とても感動しています。ところで今まで石碑を見る機会がなかったので、ちょっと疑問に思うことを質問させて下さい。
    石碑の上部のところ(碑額というのでしょうか?)の「海寧王先生之碑銘」の字には、「寍」が使われているように見えます。「寧」「寍」の両字は『説文』に見えますから、地名の「海寧」には「寧」を使っても良いように思うのですが、これは「海寧」が元々「寍」の字であったということでしょうか?それとも段注の「寍」に「此安寧正字」とありますから、「海寧」の地名にも安寧の意味が含まれていて、用字について規範意識が働いたものでしょうか?この辺りの用字について、ご教示願えれば幸いです。

  2.  Hirshさま、コメントちょうだいしまして、ありがとうございます。

     そうです、碑の上の部分は碑額といい、多くの場合、篆書で書かれるので、篆額と言ったりもします。「寍」字が選ばれたのも、ご推察のとおりと思います。「むしろ」では、ない、ということなのでしょう。篆書を書く人は、かなり注意深く考え、規範に沿うように字を選ぶようです。

     なお、この額を書いたのは、馬衡(1881-1955)という、学者でもあり書家でもあった人物です。

  3. ご丁寧にお答え頂き、ありがとうございます。
    碑額もなんとなく陳寅恪のものかと思っていました。馬衡という人物は”五馬”の一人ですよね。最近、”五馬”の事について少しばかり知ったところだったので、名前が出てきて少々驚いています。この時期は色々な人物が関係しているのですね。

  4. Hirshさま、どうもありがとうございます。ここしばらく、ネットのつながらないところにいたので、ご返事が遅れて申し訳ございません。
    おっしゃるように、近代は人の交流がとてもよく分かるので、その一事をとっても興味深い時代です。
    碑は、分業により作られます。この碑は、陳寅恪の撰文、林志鈞の書丹、馬衡の篆額、梁思成の擬式、劉南策の監工、李桂藻の刻石、ということです。

  5. Xuetui様
                            2010年12月6日
    ◎「海寧王先生之碑銘」。
    谷中霊園に在る「重野先生碑銘」は、

    建立年月日・1921年(大正10年)12月
    碑主・重野成斎(1827~1910)
    撰者・小牧昌業(1843~1922)
    書丹・内藤湖南(1866~1934)
    篆額・島津忠重(1886~1968)

    となっていて、読むに堪える漢文であると思います。「親故門生、相議建碑墓側、以圖不朽、見囑以文。(中略)誼不可辭」などと「因以刻石之辭命寅恪,數辭不獲已」と同じようなことを言っています。中華民国18年は1929年・昭和4年。日本では昭和に入ると石さえも良い物は手に入らず、漢文の書き手も居なくなりました。
    「清華の学生に様々な問題を出す」。『潜研堂金石文字目録』の瞿中溶(1769~1842)の跋文に、おじさんの銭大昕(1728~1804)からいろいろ教わりながら探碑したことが書かれています。
    ところで、メールアドレスを教えて頂けませんか。正体を明かせとは申しませんから。
    藤田 吉秋・Eメール・toubokuji@nifty.com

  6.  藤田さま、さまざまご教示くださいまして、まことにありがとうございます。「重野先生碑銘」、東京を訪れる機会を得て、目にしてみたいものです。
     『水経注』にも、多くの碑に言及がなされていますし、碑は、立てられたその場を訪れてながめるのが、一番の醍醐味だろうと思います(もちろん、拓本にも拓本のよさはあるのですが)。ご紹介の跋文に「摩挲審読而後去」とあるのは、古人の訪碑を彷彿とさせます。
     メールアドレスの件、承知いたしました。追ってご連絡差し上げます。

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