「大」と「大」


籀文「大」
籀文「大」
古文「大」
古文「大」

『説文解字』には540の部首ありますが、その中には、同じ字の違う形を重複して収めているものがあります。

『説文』第十下に収める、第398部と第402部は、ともに「大」の字です。第398部は古文、第402部は籀文とのこと。『説文』に収める字は、基本が小篆で、これに古文・籀文を交えています。「大」の字の小篆について、『説文』の著者、許慎は何とも言っていませんが、段玉裁は古文の方の「大」に注して、次のように言います。

 (古文と籀文の「大」は)ただ一字なのだが、形がすこし異なる。後に、小篆の偏旁は、古文に従うものもあり、籀文に従うものもある。だから、(許慎は、第398部と第402部の)二部に分けざるを得なかった。ちょうど(「人」の字も、第287部の)「人」に従うものと(第311部の)「儿」に従うものがあって、分けて二部とする必要があったのと似ている。では、小篆の「大」は、どういう字だったのか?小篆は古文の形であったのだ。  

段玉裁の説に従うなら、「大」の古文と小篆は同形、となります。まあ、穏当なところでしょう。

また、籀文の方の「大」に注して、段玉裁は次のように言います。

古文の「大」は人間をかたどったもので、この籀文の「大」もまた人間をかたどったもの。両方、字が同じなのだから、音も同じである。それなのに、大徐は、古文の方は「徒蓋の切」だといい、籀文の方は「他達の切」だという。この区別は、まったく誤っている。

現代音では「徒蓋の切(去声)」ならdàもしくはdài、「他達の切(入声)」ならtà、となります。そういうわけで、段玉裁に従うなら、同一字である「大」の古文・籀文は、同音とすべきです。両方とも、現代通用のdàの音で読んでおけば、よいでしょう。

興味深いのは、上記の引用文に続けて、段玉裁が次のように言うことです。

古代において、去声と入声とは分かれていなかった。一般に言って、今の去声の字は、古代はみな入声であった。「大」を入声に読むのは、いま、会稽に大末(タツマツ)県があるくらいだが、これは古語がわずかに伝わった例だろう。本当は、「大」はみな入声とみることができ、古文の方が去声で、籀文の方が入声、などというわけではない。

王力の説によると、上古音には、「長入(長くのばして発音する入声)」と「短入(短く発音する入声)」が存在し、中古においては、前者が去声に、後者が入声になった、といいます。段玉裁も、中古音の去声の先祖が入声であった、と考えていたわけですね。

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『説文』540部


〔第一〕

001一(yī) 002丄(shàng) 003示(shì) 004三(sān) 005王(wáng) 006玉(yù) 007玨(jué) 008气(qì) 009士(shì) 010丨(gǔn) 011屮(chè) 012艸(cǎo) 013蓐(rù) 014茻(mǎng)

〔第二〕

015小(xiǎo) 016八(bā) 017釆(biàn) 018半(bàn) 019牛(niú) 020犛(lí) 021告(gào) 022口(kǒu) 023凵(kǎn) 024吅(xuān) 025哭(kū) 026走(zǒu) 027止(zhǐ) 028癶(bō) 029步(bù) 030此(cǐ) 031正(zhèng) 032是(shì) 033辵(chuò) 034彳(chì) 035廴(yǐn) 036㢟(chān) 037行(xíng) 038齒(chǐ) 039牙(yá) 040足(zú) 041疋(shū) 042品(pǐn) 043龠(yuè) 044冊(cè)

〔第三〕

045㗊(jí) 046舌(shé) 047干(gān) 048𧮫(jué) 049只(zhǐ) 050㕯(nè) 051句(gōu) 052丩(jiū) 053古(gǔ) 054十(shí) 055𠦃(sà) 056言(yán) 057誩(jìng) 058音(yīn) 059䇂(qiān) 060丵(zhuó) 061菐(pú) 062𠬞(gǒng) 063𠬜(pān) 064共(gòng) 065異(yì) 066舁(yú) 067𦥑(jú) 068䢅(chén) 069爨(cuàn) 070革(gé) 071鬲(lì) 072䰜(lì) 073爪(zhǎo) 074丮(jǐ) 075鬥(dòu) 076又(yòu) 077𠂇(zuǒ) 078史(shǐ) 079支(zhī) 080𦘒(niè) 081聿(yù) 082畫(huà) 083隶(dài) 084臤(qiān) 085臣(chén) 086殳(shū) 087殺(shā) 088𠘧(shū) 089寸(cùn) 090皮(pí) 091㼱(ruǎn) 092攴(pū) 093教(jiāo) 094卜(bǔ) 095用(yòng) 096爻(yáo) 097㸚(lǐ)

〔第四〕

098𥄎(xuè) 099目(mù) 100䀠(jù) 101眉(méi) 102盾(dùn) 103自(zì) 104白(zì) 105鼻(bí) 106皕(bì) 107習(xí) 108羽(yǔ) 109隹(zhuī) 110奞(suī) 111雈(huán) 112𦫳(guǎi) 113𥄕(mò) 114羊(yáng) 115羴(shān) 116瞿(jù) 117雔(chóu) 118雥(zá) 119鳥(niǎo) 120烏(wū) 121𠦒(pān) 122冓(gòu) 123幺(yāo) 124𢆶(yōu) 125叀(zhuān) 126玄(xuán) 127予(yǔ) 128放(fàng) 129𠬪(piǎo) 130𣦼(cán) 131 歹(è) 132死(sǐ) 133冎(guǎ) 134骨(gǔ) 135肉(ròu) 136筋(jīn) 137刀(dāo) 138刃(rèn) 139㓞(qià) 140丯(jiè) 141耒(lěi) 142角(jiǎo)

〔第五〕

143竹(zhú) 144箕(jī) 145丌(jī) 146左(zuǒ) 147工(gōng) 148㠭(zhǎn) 149巫(wū) 150甘(gān) 151旨(zhǐ) 152曰(yuē) 153乃(nǎi) 154丂(kǎo) 155可(kě) 156兮(xī) 157号(hào) 158亏(yú) 159喜(xǐ) 160壴(zhù) 161鼓(gǔ) 162豈(qǐ) 163豆(dòu) 164豊(lǐ) 165豐(fēng) 166䖒(xī) 167虍(hū) 168虎(hǔ) 169虤(yán) 170皿(mǐn) 171𠙴(qū) 172去(qù) 173血(xuè) 174丶(zhǔ) 175丹(dān) 176青(qīng) 177井(jǐng) 178皀(bī) 179鬯(chàng) 180食(shí) 181亼(jí) 182會(huì) 183倉(cāng) 184入(rù) 185缶(fǒu) 186矢(shǐ) 187高(gāo) 188冂(jiōng) 189𩫏(guō) 190京(jīng) 191亯(xiǎng) 192𣆪(hòu) 193畗(fú) 194㐭(lǐn) 195嗇(sè) 196來(lái) 197麥(mài) 198夊(suī) 199舛(chuǎn) 200舜(shùn) 201韋(wéi) 202弟(dì) 203夂(zhǐ) 204久(jiǔ) 205桀(jié)

〔第六〕

206木(mù) 207東(dōng) 208林(lín) 209才(cái) 210叒(ruò) 211之(zhī) 212帀(zā) 213出(chū) 214𣎵(pò) 215生(shēng) 216乇(zhé) 217𠂹(chuí) 218𠌶(xū) 219華(huá) 220𥝌(jī) 221稽(jī) 222巢(cháo) 223桼(qī) 224束(shù) 225㯻(hùn) 226囗(wéi) 227員(yuán) 228貝(bèi) 229邑(yì) 230𨛜(xiàng)

〔第七〕

231日(rì) 232旦(dàn) 233倝(gàn) 234㫃(yǎn) 235冥(míng) 236晶(jīng) 237月(yuè) 238有(yǒu) 239朙(míng) 240囧(jiǒng) 241夕(xī) 242多(duō) 243毌(guàn) 244𢎘(hàn) 245𣐺(hàn) 246𠧪(tiáo) 247齊(qí) 248朿(cì) 249片(piàn) 250鼎(dǐng) 251克(kè) 252彔(lù) 253禾(hé) 254秝(lì) 255黍(shǔ) 256香(xiāng) 257米(mǐ) 258毇(huǐ) 259臼(jiù) 260凶(xiōng) 261𣎳(pìn) 262𣏟(pài) 263麻(má) 264尗(shū) 265耑(duān) 266韭(jiǔ) 267瓜(guā) 268瓠(hù) 269宀(mián) 270宫(gōng) 271呂(lǚ) 272穴(xuè) 273㝱(mèng) 274疒(nè) 275冖(mì) 276𠔼(mǎo) 277冃(mào) 278㒳(liǎng) 279网(wǎng) 280襾(yà) 281巾(jīn) 282巿(fú) 283帛(bó) 284白(bái) 285㡀(bì) 286黹(zhǐ)

〔第八〕

287人(rén) 288𠤎(huà) 289匕(bǐ) 290从(cóng) 291比(bǐ) 292北(běi) 293丘(qiū) 294㐺(yín) 295𡈼(tǐng) 296重(zhòng) 297臥(wò) 298身(shēn) 299㐆(yī) 300衣(yī) 301裘(qiú) 302老(lǎo) 303毛(máo) 304毳(cuì) 305尸(shī) 306尺(chǐ) 307尾(wěi) 308履(lǚ) 309舟(zhōu) 310方(fāng) 311儿(rén) 312兄(xiōng) 313兂(zān) 314皃(mào) 315𠑹(gǔ) 316先(xiān) 317秃(tū) 318見(jiàn) 319覞(yào) 320欠(qiàn) 321㱃(yǐn) 322㳄(xián) 323旡(jì)

〔第九〕

324頁(xié) 325𦣻(shǒu) 326面(miàn) 327丏(miǎn) 328首(shǒu) 329𥄉(jiāo) 330須(xū) 331彡(shān) 332彣(wén) 333文(wén) 334髟(biāo) 335后(hòu) 336司(sī) 337巵(zhī) 338卩(jié) 339印(yìn) 340色(sè) 341𠨍(qīng) 342辟(bì) 343勹(bāo) 344包(bāo) 345茍(jí) 346鬼(guǐ) 347甶(fú) 348厶(sī) 349嵬(wéi) 350山(shān) 351屾(shēn) 352屵(è) 353广(yǎn) 354厂(hǎn) 355丸(wán) 356危(wēi) 357石(shí) 358長(cháng) 359勿(wù) 360冄(rǎn) 361而(ér) 362豕(shǐ) 363㣇(yì) 364彑(jì) 365豚(tún) 366豸(zhì) 367𤉡(sì) 368易(yì) 369象(xiàng)

〔第十〕

370馬(mǎ) 371𢊁(zhì) 372鹿(lù) 373麤(cū) 374㲋(chuò) 375兔(tù) 376萈(huán) 377犬(quǎn) 378㹜(yín) 379鼠(shǔ) 380能(néng) 381熊(xióng) 382火(huǒ) 383炎(yán) 384黑(hēi) 385囱(chuāng) 386焱(yàn) 387炙(zhì) 388赤(chì) 389大(dà) 390亦(yì) 391夨(zè) 392夭(yāo) 393交(jiāo) 394𡯁(wāng) 395壺(hú) 396壹(yī) 397㚔(niè) 398奢(shē) 399亢(gāng) 400夲(tāo) 401夰(gǎo) 402大(dà) 403夫(fū) 404立(lì) 405竝(bìng) 406囟(xìn) 407思(sī) 408心(xīn) 409惢(suǒ)

〔第十一〕

410水(shuǐ) 411沝(zhuǐ) 412瀕(bīn) 413𡿨(quǎn) 414巜(kuài) 415川(chuān) 416泉(quán) 417灥(xún) 418永(yǒng) 419𠂢(pài) 420谷(gǔ) 421仌(bīng) 422雨(yǔ) 423雲(yún) 424魚(yú) 425𩺰(yú) 426燕(yàn) 427龍(lóng) 428飛(fēi) 429非(fēi) 430卂(xùn)

〔第十二〕

431𠃉(yà) 432不(bù) 433至(zhì) 434西(xī) 435鹵(lǔ) 436鹽(yán) 437戶(hù) 438門(mén) 439耳(ěr) 440𦣞(yí) 441手(shǒu) 442𠦬(guāi) 443女(nǚ) 444毋(wú) 445民(mín) 446丿(piě) 447𠂆(yì) 448乁(yí) 449氏(shì) 450氐(dǐ) 451戈(gē) 452戉(yuè) 453我(wǒ) 454亅(jué) 455珡(qín) 456𠃊(yǐn) 457亡(wáng) 458匸(xì) 459匚(fāng) 460曲(qǔ) 461甾(zī) 462瓦(wǎ) 463弓(gōng) 464弜(jiàng) 465弦(xián) 466系(xì)

〔第十三〕

467糸(mì) 468素(sù) 469絲(sī) 470率(shuài) 471虫(huǐ) 472䖵(kūn) 473蟲(chóng) 474風(fēng) 475它(tuō) 476龜(guī) 477黽(mǐn) 478卵(luǎn) 479二(èr) 480土(tǔ) 481垚(yáo) 482堇(qín) 483里(lǐ) 484田(tián) 485畕(jiāng) 486黄(huáng) 487男(nán) 488力(lì) 489劦(xié)

〔第十四〕

490金(jīn) 491幵(jiān) 492勺(sháo) 493几(jī) 494且(qiě) 495斤(jīn) 496斗(dǒu) 497矛(máo) 498車(chē) 499𠂤(duī) 500𨸏(fù) 501𨺅(suì) 502厽(lěi) 503四(sì) 504宁(zhù) 505叕(zhuó) 506亞(yà) 507五(wǔ) 508六(liù) 509七(qī) 510九(jiǔ) 511禸(róu) 512嘼(xù) 513甲(jiǎ) 514乙(yǐ) 515丙(bǐng) 516丁(dīng) 517戊(wù) 518己(jǐ) 519巴(bā) 520庚(gēng) 521辛(xīn) 522辡(biǎn) 523壬(rén) 524癸(guǐ) 525子(zǐ) 526了(liǎo) 527孨(zhuǎn) 528𠫓(tū) 529丑(chǒu) 530寅(yín) 531卯(mǎo) 532辰(chén) 533巳(sì) 534午(wǔ) 535未(wèi) 536申(shēn) 537酉(yǒu) 538酋(qiú) 539戌(xū) 540亥(hài)

*『説文』の部首、540部の序列と発音をメモしておきました。部首の前に付した数字は『説文解字』十五上(段注本に依拠)に見える、部首の番号です。

*括弧内に示した音は、陳昌治の一行一篆『説文解字』に見える大徐の反切をもとに、それに対応する現代音を求めたものです。段玉裁注も適宜、参照し、段説に従っている部分もあります。後日、反切などを含めた関連の資料をお示しする予定です。

*自家版ですから、誤りもあると思いますので、それをご了承の上、ご利用ください。誤りにつきましては、コメント欄にてご指摘くだされば、適宜、訂正いたします。ネット上にある辞書としては、「漢典」http://www.zdic.net/が役に立ちそうですので、あわせてご利用ください。

*順次、訂正しております。最新の更新は、2010年12月4日16時です。

『漢字古音手冊』増訂本


漢字の上古音、中古音をちょっと確認したいときに便利な郭錫良『漢字古音手冊』。以前、「文言基礎」で『千字文』を読んだときに、ご紹介しました。王力の学説に基づいて漢字音を分析し、推定音価を記しています。

今年、その増訂本が出版されました。郭錫良編著『漢字古音手冊(增訂本)』、商務印書館、2010年8月。中国の友人にたずねたところ、「ずいぶん収録字数が増えているらしい」とのことでしたので、一冊、買い求めました。

ページ数は、旧版(北京大学出版社、1986年)が345ページ、增訂版が535ページと、厚くなっています。収録字数は、旧版が8000字程度、增訂版は11000字程度、とのこと(「增訂本前言」による)。また旧版では、中古音については、『広韻』の反切のみをとっていましたが、增訂版は、『広韻』に載らない反切を『集韻』からとっており、情報が豊富になっています。さらに、誤植なども訂正してあるようです。

『説文解字』の部首、540部を覚えようと思い立った私は、まず、その540部の部首の発音を確認しました。手順は、まず大徐本と呼ばれる系統の『説文解字』に見える反切を抜き出し、それに対応する現代音を求め、さらに本書、『漢字古音手冊』を利用して、上古音の声母と韻部とを確かめる、というものです。段注も適宜、参照しました。

非常に好都合なことに、この增訂本では、「『説文解字』の収録字はすべて収録した」(「增訂本前言」)と言っており、『説文』収録字を調べるのに便利です。ただし、私が540字について当たってみたところ、『説文』収録字をすべて収めてあるわけではなく、落ちている字もかなりの数ありました。「㸚 lǐ」「𣎵 pò」「𠑹 gǔ」など。さほど大きな問題でもありませんが。

買ってすぐにこれほど酷使するとは思いませんでしたが、さっそく大活躍してくれました。少しくたびれてしまいましたが、よく手になじむようになりました。

なお、郭氏の「增訂本前言」は29ページに及ぶ長文であり、専門的な内容で読みごたえはあるのですが、読むのにちょっと苦労しました。

*郭錫良編著『漢字古音手冊(增訂本)』、商務印書館、2010年8月、Webcat所蔵館は0館(本日付)。日本の大学図書館では、まだ登録が済んでいないのでしょうか。

『説文』と『新華字典』


最近、聞いた中国の学林の話題を紹介します。

文革中、学問などできる環境になかったころ、後に経学の分野で名をなしたP先生は、『説文』を熱心に読まれたそうです。これで文字に通じ、学問の根柢ができた、とのこと。今でも、文字を学びたいという学生には、まず『説文』540部の部首をすべて暗誦させるそうです。

これも文革中、学問などできる環境になかったころ、後に古文字学の分野で名をなしたQ先生は、『新華字典』を熱心に暗記されたそうです。これで文字に通じ、学問の根柢ができた、とのこと。今でも、学生には、まず『新華字典』を1ページ目から通読させ、丸暗記させるそうです。「1ページ暗記したら、破って捨てる」とも聞きましたが、これはまた聞きなので、真偽のほどは分かりません。

この話を聞いて、さまざまな感情がこみ上げました。文革中というと、学問不毛の時代と思われており、それも理由のないことではないのですが、このように、かげながら克己されていた学人がいらしたからこそ、今の学界の繁栄があるのでしょう。これがひとつ。

また、「それくらい集中してやらないと、学問はものにならない」、とも思いました。21世紀の我々は、あまりにも書物に恵まれすぎていて、何か間違っているのではないか。そういう疑念が消えません。

とりあえず私も、『説文』540部の暗記に挑戦します。そういう、私を鼓舞するような、二つのエピソードでした。これを読者の皆さんと分享したいと思い、ここに書いてみました。

『論衡與東漢佛典詞語比較研究』


胡敕瑞『《論衡》與東漢佛典詞語比較研究』(巴蜀書社、2002年)を読みました。語彙の研究です。本書が出版された時に、いち早く購入したのですが、「なぜ『論衡』と仏典が選ばれたのか」、「それが漢語史の上で、どういう意味をもつのか」、今ひとつしっくりこず、ながらく書架に挿したままになっていました。

緒論

第1章 《論衡》與佛典的單音詞及複音詞

 1.1 《論衡》與佛典的新興單音詞

 1.2 《論衡》與佛典的新興複音詞

第2章 《論衡》與佛典的新舊詞

 2.1 《論衡》與佛典詞語的新舊對應比較

 2.2 《論衡》與佛典詞語變化的機制和方式

第3章 《論衡》與佛典的詞義

 3.1 《論衡》與佛典詞義發展的概説

 3.2 《論衡》與佛典詞義演變的途徑

第4章 《論衡》與佛典的同義詞和反義詞

 4.1 《論衡》與佛典的同義詞比較

 4.2 《論衡》與佛典的反義詞比較

第5章 《論衡》與佛典詞語的結構和詞語的搭配

 5.1 《論衡》與佛典詞語的結構比較

 5.2 《論衡》與佛典詞語的搭配比較

結語

目次を見てもやや単調ですし、ここ数年、語彙研究が出すぎている嫌いもあり、埋没した印象を受けていました。しかしながらこの書物は、実はきわめて興味深い研究書なのです。上古漢語から中古漢語への過渡期にあたる後漢、その時代の口語を伝える資料として選ばれた、『論衡』と後漢の漢訳仏典。しかも、著者の境遇も、その内容もまったく異なる両者を常に一つの視野に置き、両者の共通性と異質性とをねばり強く追っている胡氏の思考には感嘆させられます。

中古漢語は上古漢語と比較して、語彙の面において、明白な違いがあります。私は『世説新語』を繰り返し読み、中古の語彙にはやや心得があるつもりでいましたが、そのような新語をよりよく理解するためには、後漢の新語を知る必要があることを、本書を読んで痛感しました。

新語がたくさん醸成された後漢。その語彙を研究する本書の方略は、新語や新しい言語現象に着目するものです。「動詞が何パーセントで、名詞が何パーセント」「単音節語が何パーセントで、複音節語が何パーセント」などと、書物をまるで死体のようにとらえて「統計処理」する語彙研究が目につく中、本書は実に動的に語彙の発展をとらえています。

『論衡』の語彙を従来の注釈よりも深く読み解き、仏典については同本異訳を參照して意義を明らかにし、前後の用例を調べ、その結果を根拠として、『漢語大詞典』『漢語大字典』などの不足を補ってゆく、という丹念な作業です。たとえば、排泄物を意味する「大便」の用例として、『漢語大詞典』ははるか後世の『西遊記』を挙げますが、胡氏は『七処三観経』『修行本起経』『傷寒論』にすでに用例があることを指摘します。このような辞書の記載を訂正しうる指摘は、枚挙にいとまありません。

また第5章において扱われる「搭配」とは、英語のcollocationの訳で、現代漢語のcollocationが仏典にまでたどれる例を示しており、興味深く読みました。「放箭」「放水」「下種」など。前漢以前にはなかった組み合わせのようです。

「あの人は漢文がよく読める」「あの人は読めていない」などとよく耳にします。では、「漢語の文章が読める」ことの判定基準は如何、と問うと、人によりずいぶんと差があるものです。私の判断基準のひとつは、「文章を読んで、時代が判定できているか否か」です。語彙や文法の変化に鈍感な人は、たとえ大体の意味がとれていても、「読めている」、とは思えません。

その意味で、漢語の文章を読み解く胡氏の実力の確かさには、目を見張るものがあります。そして本書を読むことを通して、自分の読書力の曖昧さにあらためて気づきました。この一冊を通し、個別の知識を得たことはもちろんですが、それ以外にも、読みの徹底ぶりを示され、大いに啓蒙されました。

最後に注文を一つ。漢訳仏典の語彙を考察する際、やはり、サンスクリットとの対照が不可欠であると思います。新語が続々と生み出された背景にも、きっと外国語からの翻訳という面があったはずです。その方面の追究は、かならずしも十分でないと感じました。

*胡敕瑞『《論衡》與東漢佛典詞語比較研究』(巴蜀書社、2002年)、Webcat所蔵図書館は17館。

殷墟にて


安陽の発掘現場
安陽の発掘現場

 漢字の初期の姿、甲骨文字。19世紀末に初めて発見されましたが、後にそれらの甲骨が、殷代晩期の都である、河南省北部の安陽、少屯村から出たことが明らかになり、1928年からその発掘が始まりました。殷墟と呼ばれる場所です。殷墟は2006年、世界文化遺産に指定され、多くの観光客を集めています。

 河南省に足を踏み入れたからには、是非とも殷墟を見学したいものだと思っていましたので、河南大学の先生に案内を乞い、この地に臨むことができたことは幸せでした。

 まずは、中国社会科学院考古研究所(考古所)に向かいました。河南大学の先生の友人がここに勤務しておられるからです。考古所は北京に本拠を置きますが、中国考古学上、殷墟が特別に重要な地位を占めるため、ここにも拠点があるのです。所が所有する車輌も、北京ナンバーです。

 殷墟の発掘は、民国時代、中央研究院歴史語言研究所(史語所)が行っていましたが、解放後は中国社会科学院考古所が責任を持って発掘を継続しています。今でも、毎年のように大きな発見があるそうです。

 そのおかげで、発掘中の遺跡も拝見することができました。広大な敷地にそのサイトはあります。掘りかえされた発掘現場をよく見ると、土を築き固める「夯土(夯築)」と呼ばれる技術を使って作られた壁が、層を成しているのが分かります。何よりショッキングなのは、掘り起こされたばかりの人骨が置かれてあることでした。それにしても、このような現場を案内していただけたのは、ありがたいことです。

甲骨を廃棄した穴
甲骨を廃棄した穴

 殷墟博物苑という博物館も見学しました。ここは観光客も多いところで、展示も充実しており、この地から掘り出された青銅器、甲骨が多く展示されています。ほかにも、甲骨の廃棄されていた穴のひとつを再現した展示、人骨を埋めた様子を再現したもの、有名な「婦好墓」を再現したものなど、広く殷墟を楽しめるように設計されています。特に、甲骨を廃棄した穴を見て、想像した以上に、数えられないほどの甲骨がまるでゴミのように大量に捨てられていたことを知りました。ただ私がこの方面に疎いだけなのですが、大きな穴に捨てられた甲骨の累積に圧倒されました。これをはじめて掘り起こした人々は、どれほど感動したことか。

 それにしても思うのは、殷代が実に残酷な時代であった、ということです。大量の殉死、人間の頭を盛るための青銅器。大量の人骨を見ていると、この時代、どれだけ人命が軽んじられていたのか、いやでも思い知らされます。

 以前、台湾の中央研究院史語所を訪問していたころ、日本から来た歯学部の先生の通訳としてその方のお供をし、史語所の所有する殷墟出土の頭蓋骨をたくさん見たのを思い出しました。その先生は、「顎の骨と歯を見れば、人種の系統は簡単に分かる」と言い、また「この歯をこの顎にはめるのは、間違い」と言いながら、パズルのようにどんどん「正しい」状態に戻してゆかれました。思えばあれらの骨も、もとは無残に殺されて埋められた殷の人々のものなのでしょう。

 これほどに人命を軽視した、殷の晩期。名君とされる高宗も、どんな君主だったか、知れたものではありません。殷の滅亡は、すでに命運、定まっていたというべきでしょう。

開封の鉄塔にて


開封鉄塔
開封鉄塔

河南省の東部に位置する開封市。この都市は、前近代において、数度にわたり国都となった、中原地域の古都です。まずは戦国時代の魏の都、大梁(BC364-BC225)。その後、しばらく国都とはなりませんでしたが、五代の時、後梁の都となり、続いて、後晋、後漢、後周が都を置き、そして、続いて北宋の首都となったのです。この都の繁栄は、「清明上河図」として、今にその記憶を伝えています。それ以降も、河南の中心として、長くその地位を保ちました。1954年に河南の省都が鄭州に遷るまで、この地は政治都市として機能し続けてきたのです。

ところがこの開封、黄砂の堆積がひどく、古い街並みがどんどん砂の下に消えてゆくと聞きました。北宋の建築は、ほとんど現存せず、地下8メートルに眠っているとのこと。ちなみに、地下25メートルに至るまで、各時代の遺物が累々と積み重なっているそうです。現在でも高層ビルを建てず、極力、地下には手をつけていません。

そんな中、鉄塔と繁塔という、二つの塔のみが、今もそびえ、北宋の面影を伝えています。高い建物のない開封の市内からは、塔がよく見えます。鉄塔は、河南大学のすぐ北に位置しているので、この大学で簡単な講義をしたついでに、見学してきました。

もともと、皇祐元年(1049)、開宝寺の塔として建てられたもので、八角の十三層、高さは55.88メートルあります。鉄塔といっても、鉄製ではありません。見るところ、鉄のような鈍い光を放つので、鉄塔というのだそうです。磚に瑠璃の釉薬をかけて金属のような質感を出し、それを積み上げて作った磚塔です。一つ一つの磚は、きわめて美しく、塔の姿も優雅。これまで、いくつか中国の古塔を見てきましたが、最も印象に残る塔です。

鉄塔から望む
鉄塔から望む

内部には非常に狭くて暗い階段が設けられており、観光客がおっかなびっくり登り降りしています。私も登って見ましたが、狭い窓から中原を見おろし、愉快でした。

朝鮮半島ほどの面積を持ち、1億の人口を擁する河南省、その中心であった開封。鉄塔から、その開封の下に埋まっているであろう歴史に思いを馳せました。