『論衡與東漢佛典詞語比較研究』


胡敕瑞『《論衡》與東漢佛典詞語比較研究』(巴蜀書社、2002年)を読みました。語彙の研究です。本書が出版された時に、いち早く購入したのですが、「なぜ『論衡』と仏典が選ばれたのか」、「それが漢語史の上で、どういう意味をもつのか」、今ひとつしっくりこず、ながらく書架に挿したままになっていました。

緒論

第1章 《論衡》與佛典的單音詞及複音詞

 1.1 《論衡》與佛典的新興單音詞

 1.2 《論衡》與佛典的新興複音詞

第2章 《論衡》與佛典的新舊詞

 2.1 《論衡》與佛典詞語的新舊對應比較

 2.2 《論衡》與佛典詞語變化的機制和方式

第3章 《論衡》與佛典的詞義

 3.1 《論衡》與佛典詞義發展的概説

 3.2 《論衡》與佛典詞義演變的途徑

第4章 《論衡》與佛典的同義詞和反義詞

 4.1 《論衡》與佛典的同義詞比較

 4.2 《論衡》與佛典的反義詞比較

第5章 《論衡》與佛典詞語的結構和詞語的搭配

 5.1 《論衡》與佛典詞語的結構比較

 5.2 《論衡》與佛典詞語的搭配比較

結語

目次を見てもやや単調ですし、ここ数年、語彙研究が出すぎている嫌いもあり、埋没した印象を受けていました。しかしながらこの書物は、実はきわめて興味深い研究書なのです。上古漢語から中古漢語への過渡期にあたる後漢、その時代の口語を伝える資料として選ばれた、『論衡』と後漢の漢訳仏典。しかも、著者の境遇も、その内容もまったく異なる両者を常に一つの視野に置き、両者の共通性と異質性とをねばり強く追っている胡氏の思考には感嘆させられます。

中古漢語は上古漢語と比較して、語彙の面において、明白な違いがあります。私は『世説新語』を繰り返し読み、中古の語彙にはやや心得があるつもりでいましたが、そのような新語をよりよく理解するためには、後漢の新語を知る必要があることを、本書を読んで痛感しました。

新語がたくさん醸成された後漢。その語彙を研究する本書の方略は、新語や新しい言語現象に着目するものです。「動詞が何パーセントで、名詞が何パーセント」「単音節語が何パーセントで、複音節語が何パーセント」などと、書物をまるで死体のようにとらえて「統計処理」する語彙研究が目につく中、本書は実に動的に語彙の発展をとらえています。

『論衡』の語彙を従来の注釈よりも深く読み解き、仏典については同本異訳を參照して意義を明らかにし、前後の用例を調べ、その結果を根拠として、『漢語大詞典』『漢語大字典』などの不足を補ってゆく、という丹念な作業です。たとえば、排泄物を意味する「大便」の用例として、『漢語大詞典』ははるか後世の『西遊記』を挙げますが、胡氏は『七処三観経』『修行本起経』『傷寒論』にすでに用例があることを指摘します。このような辞書の記載を訂正しうる指摘は、枚挙にいとまありません。

また第5章において扱われる「搭配」とは、英語のcollocationの訳で、現代漢語のcollocationが仏典にまでたどれる例を示しており、興味深く読みました。「放箭」「放水」「下種」など。前漢以前にはなかった組み合わせのようです。

「あの人は漢文がよく読める」「あの人は読めていない」などとよく耳にします。では、「漢語の文章が読める」ことの判定基準は如何、と問うと、人によりずいぶんと差があるものです。私の判断基準のひとつは、「文章を読んで、時代が判定できているか否か」です。語彙や文法の変化に鈍感な人は、たとえ大体の意味がとれていても、「読めている」、とは思えません。

その意味で、漢語の文章を読み解く胡氏の実力の確かさには、目を見張るものがあります。そして本書を読むことを通して、自分の読書力の曖昧さにあらためて気づきました。この一冊を通し、個別の知識を得たことはもちろんですが、それ以外にも、読みの徹底ぶりを示され、大いに啓蒙されました。

最後に注文を一つ。漢訳仏典の語彙を考察する際、やはり、サンスクリットとの対照が不可欠であると思います。新語が続々と生み出された背景にも、きっと外国語からの翻訳という面があったはずです。その方面の追究は、かならずしも十分でないと感じました。

*胡敕瑞『《論衡》與東漢佛典詞語比較研究』(巴蜀書社、2002年)、Webcat所蔵図書館は17館。

“『論衡與東漢佛典詞語比較研究』” への 6 件のフィードバック

  1. 「文章を読んで、時代が判定できているか否か」という基準のおはなし、目から鱗です。文言は時代を超えた言語だとのべている本を目にしたことがあって、なんとなくその考えがのこってました。ぜひ繊細に読めるようになりたいです。

  2.  昭夫さま、コメントありがとうございます。おっしゃるとおり、一面において、文言は時代を超えており、基本的な性格は一貫して続いています。しかし、他面において、それぞれの文章は実に多様な顔を見せます。
     たとえが適切かどうか、分かりませんが、「人類はひとつ」というのが真理である一方、「各国、各民族、各宗教、各年代、各地域の人々には固有の生活と文化がある」というのもまた真理であるのと似ています。大局から見ると、「文言は時代や地域を超越している」のですが、「文言文をより詳しく見ると、驚くほどの多様性を備えている」、ということです。
     専門とする文献を一つ決めて読み込めば、「前の時代には使われていなかった語彙や文法」を自分で発見することは難しくありません。たとえば、以前、「文言基礎」で学習した『千字文』なども、すべて調べてゆけば、南北朝時代に特有の語彙を指摘することができます。

  3. Xuetui様
                            2010年12月5日
    拝復。
    ◎「よろしければ、また」。
    お言葉に甘えて送信します。

    ◎『論衡與東漢佛典詞語比較研究』。
    1,「排泄物を意味する『大便』の用例」。
    以前、白楽天の「同錢員外、題絶糧僧巨川」という七絶の詩話を書いた時、「大便」という語彙を使ったのを思い出しました。以下、ご笑覧お願いします。

    釈尊は、「多食の人に五つの苦患(く・げん)有り」として「多食」を戒めている。

    貪瞋痴(とん・じん・ち むさぼり・いかり・おろかさ)の三毒はすべて多食に由る。多食の人には五つの苦しみが有る。その五つとは、一つ、大便がしばしばである。二つ、小便がしばしばである。三つ、すぐに眠くなる。四つ、体が重くて作業が出来ない。五つ、消化不良を起こして胃に悪い(『出曜経』戒品第7)。

    原文は、

    貪欲・瞋恚・愚癡、皆由多食。多食之人有五苦患。云何爲五。一者、大便數。二者、小便數。三者、饒睡眠。四者、身重不堪修業。五者、多患食不消化。

    となっている。断食は釈尊の斥けた苦行である。また、方法を誤ると危険でもあるという。「胃に悪い」とまでは書かれていないけれども、この多食の戒めは直接に表現されていて分かりやすい。
    2,「新語が続々と生み出された背景」。
    『高僧伝』巻5・釈道安(312~385)伝に、「安先聞羅什在西國、思共講析、毎勸堅取之。什亦遠聞安風、謂是東方聖人、恒遙而禮之。安終後十六年、什公方至。什恨不相見、悲恨無極」と記されていました。これは、王充より300年も後のことです。『論衡』と仏教語。早速、該書を取り寄せて読んでみます。
    それにしても、「学生に読んでもらうために」、このようなブログを読むことの出来る「紙の辞書を引くのを億劫がる学生たち」は幸せです。「不快に感じ」るなどということは決してありません。

    藤田 吉秋・Eメール・toubokuji@nifty.com

  4. 藤田さま、いろいろとご教示賜りまして、ありがとうございます。最近、家内が「甲田式健康法」なるものに凝っており、「少食」に執心しておりますので、この『出曜経』のことを伝えたいと思います。きっと、大喜びです。ありがとうございました。

  5. xuetui様
    中国現代史や文学を勉強している20代です。汲古書院の『汲古』第57号の新刊紹介に、大久保隆郎氏『王充思想の諸相』があり、王充を『論衡』の執筆に突き動かしたものはブッダの教えに対する民族的「危機意識」であって、夷狄文化に対して人々に儒教的古典文化の真実を涵養しようとした書であるとのこと。胡氏の研究された語彙的な関連の背景に、このような仏教批判書としての側面が捉えられていたりしますでしょうか(どちらも読んだことがないので憶測なのですが)。
    古典にも最近非常に興味があるのですが、アウトプットそれも量で勝負に傾く中で、インプット(特に専門外について)の困難も感じています。

  6.  杉谷さま、いらっしゃいませ。ご光臨、ありがとうございます。

     王充を突き動かしたものは、果たして「民族意識」「西域異民族への蔑視」であったのか。これは、ちょっと検討の余地があるように思います。著者は「本書からその一端を読み取って頂きたい。仏教の東伝については後日を期することにする」とおっしゃっているので、よくよく読んでみることにします。ただ、この見方は、まだ通説にはなっていないようで、胡氏ももちろん、そういう視点を持ってはいません。

     近代史をなさっている方に、本サイトをご覧いただき、たいへん喜んでおります。周囲の人々を観察していると、文言文を読むことができ、古典を知っている近代研究者は、非常に有利だと思います。取り扱える資料が格段に増えますから。「文言基礎」で『千字文』から始められたら如何でしょうか。

     アウトプットとインプット、これはバランスの問題ですね。バランスがとれている時には、何も感じないものですから、困難を感じていらっしゃるということは、アウトプット過多の状態かも知れませんね。経験上、知的好奇心が生じたときは、それに素直に従うのがよい選択です。まあ、劉師培くらい、勉強してものを書ければ、よいのでしょうが。

     今後とも、おつきあい願えれば、幸いです。

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