『老子』の学び方


 『老子』はなかなか難しい本です。「薄い」というのがくせ者で、たとえば、訳のこなれた小川環樹訳(中公文庫、1973年)を読めば、1時間くらいで読み終えることができ、しかも、意味は通ったようにも思えるのですが、なかなか「読んだ」という以上の印象をもつにはいたらない人が多いようです。

 一方、いろいろと考えて読めば、ものすごく時間をかけて読むこともできますが、結局、何年も向き合った上、「分からん」となってしまう人もいます。そういう意味で、「読み方の難しい書物」だと思います。

 『老子』というテクストを支えている思考を生み出した背景がおぼろげながらでも分からないと、読んでも分からないという、思想的な難しさも、もちろんあります。「道」「聖人」のような概念をある程度まで近しく理解できないと、全体的に意味不明になるのかも知れません。

 アプローチは多々ありえます。まず、伝統的には、「注釈=解釈を通じて読む」読み方があります。しかし、実際問題、王弼も河上公も、そうとうに難しいので、あまり実用的ではありません。『韓非子』の喩老・解老篇を読むのは、意外によいヒントを得られる手かも知れません。

 また、異本どうしを比較する、「校勘学的」な方法も伝統的なやり方でしょう。ただ、この方法は、万人向けではありませんし、差のないところには意識が向かないという欠点があります。

 次に、英訳を読む方法があります(英語が堪能であれば、の話ですが)。曖昧模糊とした『老子』の原文に、5w1h的な要素が補ってあるので、像を結ぶことができます。寺田寅彦は、ドイツ語訳を読んで眼を開いたそうです。

 次に、さまざまな日本語訳や解説をたくさん読んで、日本語的な理解から出発するというやり方です。これがもっとも敷居の低いやり方で、多くの「漢文好き」が採用している方法です。しかし、敷居が低いだけに、自分なりの理解に至るのは困難で、たんなる「受け売り」になります。それゆえ、専門家になりたい人には勧めにくいのですが、『老子』くらい難解な対象の場合には、「方便」として積極的に使えるかも知れません。まず、日本語として理解した上で、次に原文に立ち向かう、という段取りですが、残念ながら、往々にして「日本語/原文」の差が曖昧となり、「知ったかぶり」に堕するのが普通です。

 私がよいと思うのは、陳鼓応(『老子註譯及評介』中華書局、1984年)などの中国の訳注を1冊読み、そして『老子』を中国音で聴いてみずから音読し、はじめから中国語として理解した上で、次に王弼注に進み、さらに自分なりに『老子』像を考え、その上で日本語訳を含めた諸家の議論を参照する、というものです。

 しかし、これはあまりにハードルが多く、高く、とにかく大変すぎて、学生にやらせようとしても、まだ効果があがっていません。これは自分が実践した方法で、自分なりには効果をあげましたが、万人に有効だとは思えない感じです。

 「中国古典の学び方」は、このブログの中心的な関心事なのですが、今年は個人的に、大陸に赴いて『老子』を講ずる予定もあり、最近、特に『老子』の読み方を再考しているところです。

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