『読書の学』


学者が書物を読むのは当たり前のようですが、特に「読書の学」なる書名を与えられた書物があります。吉川幸次郎『読書の学』(筑摩書房、1975年)。

その「読書の学」とは、「一一の書の一一の言語表現そのものに即し、その外に向かってひろげる波紋、更には内に向かってうずまく波紋、つまり一一の言語表現にまつわる無限に複雑なもの、それを静かに追求する仕事」(第39回)を目指す、そのようなものです。1971年の夏から、1975年の春まで、吉川氏が筑摩書房の雑誌「ちくま」に連載した文章がまとめられています。

当時は広く知識層に向けて語りかけられたのですから、中国学徒のみならず、多くの読者があったことでしょう。そして本書は、読書界一般はいざ知らず、日本の中国学の世界においては、今後とも永遠に読み続けられるべき書物だと思われます。

著者自身が「はしがき」にて、「より道は甚だ多い」と述べるとおり、曲折が多く、しかも思索が粘り強いので、決して読みやすくはありません。「書物を読む際、事実のみをとらえるのみでなく、書物の著者が発した言語を徹底的に吟味せよ」という主張自体は分かりにくくないのですが、なぜそのことを語る本書の行文に曲折が多いのか、なぜこのように粘り強いのか、この点を追うのでなくては、本書を読む意味は薄いでしょう。

漢学徒として読むならば、現代中国語の習得はもちろん、一定程度、駢文や古文を学んであることが本書を読む条件になるかも知れません。読み飛ばしは厳禁です、著者は「粗心の人」(第11回)を戒めるために本書を書いたのですから。我々はせいぜい、「細心の読者」となることを目指すべきでしょう。もちろん、漢学徒以外の読者は自由に読めばよいのですが、我々はここから何かを汲むのですから、そうせざるを得ません。

『史記』の一句、「隆準而龍顔」をめぐる思考は、第10回から第16回に及び、実に粘り強く感ぜられます。しかもそこまで粘り強く追究したうえで、「事実として結局どうであったのか」という問いに対する判断は、なお慎重に保留されており、安易に答えを求める割り切りとは正反対です。それでも厳然として連なる古典の文句のリズムを受け止める、それこそが著者の姿勢なのです。

本書はすべて39回の連載をまとめたものですが、特に重要なのは、第1回から第24回まで、それと第39回であると思います。読み物として面白いのは、第31回、第32回の太宰春臺のところなどでしょうが、方法論を学ぶには前半部分を熟読する必要があります。

著者は言います。

私のいう「読書の学」は、すべての書に施さるべきである。しかしそのまずもっとも施さるべき対象、あるいは対象それ自体が「読書の学」を要求するのは、契沖の「万葉集」におけるごとく、文学の言語であり、詩の言語であるとしなければならない。(第29回)

その言に同意しつつ、より広く中国学の方法として、「読書の学」があることを、我々後輩の学徒はあらためて確認する必要があります。最終回である第39回に、契沖の言葉を引用するのは、私にとって、限りない励みです。

よろずの奥義は誰かはきはむる人あらん、此理ありと信じて、いつはりをすてて、心のをよふ所まことにつかは、神明もこれをうけたまふへし。

*吉川幸次郎『読書の学』(筑摩書房、1975年)(筑摩書房、1988年、筑摩叢書)(筑摩書房、2007年、ちくま学芸文庫)。

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「『読書の学』」への2件のフィードバック

  1.  「「粗心の人」(第12回)を戒めるために」とありますが、その語は「十二」でなく「十一」末尾近くに出現します。それとも、「十二」中にもあるのに細心でないこちらが見落としたのかしらん。

  2. ご教示くださいまして、まことにありがとうございます。おっしゃるとおり、わたくしが間違えておりました、謹んで訂正いたします。

    学退覆

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