いにしえに泥(なず)むな


引き続き、『説文解字注』を読んでおり、篇一下、「艸」部を進行中。

「苞」の字義について、許慎は次のように解釈します。

苞,艸也。南陽㠯爲𧆓𡳐。从艸,包聲。
苞、草である。南陽の地ではそれで草履を作る。艸を構成要素とし、音は「包」。

これに対し、段玉裁は異を唱えます。私なりに段氏の意を汲んでまとめると、以下のようになります。

「苞」の本義が草だなんて、おかしい。『詩経』小雅、「斯干」の詩に「如竹苞矣、如松茂矣」とあって、それを毛公が「苞、本也」、つまり「根本」と解釈したのこそが本義だ。

一方、この字は仮借として「包」、包む、くるむ、意としても経典に用いられた。

またさらに「藨」、アブラガヤの仮借としても、「苞」字は経典に用いられた。「苞、艸也」という説解はそれをいうわけだろうし、アブラガヤは草履の材料でもある。これは仮借の義なのだが、もしそれを本義だと思っていたならば、許君はきっと「苞、藨也」と説いたに違いない。

もともと、許君は「苞,本也。從艸,包聲」と書いたはずなのだ。

段玉裁は、この説解、「後人の妄改ではないか?」と疑ったようにも思われます。

「淺人妄竄改之」「後人妄增」などというのは、段玉裁の口癖であり、伝本を無視して自説を貫き、本文を改める時の決まり文句です。

しかし、「苞」字の注では、この決まり文句を口にしていません。かえって、以下のようなことを言っているのです。

蓋艸木既難多識,文字古今屢變,雖曰至精,豈能無誤。善學古者不泥於古可也。
思うに、(孔子が「多く鳥獸草木の名を識る」というのは建前であって)草木の名は多く知るのが難しい上に、文字は時代によって頻繁に変遷するのだから、すばらしく精確であるものですら、誤りを犯すことを免れない。いにしえを学ぶことに長けた者は、いにしえに拘泥しなければ、それでよいのだ。

これは何を言っているのでしょうか?「至精」とは何なのでしょうか?私は、「至精」は許慎『説文』を指していると思います。段玉裁は、この説解を書いた人物が許慎であるか、それとも浅はかな後人であるか、決めがたかったのではないでしょうか。それでも段氏は、この説解に関して、どちらかというと許慎を疑う方向に傾いているように思えます。

「いにしえに泥むな」。言い換えれば「許慎にこだわるな」ということになるでしょう。

段注が許慎の誤りを指摘した例は少なくないのですが、この「善學古者不泥於古可也」という言葉は、特に心にのこりました。

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「いにしえに泥(なず)むな」への6件のフィードバック

  1. 古勝 隆一先生
                            2011年6月23日
    前略。
    ◎孔子が「多く鳥獸草木の名を識る」というのは建前であって

    「多識」の典故として、『論語』陽貨篇第17を挙げられるのなら理解できますが、「建前であって」というのは孔子の気持ちとしても段氏の考えとしても適当でないような気がします。また、「難し上に」→「し」の下、「い」を脱しています。

    子曰、「小子何莫學夫詩。詩可以興、可以觀、可以群、可以怨。邇之事父、遠之事君。多識於鳥獸草木之名」。

    ◎「善學古者、不泥於古、可也」。

    この戒めは、「近時經典凡訓包裹者、皆徑改爲包字。郭忠恕之説、誤之也」を受け、郭忠恕に対して向けられたものでしょうか?それとも、『説文』を学ぶ者全てにに対してのものでしょうか?『古文尚書撰異』巻3「草木蔪苞」、「厥苞橘柚」には、それぞれ「徐説甚誤」、「郭氏昧於古六書假借耳」と厳しく徐氏、郭氏を批評しております。

    藤田 吉秋・Eメール・toubokuji@nifty.com

  2. 藤田吉秋さま

    コメントいただきまして、ありがとうございます。「艸木既難多識」の部分は、私の言葉が足りなかったせいで、誤解を招いてしまったのかもしれません。孔子が建前を言った、という意味で、このように書いたわけではありません。「多く鳥獸草木の名を識る」という孔子の言葉は、理想としてはまことにその通りなのだが、それはなかなか実現しがたいことだ、と段玉裁は言っている、と書きたかったのです。

    この「艸木既難多識」という部分、『論語』を引いているのは言うまでもないとして、ではなぜ『論語』を引いたのか、それを考えたかったのです。段氏は諧謔をこめて書いているというのが私の読みなのですが、如何でしょうか。

    「善學古者不泥於古可也」は、広く読者に呼びかけたものと理解しました。『古文尚書撰異』の2条はまことにご指摘の通りで、ご教示を受けて読んでみました。ありがとうございます。唐以前には『尚書』に「苞」字が用いられていた、と段氏は強行に主張していますね。経学上の論点になっているようで、黄焯『経典釈文彙校』は、段氏に反対し、敦煌本を根拠として「包」が正しい、としていますが、『尚書』の古写本を少し見てみたところ、岩崎本では「漸苞」「氒苞橘柚」に作っていますので、段氏が言うとおり、「苞」が『尚書』に用いられていたのは確かな事実です。調べる契機を与えてくださいまして、ありがとうございます。

    また、誤脱のご指摘、ありがとうございました。 古勝隆一

  3. 古勝 隆一先生
                            2011年6月24日
    拝復。
    ◎『詩経』大雅、「斯干」の詩。

    「斯干」は小雅、「生民」は大雅では?

    *『段注』
    「斯干」、「生民」傳曰、「苞、本也」。此「苞」字之本義。

    ◎『段注』。詩言、「白茅苞之」。

    召南「野有死麕、白茅包之」。段氏の『詩経小学』巻2に、「戴先生『詩經補注』作『苞』云、俗本譌作『包』」と(阮校亦引『詩経小学』)。また、ここにも郭忠恕を引いて、「郭忠恕不察云、『以艸名之苞爲厥包。其順非有如此者』」と郭氏を批判しています。「不泥於古可也」は「不可泥於古也」の倒置形ではないのですか?段氏は郭忠恕の所説を「未免泥古之過」と言っているように思えるのですが・・・。

    ◎「段氏は諧謔をこめて書いている」。

    「諧謔」とまで言えるのでしょうか。「善戲謔兮、不爲虐兮」?『説文』「艸」部を見れば、「難多識」と言いたくはなりますが・・・。

    藤田 吉秋・Eメール・toubokuji@nifty.com

  4. 藤田吉秋さま

    ご批正たまわりまして、ありがとうございます。確かに「小雅」斯干の誤りです。お恥ずかしい。

    「不泥於古可也」については、自説に執着させていただきますが、今後とも不当な内容がありましたら、ぜひご教示ください。 古勝隆一

  5. ご無沙汰いたしております。今年は節電で今月で授業が終わってしまったので、先日、静嘉堂文庫の展覧会に赴いて、現存最古という『説文』を拝見してまいりました。

    四部叢刊の『説文解字』は静嘉堂文庫本なのだとおもいますが、段注とくらべると、たとえば最初のほうの字の「始也」など、段注で本文として扱われている文言が、四部叢刊の方では、「徐諧曰…」などとあわせて割注に入れられているものがあります。一方で、「一」の「惟初大極…」の説解などは、段注でも四部叢刊でも本文扱いになっています。このような説解の書かれている位置の違いは、許慎の意図とは関係なく、単にこの本ではそうなっているという、というものなのでしょうか。

    また四部叢刊では「一」の項目などは、改行後に1字下げがされていますが、こういう字下げは、書物史上は例はすくない方のものになりますでしょうか。

  6. 昭夫さま、コメントくださいまして、ありがとうございます。そうですか!もう夏休みですか。本学ではまだまだ授業が続きます。

    静嘉堂文庫蔵本『説文解字』大徐本、私も拝見したことがあります。大徐本の体例は、『説文入門』にも書いてありますよ。「大徐は原則的に言って、説文そのものを校訂したので、そこに大徐本の真価がある。別にそれ以上に大徐の解釈を各条ごとに書きつけるということはなかったのです。……。詳しく見ると、確かに、時々思い出したように「臣鉉等曰」が出てくるし、弟の説を引いた「徐鍇曰」も出てきます。しかしこれは「伝」ではなく「校記」といったような性質のものです」(p.21)。

    540部の部首字である「一」などは、静嘉堂蔵本では、説解の字を大字にしてあります。また、ご指摘の通り、部首字の説解が次の行に及ぶ時は、一字下げてあります。昔は索引がなく、部首を目当てに検索していたので、こういう工夫が施してあるのです。研究したことはないのですが、このような工夫は、徐鉉自身によるものなのかも知れません。

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