先学を語る-頼惟勤先生


東方学会の学会誌『東方学』は、優れた学術論文を載せるのはもちろん、「座談会」「追悼」といった学界消息も紹介しています。「座談会」は毎回、楽しみにしております。

今回、『東方学』第122号(2011年7月)の座談会は、頼惟勤(らい・つとむ、1922-1999)先生のお人柄・ご学問について、生前に交流のあった学者たちが語る、という趣向です。石川忠久・佐藤保・戸川芳郎・直井文子・藤山和子・松本昭・水田紀久・平山久雄の諸先生が、座談会に加わっていらっしゃいます(平山先生は「紙上参加」ということです)。

頼先生については、『説文入門』をこのブログで取り上げたこともありますし、汲古書院から、3冊の著作集が出されており、大きく後学に裨益しています。

  • 『中國音韻論集』(頼惟勤著作集1) 汲古書院,1989年
  • 『中國古典論集』(頼惟勤著作集2)汲古書院,1989年
  • 『日本漢學論集』(頼惟勤著作集3)汲古書院,2003年

私は頼先生にお目にかかったことはなく、ご高名をうかがうばかりでしたので、紙数にして30ページにも及ぶこの座談会の内容には関心を持ちました。

その内容は、読者の皆さんにそれぞれ図書館でお読みいただくとしまして、頼先生が参加なさり、また主催された読書会の様子が紹介されていたのを、興味深く読みましたので、紹介します。

一つは、昭和27年ごろから、近藤光男・山井湧・頼惟勤・石川忠久の諸先生が始められたという読書会です。初期は『戴震文集』を読み、後に『資治通鑑』『入蜀記』『桟雲峡雨日記』『礼記』を読まれ、何と35年ほども継続された、とのこと。1970年に平凡社から出された中国古典文学大系『資治通鑑』は、この成果とのことですが、恥ずかしながら、これまで気がつきませんでした。

また、『説文入門』の母体となっている説文読書会についても、面白い紹介がありました。頼先生は「略年譜」の昭和45年の「説文読書会の主催」の項目に、「”女子大亡国論”への回答のつもりとして」と書かれた、とのエピソードです(p.149)。「略年譜」は、もともと『お茶の水女子大学中国文学会報』第6号に載せられたものですが、今回、修訂を加えて『東方学』に転載されました。ただ、当時の「女子大亡国論」なるものがどういうものか知らないので、正しい解釈はできません。

やはり頼先生のご学問というのも、読書会を離れてはありえなかったのだな、と感慨を深くしました。

私事ながら、この8月、北京師範大学の人文宗教高等研究院に赴き、『老子』の読書会を開催してきました。中国には、日本の大学の文学部で行われているような「演習」形式の本読みの授業は少なく、学者同士の読書会も多くないようです。そういうわけで、「日本式の読書会を紹介してくれ」という中国の先生の要請を受け、今回、出講した次第です。

いままで、読書会というのはあまりにもあたりまえのもので、その意義を明確に意識したことさえなかったのですが、やはり、日本漢学のすぐれた伝統のひとつなのでしょう。帰国後、この「先学を語る」を読み、あらためて読書会という学術的な習慣のありがたさを感じました。

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「先学を語る-頼惟勤先生」への6件のフィードバック

  1.  大変興味深いお話、ありがとうございます。
     偶然にも私の手元に『東方學』のコピーがありましたので、さっそく読みました。お体を壊しても、読書会への参加を楽しみにされておられたようで、頼先生と読書会との深い繋がりには感銘を受けました。
     先日、『説文解字注』の点注会にお邪魔して、高い知的レベルの共有が読書会の役割なのかな?と、ふと思いました。中国では読書会があまり多くはない、ということを、先生のお話をうかがって初めて知り、むしろそこのことに驚きを感じました。
     個人的なことで恐縮ですが、今の私には「独学でいかに古典を読み続けるか」ということに強い関心があります。といいましても、所詮は趣味程度ですので、真似をしようというおこがましいことは思っておりませんが、中国の学生や学者の方々がどのような読書をされているのか、というのはとても気になります。もしも何かの機会がございましたら、その辺のお話もうかがいたく思います。また、先生ご自身がどのようなご講義をなされたのかも知りたいところです。もちろん、書籍という形になるのは大歓迎です。むしろ強く望んでおります。
     そういえば、昨年の貴ブログ記事の「『説文』と『新華字典』」も、大変刺激を受けました。やはり、「どのように学んできたのか」というお話は惹きつけられます。
     まとまりなく、しかも厚かましいことばかり申し上げてすみません…。
     いつも、なかなか我々には知りえないようなことや、刺激を与えてくださるお話をしてくださるので、つい甘えてしまいます。
     今後も楽しみにしております。

  2. まっつんさま、ありがとうございます。さて、「読書会の意義」については、今回、あらためて考える機会がありまして、エントリを立てるつもりですので、ここでは失礼します。

    「中国の学者・学生はあまり読書会をしない」ということですが、正確に言うと、「日本の研究者がしているような、一字一句厳密に読解するタイプの読書会をしていない」ということです。読書の集いとしての読書会はあちらにも少なくないようですし、あらかじめ読んできた書物の内容について自由に語るものは、(授業を含め)けっこうあるようでした。また「日本の研究者がしているような」といっても、私が了解しているのは、京都大学の漢学研究が行ってきた、公的・私的な読書会にすぎませんので、ご了承ください。

    また、誤解のないようにいうと、中国の学者で「独学」を標榜している人は多くないようです。彼らは、日本の学者以上に「誰に教わったか」「どの学統・師系に属するか」を重んじています。師や同門との結びつきは、非常に強固なものがありますので、「独学」の反対でしょう。そういう意味では、貴兄の参考になりそうもありません。

    以前紹介した、文革中のエピソードは、文革という非常事態のもとでこそ、といった特殊な例でした。「独学」の体験談も少しは聞いたことがあり、感動的な話もありますので、いずれ紹介してゆきたいと思いますが、しかし私としては、平時においては「人と人との関係を保ちつつ読書を続けるのが好ましい」と考えております。

    中国では、「師匠の話をよく聞き、師匠の著作をよく読み、師弟・同門の関係を重んずる」ことで、知的レベルの維持が行われているものと見受けます(そういう意味では、「誰に教わるか」は生涯にわたり、決定的な意味を持ちます。「若気の至り」は通用しない厳しさがあります)。中国の学生の一人は、今回の『老子』読書会を通じ、「同門以外の友人、専門を越えた方法論の異なる友人と、対等に本を読めたのがよかった」といっていました。私の理解する「日本の読書会」は、異質なメンバー同士による切磋琢磨ですから、その意図が伝わり、喜ばしく思っております。

  3. 現在『東方學』が手に入らない状態なので、「先学を語る」の「頼惟勤先生」誰かから借りて読みます。情報をありがとうございました。とてもとても足元にも及びませんが、専門が頼惟勤先生の研究の一部と重なっておりますので、読むのが楽しみです。

  4. 猫頭鷹さま、コメントくださいまして、どうもありがとうございます。

    『東方学』、ぜひお読みください。偉大な先人を知る学者たちが集まって、ともに学問を語る、『東方学』の「座談会」が大好きです。励みにもなりますし、貴重な記録であると思っております。

  5. 頼先生は、江戸時代の寺子屋の先生のように、優しく、学部生が馬鹿な質問をしても、決して嫌な顔をなさらず、優しく簡潔に教えてくださいました。定年後、頼まれたから、とおっしゃって、地元の高校の定時制に出講されていました。科研費のかの字もご存知なかったのでは?

  6. 山田様

    コメントお寄せくださいましてありがとうございます。頼先生のお人柄をご紹介下さいましたこと、感謝いたします。少しでも見倣いたいものです。

    学退復

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