藩札の学問


對嵐山房雅會記念寫眞
對嵐山房雅會記念寫眞

筑摩叢書に収められている神田喜一郎『敦煌學五十年』(筑摩書房、1970)に、「大谷瑩誠先生と東洋學」の一文があります(p.171-182)。

浄土真宗大谷派連枝、大谷大学学長でもあった大谷瑩誠師(1887-1948)の十七回忌法要に際しての記念講演ということで、神田氏は、大谷師の東洋學を概観した上で、次のように述べています。

大谷先生が御興味をお持ちになりました學問は、大體、以上お話いたしましたような諸方面にわたるように窺うのでありますが、それは、明治の末期から大正の初にかけて、とくに京都の地を中心として勃興いたしました新しい中國學の傾向と一致しているのであります。

その時代の中國學の指導者でありました内藤湖南先生とか狩野君山先生とかは、學問は世界的のものでなければならないということを、よく申されました。とくに狩野先生は、私どもに對して藩札の學問であってはならないと教えられたものであります。昔、江戸時代、日本全國が澤山の藩に分かれておりましたとき、各藩ではそれぞれ紙幣を發行いたしました。それが藩札であります。藩札は、その藩内では金銀同樣に通用いたしますが、藩外へ一步出ますと全くただの紙切れにすぎない、そういう性質のものであります。これに對して、金銀ならば、どこの藩でも同じように通用いたします。

狩野先生は、學問はすべからく金銀のように世界中どこへ出しても通用するものでなければならないということを仰言ったのであります。

いったい日本では、昔から漢學という長い傳統のある學問がありまして、これは、非常に尊いものであり、價値のあるものでありますが、しかしながら、この漢學は、長い鎖國時代に發達いたしましたもので、これをそのまま中國へ出しては通用いたしません。

内藤湖生や狩野先生は、それではいけないと考えられたのでありまして、京都に新しく勃興しました中國學は、こういう大きな理念のもとに發達したものであります。大谷先生は全くこれに御共鳴になったのであります。(p.177-178)

いまこそ、「新しい中國學」草創の理念を想起すべき秋ではないのでしょうか。

【写真の説明】

『敦煌學五十年』の181頁に見える写真を転載します。神田氏の「附記」に以下のように言います。「ここに挿入した第一の寫眞は對嵐山房における雅會の記念寫眞で、前列には向かって右から大谷禿盦、内藤湖南、小川簡齋、長尾雨山、狩野君山、木村擇堂、江上瓊山、山本竟山の各先生がおられる。なお後列右から五人目が園田湖城氏、九人目が私である」。大正13年5月のことであった、とのことです。

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中