『荘子』を見る眼


江戸時代に生きた読書の先達、敬首和尚(1683-1748)。内藤湖南「敬首和尚の典籍概見」をもとに昨日、紹介しました。『内藤湖南全集』第12巻(筑摩書房、1970年)。

敬首和尚が目録学を体得していた点を湖南は高く評価しました。それはきわめて得難いことだからです。しかしその点以外にも、『典籍概見』からは敬首和尚の深い学識をうかがうことができます。

たとえば、『易』『老子』『荘子』の読み方のコツを次のように言っています。

『易』の書は、その義ははんじもの也。『老子』の書は、なぞなり。『莊子』の書は、諸事をさかさまに云なり。此の三書は各々文のままには其義通ぜず。皆共にこくびを傾げ思案して、能くはんじ、能くなぞを解き、能く口上の裏表を合點せねばならぬ也。故に此の三書を三玄と云ふ。玄とは幽玄なる義どもなればなり。

『易』『老子』『荘子』をさらりと通読しても、ほとんど何も得るものはありません。それらの書物の難解さに苦しんだ人にとって、それは分かりきったことですが、では、どうすればよいのか?和尚は、それぞれの書物を「『易』=はんじもの」、「『老子』=なぞ」、「『荘子』=さかさまに云う」と、あざやかに言い当ててみせ、その上で、「こくびを傾げ思案して、能くはんじ、能くなぞを解き、能く口上の裏表を合點せねばならぬ也」と読み方のコツを披露しています。ちょうど、詰め将棋の本を見る感じですね。これは出色です。

これほど面白くてためになる「三玄の読み方」は、見たためしがありません。和尚はさぞかしユーモアあふれる人だったのでしょう。

韓愈と柳宗元の散文を比較した、次の一段も痛快です。

韓文は源と『莊子』を祖として悟入す、故に其の筆、自在なり。柳文は源と『春秋』を祖として悟入す、故に其の筆、自在ならず。『莊子』はまめぞう口なり。『春秋』は公家の口上の如し。

韓愈の文体のもとは『荘子』、柳宗元の文体のもとは『春秋』。この「探源」自体、目録学的であり、玩味するに足るものですが、ことに楽しんだのは、「『莊子』はまめぞう口なり」の一文です。「まめぞう」とは何か?『日本国語大辞典』で「まめぞう(豆蔵)」を引くと、その第1項に次のようにあります。

(江戸時代、延宝〔1673-81〕の頃、大阪にいた力持の乞食の名から)手品や曲芸をし、滑稽な身振りや口上で人を笑わせて銭を乞うた大道芸人。豆蔵坊主。
*随筆『斉諧俗談』(1758)三、「豆蔵(マメゾフ)貞享、元禄のころ、摂津国に一人の乞食あり。名を豆蔵(マメゾウ)といふ。市町に出て、常に重き物をささげて銭を乞」。
*滑稽本『東海道中膝栗毛』(1802-09)七・下「見せもの、まめぞう、よみうり、こうしゃく」。…。

「まめぞう口」とは、大道芸人のように面白おかしく人を惹きつける話しぶり、ということになるでしょう。

「荘子は(『史記』でいえば)滑稽列伝中の人だ」という説を聞いたことがありますが(残念ながら、誰の説なのか失念してしまいました。ご存じの方はご教示ください)、まさにそれに通じます。

ひるがえってみれば、敬首和尚は、滑稽な大道芸を眺めつつ「荘子みたいな芸だな」とニヤリとしたに違いありません。それこそ、読書の達人でなければ、やりおおせぬ芸当なのです。

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