四庫提要のこと


今から十年ほど前のこと、「訪問學者」として、台湾の中央研究院の歴史語言研究所のお世話になりました。十ヶ月ほどの滞在でしたが、とにかく何もかもが新鮮で、多くの収穫を得ました。毎日、先学や友人たちを訪れ、200枚持参した名刺を早々に配り終えたほどです。日本では不活潑な自分が、どうしてあれほど外向的であったのか、今もって不思議な気がします。

さて、台湾を旅行なさる方は、皆さん故宮博物院に行かれますが、私も滞在中はよく故宮博物院を訪れたものです。ほぼ毎週、中央研究院のある南港から内湖を通るバスに揺られて通いました。もちろん、有名な清の宮廷由来の宝物も参観しましたが、私の真の目当ては、その敷地内にある図書館、故宮博物院圖書文獻館でした。この図書館は、文淵閣四庫全書をはじめとする大陸からわたってきた貴重書を蔵しています。宝物も書物も蔣介石の国民政府が台湾に移ったときにもたらしたものです。

当時、故宮博物院図書文献処の処長を務められていた呉哲夫先生のおかげで、楊守敬の蔵書「観海堂」の善本をかなりの点数見ることが出来たのは、幸せなことでした。「庫房(書庫のこと)」に招き入れていただき、文淵閣四庫全書を拝見した感動は今もはっきりと覚えています。

さてその頃、呉先生から「有名な目録学者、昌彼得先生が故宮博物院図書館の一室を使って目録学の講義をする」とうかがい、無理に頼み込んで、昌彼得先生の授業を聴講させてもらうことになりました。これは願ってもない幸せでした。昌先生は呉先生の師でもあるとのことで、呉先生が仲介の労をとってくださったのです。

故宮博物院にほど近い東呉大学という大学が学生のために開講する講義ということでしたが、学生は10名弱。もちろん、外国人は私だけです。落ち着いた故宮博物院の会議室にてゆったりと受講しました。教科書は、昌先生と潘美月先生の共著である『中国目録学』(文史哲出版社、1986年)。昌先生はそのころすでに80歳に近かったと思いますが、大家にふさわしい堂々たる風貌でした。最初こそ、先生の腔調に戸惑いましたが、教科書に沿って説明していただいたので、二度三度と受講するうちに、やがて耳が慣れてきたのは愉快でした。非常に得るものが大きかった授業です。半年の習得の後、打ち上げのビア・パーティが開かれた際には、厚かましくも参席させていただきました。今こうして書いていても懐かしく思い出されます。

その講義で、よく覚えていることがあります。漢籍目録の粋である『四庫全書総目提要』(『四庫提要』『四庫総目』などとも略します)の価値を説く中で、「『四庫提要』と『本草綱目』、この二部の書物だけはどの家庭にも備えておかねばならない」、と先生がおっしゃったのです。まことにその通り、と思い、帰国後、家父にこの話をしたところ、「『四庫提要』はともかく、『本草綱目』は用いてあやまつことがあるのではないか」と言っていました。そうであったとしても、漢籍を読むほどの人は、一家に一部『四庫提要』を備えるべきこと、昌先生のおっしゃる通りであると思うのです。

以後、もちろん昌先生の言に順い、身辺に『四庫提要』を置いて参照しています。『四庫提要』を手にすると、台湾において経験した夢のような思い出が浮かんでくるのです。

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「四庫提要のこと」への3件のフィードバック

  1. 台湾故宮博物院での目録学の授業、図書文献館の事、大変うらやましく存じます。何かの折にテレビで「文淵閣四庫全書」の収蔵場所を見たことがあり、映像とはいえ圧倒された覚えがあります。その時の感想は「私は皇帝になりたい」でした…。わが恩師は古典専門ではないのですが、『四庫提要』は手元に置くべしと暗に提示されたので、古書で捜して贖いました。それから、とりあえず『四庫提要』を引くという習慣が身についています。勉強を始めたころからずっと藍色の布張りの書籍に見守られている気がしています。いつもたいしたコメントでなくて申し訳ないのですが、私にとっても大事な本に言及されていたので思わず。学退先生には及びませんが、故宮博物院の特別展で何冊かの四庫全書「史部」が展示されているのを見た時はやはり心躍りました。

  2. 猫頭鷹さま、

    コメントくださいまして、まことにありがとうございます。当時のことをふと思い出し、つい甘い夢にひたってしまいました。

    私の周囲を見ると、語言学を専攻なさる方は、古典にあまり関心がない場合も多いように思いますが、『四庫提要』に注目される先生は素晴らしい方に違いありません。それを聴いてすぐに購入なさった猫頭鷹さまも、素晴らしい方に違いありません。

    このような同好の方がいらっしゃる、と知るだけで、大いに鼓舞されます。今後とも、よろしくお願いいたします。 学退敬上

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