逆説の書


三島由紀夫(1925-1970)は『葉隠』という書物に、傾倒、依存しました。その理由を率直に語った、『葉隠入門』を久々に読みました。以前、これを読んだのは高校生のころであり、当時、その情熱にこそ圧倒されはしたものの、十分には理解できなかったように思います。近頃読み返してみると、彼の知性に驚きました。書物の読み方など、並の学者以上だと思います。

「葉隠」は前にもいったように、あくまでも逆説的な本である。「葉隠」が黒といっているときには、かならずそのうしろに白があるのだ。「葉隠」が「花が赤い。」というときには、「花は白い。」という世論があるのだ。「葉隠」が「こうしてはならない。」というときには、あえてそうしている世相があるのだ。(『葉隠入門』一「現代に生きる「葉隠」」)

世の読者は、あらゆる書物を「額面通り」に受け取りがちです。もちろん、そのように素直に読むべき書物が多いのですが、しかし、素直に読んでは理解できない書物もまた存在します。たとえば『荘子』がそれです。敬首和尚が「『莊子』の書は、諸事をさかさまに云なり。…。文のままには其義通ぜず」というとおりでしょう。

『荘子』の場合、まず世相や人間そのものに対する強烈な違和感があり、そして世相や人間に対する批判が形成されています。しかし、その批判をそのままぶつけるのではなく、「寓言十九、重言十七、巵言日出、和以天倪」(寓言篇)というように、一見、親しみやすいような文章として表現するのです。

読者は、その親しみやすい文章を親しみつつ読むわけです。そうすると、あるとき、「おや?」と疑問を持つ瞬間が訪れる。その疑問は、すなわち「逆説」「さかさま」が引き起こすものでしょう。それをかみ砕いていくと、まず、どうやら「文のまま」に受け取ってはならないのだな、と気づき、さらに進んで、「『荘子』による批判」の正体、そして「『荘子』の抱いていた違和感」へと行き着く、という算段です。

『荘子』がすべてそのように書かれているわけではありませんが、『荘子』という書物を貫く基本的なトーンはそのようなものであろうと思います。

それを応用したのが、私の敬愛する韓愈であり、これまた敬首和尚が「韓文は源(みなも)と『莊子』を祖として悟入す」と言ったのは、炯眼を具備した人ならでは、というところです。多くの人がこのような韓愈の読み方を知らないようなので、以前、「韓愈の排仏論と師道論」(麥谷邦夫編『三教交渉論叢』京都大学人文科学研究所、二〇〇五年)という論文を書いたこともあります。

三島が紹介した『葉隠』は、対談の記録という性質もあり、もちろん、『荘子』や韓文のように練りに練られた表現とは異質です。しかし、同様に世相や人間に対する強い批判の眼が存在しており、「常識やそれに基づく推論と、『葉隠』が説くことが矛盾する」「それに対する気づきを読者に促している」という点において、確かに『葉隠』は逆説の書と言えそうです。

これ以外にも、三島の読書力、すなわち書物を通じた洞察力には驚くことが多々ありました。いずれ、ご紹介したいものです。

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