「四郊」の支持者


讀書脞録
讀書脞録

「周の小学(子供のための学校)は国都の「西郊」にあった」、鄭玄はそう考えた。これが顧千里(1766-1835)の説です。

いや、「周の小学は国都の四方(東西南北)の郊外にあった」、鄭玄はそう考えたのだ。これが、段玉裁(1735-1815)の立場です。

『礼記』王制篇の「虞庠在國之西郊」の「西郊」は現行本の誤りで、「郊」が正しいという説は、段玉裁とも顧千里とも親交のあった孫志祖(1737-1801)が、その著『讀書脞録』にてはじめて唱えたものです。

讀書脞録七卷 續編四卷 清 孫志祖 撰 嘉慶四年 仁和孫氏 刊本 續編 嘉慶七年 刊 京大人文研 東方

くだんの考証は、『讀書脞録續編』に収められています。ということは、この考証は、嘉慶七年(1802)、孫氏が亡くなった翌年、世に問われたわけです。

孫氏が「四郊」を正しいと見る根拠は、以下の通りです。

  •  『北史』劉芳伝には、王制篇の経文が「虞庠在國之四郊」として引かれており、またそれについての詳しい説明が見える
  • 『礼記』祭義篇の鄭注には「四郊之虞庠」と見える。
  • 同じ祭義篇の正義に、梁の皇侃(488-545)の説を引いて「四郊皆有虞庠」という。

孫氏は、「孔穎達の見た『礼記』王制篇にはすでに誤字があり、孔穎達は誤字のある本によって解釈したので誤った」ものの、王制篇(及びその鄭注)の「西」字を「四」字に代えるだけで、すべての資料の整合性がとれる、と考えたわけです。

以上が「四郊」説を支持する学者の言い分です。現行本の経書の経文を変更するという大胆な試みですが、これもまた理屈の通る考え方ではありましょう。段玉裁はこの説をよしとしたのです。

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「西郊」の支持者


『礼記考異』
『礼記考異』

『礼記』祭義篇の「天子設四學,當入學而大子齒(天子は四つの学校を設置する。入学する時、太子は同級生と対等にふるまう)」。これに対して、鄭玄が次のような注をつけました。

四學謂周四郊之虞庠也。

「四学」というのは、周の四郊の虞庠のことである。

「虞庠」とは、周の時代に存在したという学校ですが、いったい、それはどこにあったのか?現行本の鄭注には「周郊之虞庠也」といい、「王城の四方、東西南北の郊外にあった」、と読めます。しかし顧千里(1766-1835)は、これは「周西郊之虞庠也」の誤りなのだ、「王城の西の郊外にあったのだ」と主張したのです。

顧氏は『礼記考異』に「顧千里『思適齋筆記』」なる書物を引いて、このように主張し、また「正義の解釈とも整合する」ものの、現行の正義についても「設置於西郊」とあるべきところが、「設置於郊」と改変されている、ともいっています。

顧千里はなぜそのように考えたのか?それは同じ『礼記』の王制篇に、「「虞庠」は王城の西郊にある」、とはっきりと書いてあるためです。

同じ『礼記』の王制篇に、虞・夏・殷・周の四代の「養老」制度を記述して、次のように言います。

有虞氏養國老於上庠,養庶老於下庠。夏后氏養國老於東序,養庶老於西序。殷人養國老於右學,養庶老於左學。周人養國老於東膠,養庶老於虞庠。虞庠在國之西郊。

有虞氏は国老を上庠にて養い、庶老を下庠にて養う。夏后氏は国老を東序にて養い、庶老を西序にて養う。殷人は国老を右学にて養い、庶老を左学にて養う。周人は国老を東膠にて養い、庶老を虞庠にて養う。虞庠は国の西郊にある。

これに対する鄭注は以下の通り。

皆學名也。異者,四代相變耳。或上西,或上東;或貴在國,或貴在郊。上庠、右學,大學也,在西郊。下庠、左學,小學也,在國中王宮之東。東序、東膠,亦大學,在國中王宮之東。西序、虞庠,亦小學也。西序在西郊,周立小學於西郊。膠之言糾也。庠之言養也。周之小學,為有虞氏之庠制,是以名庠。云其立鄉學亦如之。膠或作練。

(上庠・下庠・東序・西序・右学・左学・東膠・虞庠)というのは、いずれも学校の名称である。(虞・殷のように)西をたっとぶ場合も(夏・周のように)東をたっとぶ場合もある。また(夏・周のように)国都にあるのをたっとぶ場合も、(虞・殷のように)郊外にあるのをたっとぶ場合もある。(虞の)「上庠」、(殷の)「右学」は大学であり、西の郊外にあった。(虞の)「下庠」、(殷の)「左学」は小学であり、国都の王宮の東にあった。(夏の)「東序」、(周の)「東膠」も大学であり、国都の王宮の東にあった。(夏の)「西序」、(周の)「虞庠」も小学であり、「西序」は西の郊外にあり、周は(「虞庠」と呼ぶ)小学を西の郊外に立てたのである。

「膠」は正す、という意味。「庠」は養う、という意味。周の小学は虞の時代の「庠」を手本としたので、「庠」と呼んだ。(周では、大学・小学のほかに郷学も立てたが、)郷学を立てた時も同じく「庠」と呼んだ。「膠」は「練」と作る本もある。

この王制篇の経文と注とを素直に読むならば、周の小学である「虞庠」は、王城の西にあったことになります。

以上をまとめると、『礼記』祭義篇の鄭玄注の文字を改めずに読むと、「虞庠」という小学が、祭義篇では「国の四方の郊外(「四郊」)にあった」となるが、王制篇では「西の郊外(「西郊」)にあった」となり、両者は一致しません。

鄭玄の礼学体系にこのような矛盾があるとは、一般的には信じられていないので、どちらかに誤字がある、という理屈です。顧千里は「祭義が誤っている」と考えました。他の理由付けもたくさんありますが、もっとも基本的な根拠は、上記の王制篇です。

しかし反対に「祭義篇が正しく、王制篇が誤っているのだ」、と考える立場ももちろんあり得ます。それがまさに、段玉裁の立場でした。

校勘学者の正義


文献学において、「テクストをなるべく素直にそのまま読む」こと、それがよしとされています。「曲解や不要な深読みは御法度」というわけです。ましてや、出版にたずさわる人などが原文を恣意的に変更することは、学問上、許されません。中国学で言えば、経書などの古典については、原文のとりあつかいに特別の厳密性と慎重さが要求されてきました。

一般に、書物というものは、書かれた時代が古ければ古いほど、その「原意」を知りがたいものです。また、書いた人と読む人との環境が違えば違うほど、理解しがたくなってしまいます。

そういう「難解さ」もあり、また不注意によるものもあり、何百年何千年と伝えられている間に、古典の本文にはさまざまな種類の誤りが生じています。

ここに、「校勘学」という学問が必要となります。「誤脱を正して、なるべく原典に近い形にする」、そのための方法論が校勘学なのです。

しかし、「なるべく原典に近い形」といっても、何をもって原典とするのか?まさか、聖人とされる周公が書いた文章や、孔子が書写した経書が伝えられているわけではありません。伝えられているのは、いわゆる「出土文献」を含め、すべて後世の人が写した写本や、後世の人が出版した版本ばかりです(例外として、本人が青銅器に鋳込んだ銘文や石に刻んだ文があり、これは「金石学」という分野で取り扱われますが、これを「書物」とどうつなぐべきかについては、別に議論すべき問題があります)。これでは、「聖人の本意」を知ろうにも、明らかに限界があります。

そこで、多くの校勘学者は、「その書物が書かれた当時の姿」を復元することをいきなり目指すのではなく、古典の諸本のうち、「比較的、善い本(明らかな誤脱や問題が少ない本)」を選んで、それをそのまま出版したり、あるいはその明らかな誤りだけを訂正したり、また「校勘記」をつけて、読者の参考に資する、というような処置を行ってきました。

われわれが普通に接する古典の普及版は、そのような先人の努力のあらわれです。たとえば、岩波文庫に収められている中国古典の一冊を手に取れば、それがもとにした版本や校訂についての説明があるはずで、さらには、「なぜその版本をもとにしたのか」、「誤字がある場合にはどのような基準でそれを改めるのか」についても説明があります。

校勘学は、そのような「古典本文の取り扱いについての方法論」である、というわけですが、しかし、これが簡単ではありません。校勘学者は命がけで古典の誤字を指摘し、よりよい本文を提示しようとするものの、その学者の意見が常にみなの賛同を得るわけではありません。ここに激しい対立が生まれる原因があります。

先般ご紹介した、段玉裁(1735-1815)と顧千里(1766-1835)の論争は、その一例です。

『礼記』祭義篇の「天子設四學,當入學而大子齒」(天子は四つの学校を設置する。入学する時、太子は同級生と対等にふるまう)。これに対して、鄭玄が次のような注をつけました。

四學謂周四郊之虞庠也。「文王世子」曰:「行一物而三善皆得,唯世子而已,其齒於學之謂也」。

「四学」というのは、周の四郊の虞庠のことである。『礼記』文王世子篇にいう、「一つの行為を行って、三つの善が達成されるのは、太子の行いによるしかなく、これが学校で同級生と対等にふるまう意義である」と。

現行本に見える「四學謂周郊之虞庠也」という文句。これは「四學謂周西郊之虞庠也」の誤りなのだ、というのが、顧千里の主張です。これに対して、段玉裁が異を唱え、両者の間に埋めがたい溝が生まれたのです。

文献に関心のない人は、「なぜそんなことで喧嘩をするのだろう」と怪訝に思うかも知れません。しかし、文献を本当によく理解したいと願っている学者にとっては、この種の「一字の差」はたいへんに重い問題であるのです。

これは、単に段・顧両氏の性格の問題であるとか、両者の人間関係の問題であるとかいったものではありません。二人の文献学者が一緒にいれば、いつでも、どこでも起こりうる対立なのです。「誤りを退け、よりよい本文を提示したい」という正義感が強ければ強いほど、互いに自分の持する正義を主張し合い、対立は鮮明になるはずです(これは宗教間や宗派間の対立にも一脈通じます)。

文献学者というのは、大なり小なり、みなそれぞれ爆発物を抱えて生きているようなものであり、文献学者である以上、「一字の正しさを争うこと」は決して他人事ではありえません。

それゆえ、私はこの段氏・顧氏の論争を、他人事として傍観することができず、「これはいつか、我が身に降りかかることなのかもしれない」と、つい考えてしまうのです。

半樹斎文


顧千里(1766-1835)にとって同郷の親友であった、戈襄(あざなは小蓮)。先日ご紹介した、その「贈顧子游序」は名文でした。内閣文庫蔵本の写真版が人文研にあるので、さっそく見てみました。

半樹齋文四卷 清 戈襄 撰

昭和四十四年 本所 用東京内閣文庫藏嘉慶三年序刊本景照 京大人文研 東方

巻頭に四つの序が冠せられています。

  • 錢大昕「半樹齋文藁序」
  • 袁枚「序」(嘉慶元年五月)
  • 顧広圻「序」(嘉慶二年五月)
  • 范熙「序」(嘉慶三年冬)

錢大昕(1728-1804)と袁枚(1716-1797)とは、実に豪華な顔ぶれで、親友たる顧千里と范熙も並んで序を寄せています。戈襄にとって、『半樹齋文』の出版は、この上なく晴れがましいことであったはずです。

范熙の序に「近頃、広東の東部から帰郷して、戈襄がみずから刻した『半樹齋文』四巻を見た」云々と言っているので、その序文が書かれた嘉慶三年(1798)に、戈襄みずから『半樹齋文』四巻を出版した、と考えられます。そういう意味では、前掲の書誌に問題はありません。

ところが、私が感激した「贈顧子游序」は、李慶氏『顧千里研究』(p.82)によると、『半樹齋文』卷10に収録されている、とのこと。しかもこの一文は、出版の二年後、嘉慶五年に書かれた、と。これ如何に?

不審に思い、『販書偶記』に当たってみると、『半樹齋文』には、(1)嘉慶年間に出版された四巻本と、(2)道光七年に出版された十二巻本が存在する、とのこと。李慶氏のご覧になったのは、後者であったに違いありません。

身近に十二巻本がないので、残念ながら「贈顧子游序」の全文を読むことはできませんでしたが、四巻本もなかなか興味深いものです。ほとんどの文に対して錢大昕や顧千里が簡単な評を加えているのも面白く感ぜられます。錢氏が「以小喩大,亦有見地」「奇挈自成一子」と評した「雨中蚊」上下篇(乙卯年1795の作、巻三所収)の冒頭を紹介してみましょう。

 蚊行于夏,不晝而夜。其來無方,其去莫知。雖百計使之斃,弗能絶。譬如小人,盈千累萬,君子縱斥逐之,放殛之,終無以盡,而于是得時者,多出其技,以噆人噬人,如蚊之所為,則蚊者小人之師也。

思わず読んでしまいます。戈襄は古文の名手として名を馳せたらしく、袁枚も錢大昕も高く評価しています。錢大昕の「置之韓(愈)、歐(陽修)集中而不能辨」という「達兒小誄」(巻四)に対する評も、あながち大げさではなさそうです。

さすがは顧千里の親友。興味深い人物です。

「段玉裁年譜訂補」


段玉裁(1735-1815)の年譜として知られるのは、劉盼遂(1896-1966)の『段玉裁先生年譜』です。近年に出版された鍾敬華校点『経韵楼集』(上海古籍出版社、2008年)にも附録として収められ、いよいよ便利になりました。

ただ『段玉裁先生年譜』は、1936年に来薫閣書店から『段王學五種』の一つとして出版されたものであり、今となっては古すぎます。その後、陳師鴻森先生の「段玉裁年譜訂補」(『中央研究院歴史語言研究所集刊』第60本、第3分、1989年)が発表されました。陳師の仕事は緻密そのものであり、劉氏の年譜はすでに塗り替えられており、段玉裁の人生を概観する際、現在では必ず陳師「訂補」を参照すべき情況です。

その嘉慶十二年丁卯(1807)の條に見える、段氏と顧氏の関係を、一部だけ訳しておきます。この一端からも、「訂補」の充実ぶりが知られるはずです。

まず、蕭穆『敬孚類稿』に録する方東樹(1772-1851)の識語が次のように引かれています。

 『十三経注疏校勘記』が完成すると、阮元は段玉裁に送って覆校してもらった。段氏は顧千里が校勘した『詩経』部分が段氏の説を用いていながら、その名を冠していないのを見ると、怒った。

(そこで)顧氏が校勘した部分について、段氏は理不尽に退け、そのまま(修正稿を)広州に送り、凌という姓の出版関係者に版を作らせたのだが、このことは(責任者である)阮元も、(担当者である)顧千里も知らなかった。それゆえ現行の『詩(注疏校勘記)』だけは体裁を成していないのである。

この一件は当時も知る人が無く、後世の人も分からないだろう。乙酉(1825)の八月、厳杰(1763-1844)が教えてくれたことだ。おそらく、それ以後に出版された諸経の正義は厳杰が自分で杭州に(原稿を)持って行って、段玉裁とともに校勘したのであろう。

陳師はこれを「『毛詩校勘記』について、段玉裁が覆校の際、恣意的な操作を行った」証拠として挙げ、さらに、次のようにいいます。

 劉盼遂『年譜』に、「顧千里が段先生に代わって(『詩経』を)校刊し、段先生の(『詩経』「甘棠」に関する)一条を削除してしまい」云々という箇所は、(顧千里に対する)的も無いのに矢を放つような言いがかりであり、また、ものの順序を顛倒したものでもある。

わたくしが考えるに、段氏・顧氏が不和になったのは、顧千里が阮元のために『毛詩校勘記』を編纂した際、時にあからさまに時にこっそりと、段氏の『詩経小学』と『毛詩定本小箋』の説を顧氏が論駁した結果である。

段氏はもともと人と争って勝つのを好む人で、それに、顧氏が阮元のために『校勘記』を書いたのは段氏の推挽によったのに、果たして段氏が顧氏の校記を審査してみると、ことごとく自分の説に楯突いているのを見て、たいへんに怒り、「顧千里の校勘に対して、理不尽に退けた」のであって、(その怒りは)さらに顧千里が前年(嘉慶11年)、張敦仁のために刊行した『礼記考異』にも及んで、反駁を加えたのであり〔その後はさらにその翌年に顧千里が胡克家のために著した『文選考異』にまで及んだ〕、そうして両者の(『礼記』の)学制に関する論争が起きたのであって、これが両者の仲が険悪となった経緯である。以上のことは、劉盼遂『年譜』では丁寧に考察されていない。 

両者の是非については、張舜徽氏『清人文集別録』巻12に、「わたくしから見ると、二人の感情的対立は、確かに段氏の方に非があり、『経韵楼集』「黄紹武に返答する手紙」を読んでも、当時の与論として段氏を非難する者が多かったことが分かる」(345頁)といっており、わたくしとしてもそのように考える。別に専論を用意して詳論するので、ここではいちいち述べない。

少なくとも、現段階で段氏顧氏の論争をお書きになる人は、昨日紹介した汪紹楹氏「阮氏重刻宋本十三經注疏考」とあわせて、この陳師「訂補」をも、踏まえて欲しいものだと思いました。

陳鱣の徒労


經籍跋文
經籍跋文

『禮記』祭義には「天子設四學,當入學而大子齒(天子は四つの学校を設置する。入学する時、太子は同級生と対等にふるまう)」とあり、その鄭玄注に次のように言います。

四學謂周郊之虞庠也。「文王世子」曰:「行一物而三善皆得,唯世子而已。其齒於學之謂也」。

この鄭注に見える「四」郊は、「西」郊の誤りである。これが顧千里(1766-1835)の主張です。その説は、以下の『禮記考異』という書物に見えます。

禮記二十卷 坿釋文四卷 坿考異二卷 漢 鄭玄 注 唐 陸德明 撰釋文 清 張敦仁 撰考異  

嘉慶十一年 陽城張氏 用宋撫州本景刊  8册

『禮記考異』は、張敦仁(1755-1833)という人物が宋版の『禮記』を覆刻した際につけられた附録です。著者は張敦仁ということになっていますが、実際には彼に雇われた顧千里が書いたもの。そこに書かれた顧氏の説が、段玉裁(1735-1815)の逆鱗に触れたのです。

この激しい論争の内容については、段玉裁の『經韵樓集』巻11、12に収められる、段氏・顧氏の往復書簡からその大体をうかがうことができます。若松信爾氏「段玉裁と顧千里の論争に関する一考察」(『東洋文化』106号、2011年)に論争の紹介があります。

ここではその論争自体には立ち入らず、この一件が及ぼした波紋を少し紹介します。段玉裁と顧千里、両者の間を取り持ち、争いによって生じた不和を解消しようという人物がいました。蔵書家として知られた陳鱣(1753-1817)です。『經籍跋文』は陳氏が経書の善本を読んだ記録ですが、そのうち「宋本禮記注跋」において、論争の内容を紹介した上で、次のように言っています。

是書(即『禮記考異』)初出,段懋堂大令作「禮記四郊疏證」申孫(即孫志祖)黜顧(即顧千里)。…。兩家遂成水火,余欲為調人,而終莫能解。嘗彙其書為一冊,題曰『段顧校讎編』,洪稚存編修見之曰:「正可對『朱陸異同辨』」,相與一笑。頃讀撫本『禮記』,故并及之。(『經籍跋文』。『校經山房叢書』所収本)

自分が間に入って調停しようとしたが、結局うまくゆかなかった。両者の論争を集めて『段顧校讎編』という一冊も作った。それを取り出して洪稚存、すなわち洪亮吉(1746-1809)に見せたところ、「朱子と陸象山との論争をまとめた、趙仲全の『朱陸異同辨』とつりあうな」と言うので顔を見合わせて笑った、というわけです。

『禮記考異』が出版されたのが嘉慶11年(1806)、段玉裁が怒ったのが翌12年。洪亮吉は嘉慶14年に亡くなっていますから、その頃には、彼らの周囲ではもう笑い話になっていたのでしょう。とはいえ、段氏が嘉慶20年に亡くなった後も、顧千里はなお「わだかまり」をもっていたようですから、本人たちにとっては一生解消できなかった対立であり、笑い話どころではありません。

なお、陳鱣の作った『段顧校讎編』の行方は知れません。汪紹楹「阮氏重刻宋本十三經注疏考」(『文史』第3輯、1963年)は、阮元の出版した十三經注疏に関する最も基本的な研究ですが、特筆すべきは、「附録」として6頁に及ぶ「段顧校讎篇」がつけられていることです。まさに陳鱣の意を汲んだものと言えましょう。段・顧の論争を考える上でも必備の文献です。

「段氏が嘉慶20年に亡くなった後も、顧千里はなお「わだかまり」をもっていた」と先に書きましたが、これも汪氏が引いた顧千里「重刻宋本儀禮疏後序」(道光10年、1830)によるものです。