陳鱣の徒労


經籍跋文
經籍跋文

『禮記』祭義には「天子設四學,當入學而大子齒(天子は四つの学校を設置する。入学する時、太子は同級生と対等にふるまう)」とあり、その鄭玄注に次のように言います。

四學謂周郊之虞庠也。「文王世子」曰:「行一物而三善皆得,唯世子而已。其齒於學之謂也」。

この鄭注に見える「四」郊は、「西」郊の誤りである。これが顧千里(1766-1835)の主張です。その説は、以下の『禮記考異』という書物に見えます。

禮記二十卷 坿釋文四卷 坿考異二卷 漢 鄭玄 注 唐 陸德明 撰釋文 清 張敦仁 撰考異  

嘉慶十一年 陽城張氏 用宋撫州本景刊  8册

『禮記考異』は、張敦仁(1755-1833)という人物が宋版の『禮記』を覆刻した際につけられた附録です。著者は張敦仁ということになっていますが、実際には彼に雇われた顧千里が書いたもの。そこに書かれた顧氏の説が、段玉裁(1735-1815)の逆鱗に触れたのです。

この激しい論争の内容については、段玉裁の『經韵樓集』巻11、12に収められる、段氏・顧氏の往復書簡からその大体をうかがうことができます。若松信爾氏「段玉裁と顧千里の論争に関する一考察」(『東洋文化』106号、2011年)に論争の紹介があります。

ここではその論争自体には立ち入らず、この一件が及ぼした波紋を少し紹介します。段玉裁と顧千里、両者の間を取り持ち、争いによって生じた不和を解消しようという人物がいました。蔵書家として知られた陳鱣(1753-1817)です。『經籍跋文』は陳氏が経書の善本を読んだ記録ですが、そのうち「宋本禮記注跋」において、論争の内容を紹介した上で、次のように言っています。

是書(即『禮記考異』)初出,段懋堂大令作「禮記四郊疏證」申孫(即孫志祖)黜顧(即顧千里)。…。兩家遂成水火,余欲為調人,而終莫能解。嘗彙其書為一冊,題曰『段顧校讎編』,洪稚存編修見之曰:「正可對『朱陸異同辨』」,相與一笑。頃讀撫本『禮記』,故并及之。(『經籍跋文』。『校經山房叢書』所収本)

自分が間に入って調停しようとしたが、結局うまくゆかなかった。両者の論争を集めて『段顧校讎編』という一冊も作った。それを取り出して洪稚存、すなわち洪亮吉(1746-1809)に見せたところ、「朱子と陸象山との論争をまとめた、趙仲全の『朱陸異同辨』とつりあうな」と言うので顔を見合わせて笑った、というわけです。

『禮記考異』が出版されたのが嘉慶11年(1806)、段玉裁が怒ったのが翌12年。洪亮吉は嘉慶14年に亡くなっていますから、その頃には、彼らの周囲ではもう笑い話になっていたのでしょう。とはいえ、段氏が嘉慶20年に亡くなった後も、顧千里はなお「わだかまり」をもっていたようですから、本人たちにとっては一生解消できなかった対立であり、笑い話どころではありません。

なお、陳鱣の作った『段顧校讎編』の行方は知れません。汪紹楹「阮氏重刻宋本十三經注疏考」(『文史』第3輯、1963年)は、阮元の出版した十三經注疏に関する最も基本的な研究ですが、特筆すべきは、「附録」として6頁に及ぶ「段顧校讎篇」がつけられていることです。まさに陳鱣の意を汲んだものと言えましょう。段・顧の論争を考える上でも必備の文献です。

「段氏が嘉慶20年に亡くなった後も、顧千里はなお「わだかまり」をもっていた」と先に書きましたが、これも汪氏が引いた顧千里「重刻宋本儀禮疏後序」(道光10年、1830)によるものです。

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「陳鱣の徒労」への3件のフィードバック

  1. 古勝 隆一先生
                            2011年12月2日
    前略。
    ◎「顧千里はなお『わだかまり』をもっていた」。
    李慶氏の「顧氏年譜」には、1825・60歳、「千里游上海、因段右白而識陳璜、過其所居。陳氏請千里爲『古甎録』撰序」とあり、神田喜一郎先生の「顧氏年譜・補遺」には、1819・54歳、「定庵は千里の學問に餘程推服してゐたらしく」などとありました。白居易(772~846)、杜佑(735~812)、杜牧(803~852)の故事から、「わだかまり」は、まごこの代までと思っていましたが、そうでもないようです。また、「重刻宋本儀禮疏後序」や「書尚書撰異君奭後」、「書毛詩故訓傳定本後」、「書段氏注説文後」からは、「わだかまり」よりも顧氏の自信が窺われるように思います。
    藤田 吉秋・Eメール・toubokuji@nifty.com

  2. 藤田さま

    コメントありがとうございます。もちろん、顧千里は自分の議論に一貫して自信を持っていることは明らかで、まったく揺るぎませんが、やはりそれでもしつこく段玉裁を批判し続けることに、彼の「わだかまり」、釈然としない思い、を読み取った次第です。ただ、顧千里が段玉裁を仇敵のように憎んでいたとまでは思っておりません。

    龔自珍が顧千里を慕っているのは、私も年譜を読みながら面白いことだと感じました。 学退上

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