「段玉裁年譜訂補」


段玉裁(1735-1815)の年譜として知られるのは、劉盼遂(1896-1966)の『段玉裁先生年譜』です。近年に出版された鍾敬華校点『経韵楼集』(上海古籍出版社、2008年)にも附録として収められ、いよいよ便利になりました。

ただ『段玉裁先生年譜』は、1936年に来薫閣書店から『段王學五種』の一つとして出版されたものであり、今となっては古すぎます。その後、陳師鴻森先生の「段玉裁年譜訂補」(『中央研究院歴史語言研究所集刊』第60本、第3分、1989年)が発表されました。陳師の仕事は緻密そのものであり、劉氏の年譜はすでに塗り替えられており、段玉裁の人生を概観する際、現在では必ず陳師「訂補」を参照すべき情況です。

その嘉慶十二年丁卯(1807)の條に見える、段氏と顧氏の関係を、一部だけ訳しておきます。この一端からも、「訂補」の充実ぶりが知られるはずです。

まず、蕭穆『敬孚類稿』に録する方東樹(1772-1851)の識語が次のように引かれています。

 『十三経注疏校勘記』が完成すると、阮元は段玉裁に送って覆校してもらった。段氏は顧千里が校勘した『詩経』部分が段氏の説を用いていながら、その名を冠していないのを見ると、怒った。

(そこで)顧氏が校勘した部分について、段氏は理不尽に退け、そのまま(修正稿を)広州に送り、凌という姓の出版関係者に版を作らせたのだが、このことは(責任者である)阮元も、(担当者である)顧千里も知らなかった。それゆえ現行の『詩(注疏校勘記)』だけは体裁を成していないのである。

この一件は当時も知る人が無く、後世の人も分からないだろう。乙酉(1825)の八月、厳杰(1763-1844)が教えてくれたことだ。おそらく、それ以後に出版された諸経の正義は厳杰が自分で杭州に(原稿を)持って行って、段玉裁とともに校勘したのであろう。

陳師はこれを「『毛詩校勘記』について、段玉裁が覆校の際、恣意的な操作を行った」証拠として挙げ、さらに、次のようにいいます。

 劉盼遂『年譜』に、「顧千里が段先生に代わって(『詩経』を)校刊し、段先生の(『詩経』「甘棠」に関する)一条を削除してしまい」云々という箇所は、(顧千里に対する)的も無いのに矢を放つような言いがかりであり、また、ものの順序を顛倒したものでもある。

わたくしが考えるに、段氏・顧氏が不和になったのは、顧千里が阮元のために『毛詩校勘記』を編纂した際、時にあからさまに時にこっそりと、段氏の『詩経小学』と『毛詩定本小箋』の説を顧氏が論駁した結果である。

段氏はもともと人と争って勝つのを好む人で、それに、顧氏が阮元のために『校勘記』を書いたのは段氏の推挽によったのに、果たして段氏が顧氏の校記を審査してみると、ことごとく自分の説に楯突いているのを見て、たいへんに怒り、「顧千里の校勘に対して、理不尽に退けた」のであって、(その怒りは)さらに顧千里が前年(嘉慶11年)、張敦仁のために刊行した『礼記考異』にも及んで、反駁を加えたのであり〔その後はさらにその翌年に顧千里が胡克家のために著した『文選考異』にまで及んだ〕、そうして両者の(『礼記』の)学制に関する論争が起きたのであって、これが両者の仲が険悪となった経緯である。以上のことは、劉盼遂『年譜』では丁寧に考察されていない。 

両者の是非については、張舜徽氏『清人文集別録』巻12に、「わたくしから見ると、二人の感情的対立は、確かに段氏の方に非があり、『経韵楼集』「黄紹武に返答する手紙」を読んでも、当時の与論として段氏を非難する者が多かったことが分かる」(345頁)といっており、わたくしとしてもそのように考える。別に専論を用意して詳論するので、ここではいちいち述べない。

少なくとも、現段階で段氏顧氏の論争をお書きになる人は、昨日紹介した汪紹楹氏「阮氏重刻宋本十三經注疏考」とあわせて、この陳師「訂補」をも、踏まえて欲しいものだと思いました。

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