校勘学者の正義


文献学において、「テクストをなるべく素直にそのまま読む」こと、それがよしとされています。「曲解や不要な深読みは御法度」というわけです。ましてや、出版にたずさわる人などが原文を恣意的に変更することは、学問上、許されません。中国学で言えば、経書などの古典については、原文のとりあつかいに特別の厳密性と慎重さが要求されてきました。

一般に、書物というものは、書かれた時代が古ければ古いほど、その「原意」を知りがたいものです。また、書いた人と読む人との環境が違えば違うほど、理解しがたくなってしまいます。

そういう「難解さ」もあり、また不注意によるものもあり、何百年何千年と伝えられている間に、古典の本文にはさまざまな種類の誤りが生じています。

ここに、「校勘学」という学問が必要となります。「誤脱を正して、なるべく原典に近い形にする」、そのための方法論が校勘学なのです。

しかし、「なるべく原典に近い形」といっても、何をもって原典とするのか?まさか、聖人とされる周公が書いた文章や、孔子が書写した経書が伝えられているわけではありません。伝えられているのは、いわゆる「出土文献」を含め、すべて後世の人が写した写本や、後世の人が出版した版本ばかりです(例外として、本人が青銅器に鋳込んだ銘文や石に刻んだ文があり、これは「金石学」という分野で取り扱われますが、これを「書物」とどうつなぐべきかについては、別に議論すべき問題があります)。これでは、「聖人の本意」を知ろうにも、明らかに限界があります。

そこで、多くの校勘学者は、「その書物が書かれた当時の姿」を復元することをいきなり目指すのではなく、古典の諸本のうち、「比較的、善い本(明らかな誤脱や問題が少ない本)」を選んで、それをそのまま出版したり、あるいはその明らかな誤りだけを訂正したり、また「校勘記」をつけて、読者の参考に資する、というような処置を行ってきました。

われわれが普通に接する古典の普及版は、そのような先人の努力のあらわれです。たとえば、岩波文庫に収められている中国古典の一冊を手に取れば、それがもとにした版本や校訂についての説明があるはずで、さらには、「なぜその版本をもとにしたのか」、「誤字がある場合にはどのような基準でそれを改めるのか」についても説明があります。

校勘学は、そのような「古典本文の取り扱いについての方法論」である、というわけですが、しかし、これが簡単ではありません。校勘学者は命がけで古典の誤字を指摘し、よりよい本文を提示しようとするものの、その学者の意見が常にみなの賛同を得るわけではありません。ここに激しい対立が生まれる原因があります。

先般ご紹介した、段玉裁(1735-1815)と顧千里(1766-1835)の論争は、その一例です。

『礼記』祭義篇の「天子設四學,當入學而大子齒」(天子は四つの学校を設置する。入学する時、太子は同級生と対等にふるまう)。これに対して、鄭玄が次のような注をつけました。

四學謂周四郊之虞庠也。「文王世子」曰:「行一物而三善皆得,唯世子而已,其齒於學之謂也」。

「四学」というのは、周の四郊の虞庠のことである。『礼記』文王世子篇にいう、「一つの行為を行って、三つの善が達成されるのは、太子の行いによるしかなく、これが学校で同級生と対等にふるまう意義である」と。

現行本に見える「四學謂周郊之虞庠也」という文句。これは「四學謂周西郊之虞庠也」の誤りなのだ、というのが、顧千里の主張です。これに対して、段玉裁が異を唱え、両者の間に埋めがたい溝が生まれたのです。

文献に関心のない人は、「なぜそんなことで喧嘩をするのだろう」と怪訝に思うかも知れません。しかし、文献を本当によく理解したいと願っている学者にとっては、この種の「一字の差」はたいへんに重い問題であるのです。

これは、単に段・顧両氏の性格の問題であるとか、両者の人間関係の問題であるとかいったものではありません。二人の文献学者が一緒にいれば、いつでも、どこでも起こりうる対立なのです。「誤りを退け、よりよい本文を提示したい」という正義感が強ければ強いほど、互いに自分の持する正義を主張し合い、対立は鮮明になるはずです(これは宗教間や宗派間の対立にも一脈通じます)。

文献学者というのは、大なり小なり、みなそれぞれ爆発物を抱えて生きているようなものであり、文献学者である以上、「一字の正しさを争うこと」は決して他人事ではありえません。

それゆえ、私はこの段氏・顧氏の論争を、他人事として傍観することができず、「これはいつか、我が身に降りかかることなのかもしれない」と、つい考えてしまうのです。

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「校勘学者の正義」への2件のフィードバック

  1. 古勝 隆一先生
                            2011年12月16日
    前略。
    ◎「段玉裁(1735-1815)と顧千里(1766-1835)の論争」。
    「四郊」と「西郊」とに関する論争は、『礼記』祭義篇の鄭注を巡ってのもの、と言うよりは、『礼記』王制篇の「虞庠在國之西郊」を巡ってのもの、ではないでしょうか?阮氏校勘記も王制篇の方に集中しています。以下の2論文、とても私の手に負えませんが、王制篇の本文が定まれば、結論が出るような気がします。
    『顧千里集』(中華)巻5。「礼記祭義鄭注四学謂周四郊之虞庠也考異」。
    『経韻楼集』(上海)巻11。「礼記四郊小学疏証」。
    藤田 吉秋・Eメール・toubokuji@nifty.com

  2. 藤田さま

    コメントくださいまして、ありがとうございます。

    問題は、「王制と祭義の経注の整合性、特に鄭玄の礼学体系の整合性」にあると思っております。一度の記事では書ききれませんので、今後も数回に分けて書かせていただきます。

    平易に書くことが難しい話題であり、ちょっと、苦労しているところです。 少々、お待ちください。 古勝隆一上

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