「西郊」の支持者


『礼記考異』
『礼記考異』

『礼記』祭義篇の「天子設四學,當入學而大子齒(天子は四つの学校を設置する。入学する時、太子は同級生と対等にふるまう)」。これに対して、鄭玄が次のような注をつけました。

四學謂周四郊之虞庠也。

「四学」というのは、周の四郊の虞庠のことである。

「虞庠」とは、周の時代に存在したという学校ですが、いったい、それはどこにあったのか?現行本の鄭注には「周郊之虞庠也」といい、「王城の四方、東西南北の郊外にあった」、と読めます。しかし顧千里(1766-1835)は、これは「周西郊之虞庠也」の誤りなのだ、「王城の西の郊外にあったのだ」と主張したのです。

顧氏は『礼記考異』に「顧千里『思適齋筆記』」なる書物を引いて、このように主張し、また「正義の解釈とも整合する」ものの、現行の正義についても「設置於西郊」とあるべきところが、「設置於郊」と改変されている、ともいっています。

顧千里はなぜそのように考えたのか?それは同じ『礼記』の王制篇に、「「虞庠」は王城の西郊にある」、とはっきりと書いてあるためです。

同じ『礼記』の王制篇に、虞・夏・殷・周の四代の「養老」制度を記述して、次のように言います。

有虞氏養國老於上庠,養庶老於下庠。夏后氏養國老於東序,養庶老於西序。殷人養國老於右學,養庶老於左學。周人養國老於東膠,養庶老於虞庠。虞庠在國之西郊。

有虞氏は国老を上庠にて養い、庶老を下庠にて養う。夏后氏は国老を東序にて養い、庶老を西序にて養う。殷人は国老を右学にて養い、庶老を左学にて養う。周人は国老を東膠にて養い、庶老を虞庠にて養う。虞庠は国の西郊にある。

これに対する鄭注は以下の通り。

皆學名也。異者,四代相變耳。或上西,或上東;或貴在國,或貴在郊。上庠、右學,大學也,在西郊。下庠、左學,小學也,在國中王宮之東。東序、東膠,亦大學,在國中王宮之東。西序、虞庠,亦小學也。西序在西郊,周立小學於西郊。膠之言糾也。庠之言養也。周之小學,為有虞氏之庠制,是以名庠。云其立鄉學亦如之。膠或作練。

(上庠・下庠・東序・西序・右学・左学・東膠・虞庠)というのは、いずれも学校の名称である。(虞・殷のように)西をたっとぶ場合も(夏・周のように)東をたっとぶ場合もある。また(夏・周のように)国都にあるのをたっとぶ場合も、(虞・殷のように)郊外にあるのをたっとぶ場合もある。(虞の)「上庠」、(殷の)「右学」は大学であり、西の郊外にあった。(虞の)「下庠」、(殷の)「左学」は小学であり、国都の王宮の東にあった。(夏の)「東序」、(周の)「東膠」も大学であり、国都の王宮の東にあった。(夏の)「西序」、(周の)「虞庠」も小学であり、「西序」は西の郊外にあり、周は(「虞庠」と呼ぶ)小学を西の郊外に立てたのである。

「膠」は正す、という意味。「庠」は養う、という意味。周の小学は虞の時代の「庠」を手本としたので、「庠」と呼んだ。(周では、大学・小学のほかに郷学も立てたが、)郷学を立てた時も同じく「庠」と呼んだ。「膠」は「練」と作る本もある。

この王制篇の経文と注とを素直に読むならば、周の小学である「虞庠」は、王城の西にあったことになります。

以上をまとめると、『礼記』祭義篇の鄭玄注の文字を改めずに読むと、「虞庠」という小学が、祭義篇では「国の四方の郊外(「四郊」)にあった」となるが、王制篇では「西の郊外(「西郊」)にあった」となり、両者は一致しません。

鄭玄の礼学体系にこのような矛盾があるとは、一般的には信じられていないので、どちらかに誤字がある、という理屈です。顧千里は「祭義が誤っている」と考えました。他の理由付けもたくさんありますが、もっとも基本的な根拠は、上記の王制篇です。

しかし反対に「祭義篇が正しく、王制篇が誤っているのだ」、と考える立場ももちろんあり得ます。それがまさに、段玉裁の立場でした。

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「「西郊」の支持者」への2件のフィードバック

  1. 古勝 隆一先生
                            2011年12月23日
    前略。
    ◎「西郊」の支持者。
    漸入佳境。ところで、文献の考証からではなく、遺蹟の発掘により「西郊」か「四郊」かが決まる、という可能性は無いのでしょうか?
    藤田 吉秋・Eメール・toubokuji@nifty.com

  2. 藤田さま

    コメントくださいまして、ありがとうございます。遺蹟の発掘により、この問題が解決する可能性は、あると思います。王国維の「二重証拠法」の提唱以来、文献と考古遺物との整合を取る立場が、明確に現れ、しかも、現在の中国の学界では、この考え方が主流になっていると見受けます。

    一方、日本の学界では、今なお「考古は考古の方法論」「文献は文献の方法論」と、方法論上の区別を重んじているような印象を持っておりますし、私自身、文献学の立場を独立したものと考える方に固執しております。

    以前、中国の学者に、「西周の情況が考古発掘でここまで明らかになっているのに、日本の『尚書』研究がこれを無視するのは何故か?」と問われたことがあり、「日本の文献学は、文献学の方法論を墨守することこそ、学問的だと考えている」旨、答えたことがあります。これに対して、さらに、「では、二重証拠法は、どうなるのか?」と問われ、「文献学方法論と、二重証拠法的方法論とでは、やはり解明を目指す目標が異なるのではないか」と答えました。同じ文献を読みつつも、彼我の懸隔を感じた次第です。

    私自身を含め、清朝考証学に思い入れのある人が多い日本の中国文献学では、「文献自体で何かを論じたい」「自分は考古学者ではない」という意識が、比較的強いようです。

    しかし、日本の文献学者のうちでも、小南一郎先生は、常に二重証拠法的な考え方をもっていらっしゃるように思いますし、一概には申しあげられません。

    また、最近、日本の研究者も多くなっている「出土文献」は、性格上、考古遺物でもあり、文献でもありますから、これを主たる研究対象とする人は、おのずと二重証拠法的な思考をするのではないか、とも思っております。そういう意味では、文献学に固執する立場は、もはや傍流に落ちたのか、と思わないでもありません。

    以上、長々と所感を述べさせていただきました。では、失礼いたします。 学退上

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