松は棟梁にふさわしいのか


劉懿墓誌銘
劉懿墓誌銘

このところ、研究会にて北朝金石文の拓本を会読しています。今週は、劉懿(?-539)という将軍の墓誌銘を読みました。

「魏故使持節侍中驃騎大將軍太保太尉公録尚書事都督冀定瀛殷并涼汾晉建郟肆十一州諸軍事冀州刺史郟肆二州大中正第一酋長敷城縣開國公劉君墓誌銘」

ずいぶん長ったらしいタイトルですが、この人物は、『北齊書』卷19に「劉貴」としてその伝が見えます。

劉貴,秀容陽曲人也。父乾,世贈前將軍、肆州刺史。貴剛格有氣斷,歷爾朱榮府騎兵參軍。……。興和元年十一月卒。贈冀定并殷瀛五州軍事、太保、太尉公、錄尚書事、冀州刺史,諡曰忠武。齊受禪,詔祭告其墓。皇建中,配享高祖廟庭。

さて、その墓誌銘の中に、劉懿の性質を述べて、次のように言います。

君自解巾入仕,撫劔從戎,威略有聞,强毅著稱。其猶高松,有棟梁之質;類如金石,懷堅剛之性。
劉君は民間人のかぶる頭巾を脱いで出仕して以来、剣を手に取り従軍し、その威風は聞こえわたり、その強さは人々に称せられた。高い松の木のように、梁や棟になる素質を備え、金石のように、堅固な性質を持っていたのである。

「高くそびえる松の木のごとく、建築の梁や棟になれるような素質があった」、というのですが、この表現の典故が分かりません。この時期に書かれた墓誌銘は、たいていすべての語に典故があるものですから、調べて分かることも多いのですが、これについては、残念ながら究明できませんでした。

それどころか反対に、『世説新語』言語篇には「松は、梁や棟にならない」という意味のエピソードが見えています。

孫綽賦「遂初」,築室畎川,自言見止足之分。齋前種一株松,恒自手壅治之。高世遠時亦鄰居,語孫曰:「松樹子非不楚楚可憐,但永無棟梁用耳!」孫曰:「楓柳雖合抱,亦何所施?」
孫綽は「遂初賦」という作品を作り、畎川の地に居を構え、(老子の言う)「足るを知る弁え」を得たとみずから言っていた。書斎の前に一株の松を植え、いつも手ずから世話をしていた。当時、高柔(あざな世遠)もその隣に住んでおり、孫綽に向かって「松の木というのは楚々として愛すべきものでないこともないが、しかし結局は梁や棟には用いられないな」といった。孫綽は「楓や柳だって、両手で抱きかかえるほどの巨木になったって、何の役にも立たないじゃないか」といった。

これだけでは何が面白いのやら分かりませんが、余嘉錫『世説新語箋疏』の説明によると、孫綽(314-371)の祖父の名は、孫楚といいました。この時代、他人に向かってその人の親や祖先の実名を口にすることは、たいへんな失礼に当たるとされ、重く憚られていました。それを友人の気安さから、高柔は「楚楚可憐」と、わざと孫綽に冗談を言ったのです。

もちろん、孫綽の返答、「楓柳雖合抱」には、かならずや高柔の父祖の実名が含まれているはずです。そうでなければ、機知に富んだ会話を集める「言語」篇にこの逸話が収められるはずがありません。しかし残念ながら、高柔の父祖の名は知られていないので、余嘉錫も判断を保留しています。

話しをもとにもどしましょう。高柔の発言からすると、松の木は「棟梁」に用いられないとのこと。しかるに劉懿の墓誌銘では、反対のことを言っています。いったい、どういうことなのか、首をかしげたくなります。

ここからは私の想像なのですが、松材はヤニが出るうえに、節目も多いので、建物の梁などには向かないのではないでしょうか。劉懿墓誌銘は、他の部分についても、典故がよく分からないところがあり、どうにも釈然としません。「我々の学力が低すぎて分からないのか、それとも作者がいい加減に書いたのか」……。駢文を読む時には、いつも、典故の問題から離れられません。

松は棟梁にふさわしいのか の続きを読む

広告

『穀梁疏』の作者、楊士勛


潘重規「春秋公羊疏作者考」(『學術季刊』第4巻、第1期、1955年)という論文を読みました。潘氏(1908-2003)は黄侃(1886-1935)の弟子に当たる方で、特に敦煌学者として名の通った方です。

この論文自体、たいへんに興味深いのですが、論旨とは関係のないところで、面白い考証が含まれていることに気がつきました。『春秋穀梁傳疏』を書いた、楊士勛という人物については、『春秋正義』(五経正義の一つ)の共同執筆者で、唐代初期の学者である、という以外、何も伝記が知られていない人物ですが、その人は、隋の学者である劉炫の弟子であった、そのように潘氏は言うのです。

『春秋穀梁傳』莊公二十七年「衣裳之會,十有一」の疏に「先師劉炫」と見える、というのがその根拠です。

『穀梁傳』が「衣裳の会」と呼ぶ殿様同士の会合が、その頃、十一回ありました。当時、中国の春秋時代(前770-403)は群雄割拠の時代であり、各国が覇を競い合っていたので、お互い同盟関係を結んだり条約を作ったりするため、殿様同士の会合がしばしば開かれていました。その際、犠牲の血をすすりあって同盟を結ぶという、少し気味の悪い習慣があったのですが、この時期、斉国に管仲という立派な大臣がいたので、血をすすりあわずとも、会合を十一回も開くことができた(彼らにしたところで、血をすする行為はできれば避けたかったのでしょう)。そういう管仲にまつわる美談です。

その十一回の数え方に、漢代から南北朝時代にかけて、諸説あったらしいのです。しかも、それが『論語』憲問篇に見える「九合諸侯(九回、諸侯が会合した)」と同じことを言っている、とみなが考えたので、話がややこしくなりました。二回分、数が合わないわけです。その議論を紹介する楊士勛の『春秋穀梁傳疏』に、確かに「先師劉炫」の名が見えます。なるほど潘先生、よく読んでいらっしゃるな、と脱帽しました。

自分の先生を「劉炫」と実名で呼ぶのは、いかにも不自然ですが、たとえば、楊士勛がもともと「先師劉光伯(光伯は劉炫のあざな)」と書いたのを、後の人が「劉炫」と書き改めたのだ、と、そのように推測することもできましょう。

少なくとも私には、潘氏の言うところが正しいように思えてきました。

『穀梁疏』の作者、楊士勛 の続きを読む