『穀梁疏』の作者、楊士勛


潘重規「春秋公羊疏作者考」(『學術季刊』第4巻、第1期、1955年)という論文を読みました。潘氏(1908-2003)は黄侃(1886-1935)の弟子に当たる方で、特に敦煌学者として名の通った方です。

この論文自体、たいへんに興味深いのですが、論旨とは関係のないところで、面白い考証が含まれていることに気がつきました。『春秋穀梁傳疏』を書いた、楊士勛という人物については、『春秋正義』(五経正義の一つ)の共同執筆者で、唐代初期の学者である、という以外、何も伝記が知られていない人物ですが、その人は、隋の学者である劉炫の弟子であった、そのように潘氏は言うのです。

『春秋穀梁傳』莊公二十七年「衣裳之會,十有一」の疏に「先師劉炫」と見える、というのがその根拠です。

『穀梁傳』が「衣裳の会」と呼ぶ殿様同士の会合が、その頃、十一回ありました。当時、中国の春秋時代(前770-403)は群雄割拠の時代であり、各国が覇を競い合っていたので、お互い同盟関係を結んだり条約を作ったりするため、殿様同士の会合がしばしば開かれていました。その際、犠牲の血をすすりあって同盟を結ぶという、少し気味の悪い習慣があったのですが、この時期、斉国に管仲という立派な大臣がいたので、血をすすりあわずとも、会合を十一回も開くことができた(彼らにしたところで、血をすする行為はできれば避けたかったのでしょう)。そういう管仲にまつわる美談です。

その十一回の数え方に、漢代から南北朝時代にかけて、諸説あったらしいのです。しかも、それが『論語』憲問篇に見える「九合諸侯(九回、諸侯が会合した)」と同じことを言っている、とみなが考えたので、話がややこしくなりました。二回分、数が合わないわけです。その議論を紹介する楊士勛の『春秋穀梁傳疏』に、確かに「先師劉炫」の名が見えます。なるほど潘先生、よく読んでいらっしゃるな、と脱帽しました。

自分の先生を「劉炫」と実名で呼ぶのは、いかにも不自然ですが、たとえば、楊士勛がもともと「先師劉光伯(光伯は劉炫のあざな)」と書いたのを、後の人が「劉炫」と書き改めたのだ、と、そのように推測することもできましょう。

少なくとも私には、潘氏の言うところが正しいように思えてきました。

【資料】 以下、原文を掲げておきます。

『春秋穀梁傳』莊公二十七年:「夏六月,公會齊侯、宋公、陳侯、鄭伯,同盟于幽」。

傳:「衣裳之會,十有一」。

范寧注:「十三年會北杏,十四年會鄄,十五年又會鄄,十六年會幽,二十七年又會幽,僖元年會檉,二年會貫,三年會陽穀,五年會首戴,七年會寧毌,九年會葵丘。

楊士勛疏:「衣裳之會,十有一者,謂從北杏至葵丘也。『論語』稱「九合諸侯」者,貫與陽穀二會,管仲不欲,故去之,自外唯九合也。……。鄭玄『釋廢疾』云「自柯之明年,葵丘以前,去貫與陽穀,固已九合矣」,則鄭意不數北杏自外,與范注同也。不數北杏,所以得九合諸侯者,先師所說不同。或云:「去貫與陽穀,與猶數也」。言數陽穀,故得為九也。或云:「葵丘會、盟異時,故分為二」。或取公子結與齊桓宋公盟為九。故先師劉炫難之云:「貫與陽穀,並非管仲之功。何得去貫而數陽穀也。若以葵丘之盟,盟、會異時而數為二,則首戴之會,亦可為兩也。離會不數鄄盟去公子結,則唯有齊、宋二國之會,安得數之」。二三之說,並無憑據。故劉氏數洮會為九,以數洮會為九兵車之會,又少其一,故劉以傳誤解之,當云「兵車之會三」。案洮會下亦無云兵車之會,則傳文不應兩處皆誤,是亦可疑也」。

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