松は棟梁にふさわしいのか


劉懿墓誌銘
劉懿墓誌銘

このところ、研究会にて北朝金石文の拓本を会読しています。今週は、劉懿(?-539)という将軍の墓誌銘を読みました。

「魏故使持節侍中驃騎大將軍太保太尉公録尚書事都督冀定瀛殷并涼汾晉建郟肆十一州諸軍事冀州刺史郟肆二州大中正第一酋長敷城縣開國公劉君墓誌銘」

ずいぶん長ったらしいタイトルですが、この人物は、『北齊書』卷19に「劉貴」としてその伝が見えます。

劉貴,秀容陽曲人也。父乾,世贈前將軍、肆州刺史。貴剛格有氣斷,歷爾朱榮府騎兵參軍。……。興和元年十一月卒。贈冀定并殷瀛五州軍事、太保、太尉公、錄尚書事、冀州刺史,諡曰忠武。齊受禪,詔祭告其墓。皇建中,配享高祖廟庭。

さて、その墓誌銘の中に、劉懿の性質を述べて、次のように言います。

君自解巾入仕,撫劔從戎,威略有聞,强毅著稱。其猶高松,有棟梁之質;類如金石,懷堅剛之性。
劉君は民間人のかぶる頭巾を脱いで出仕して以来、剣を手に取り従軍し、その威風は聞こえわたり、その強さは人々に称せられた。高い松の木のように、梁や棟になる素質を備え、金石のように、堅固な性質を持っていたのである。

「高くそびえる松の木のごとく、建築の梁や棟になれるような素質があった」、というのですが、この表現の典故が分かりません。この時期に書かれた墓誌銘は、たいていすべての語に典故があるものですから、調べて分かることも多いのですが、これについては、残念ながら究明できませんでした。

それどころか反対に、『世説新語』言語篇には「松は、梁や棟にならない」という意味のエピソードが見えています。

孫綽賦「遂初」,築室畎川,自言見止足之分。齋前種一株松,恒自手壅治之。高世遠時亦鄰居,語孫曰:「松樹子非不楚楚可憐,但永無棟梁用耳!」孫曰:「楓柳雖合抱,亦何所施?」
孫綽は「遂初賦」という作品を作り、畎川の地に居を構え、(老子の言う)「足るを知る弁え」を得たとみずから言っていた。書斎の前に一株の松を植え、いつも手ずから世話をしていた。当時、高柔(あざな世遠)もその隣に住んでおり、孫綽に向かって「松の木というのは楚々として愛すべきものでないこともないが、しかし結局は梁や棟には用いられないな」といった。孫綽は「楓や柳だって、両手で抱きかかえるほどの巨木になったって、何の役にも立たないじゃないか」といった。

これだけでは何が面白いのやら分かりませんが、余嘉錫『世説新語箋疏』の説明によると、孫綽(314-371)の祖父の名は、孫楚といいました。この時代、他人に向かってその人の親や祖先の実名を口にすることは、たいへんな失礼に当たるとされ、重く憚られていました。それを友人の気安さから、高柔は「楚楚可憐」と、わざと孫綽に冗談を言ったのです。

もちろん、孫綽の返答、「楓柳雖合抱」には、かならずや高柔の父祖の実名が含まれているはずです。そうでなければ、機知に富んだ会話を集める「言語」篇にこの逸話が収められるはずがありません。しかし残念ながら、高柔の父祖の名は知られていないので、余嘉錫も判断を保留しています。

話しをもとにもどしましょう。高柔の発言からすると、松の木は「棟梁」に用いられないとのこと。しかるに劉懿の墓誌銘では、反対のことを言っています。いったい、どういうことなのか、首をかしげたくなります。

ここからは私の想像なのですが、松材はヤニが出るうえに、節目も多いので、建物の梁などには向かないのではないでしょうか。劉懿墓誌銘は、他の部分についても、典故がよく分からないところがあり、どうにも釈然としません。「我々の学力が低すぎて分からないのか、それとも作者がいい加減に書いたのか」……。駢文を読む時には、いつも、典故の問題から離れられません。

【補】「墓誌銘」というのは、墓室の中に収納するものであって、人に見せる「碑」などとは性質が異なります。そういう意味では、「墓誌銘」を墓から取り出し、興味津々で読み解くなどという行為は、あまり趣味のよいことでも、褒められたことでもないようです。ましてや、「典故が合わない」などと文句を言うのは、まったくお門違いと称すべきなのかもしれません。

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「松は棟梁にふさわしいのか」への25件のフィードバック

  1.  ブログいつも興味深く読ませていただいております。
    「松は棟梁たりうるのか」を拝読しました。担当された先生のレジメでは、この部分『世説新語』(賞誉)の「庾子嵩目和嶠、森森如千丈松、雖磊砢有節目、施之大厦、有棟梁之用」を典拠となさっておられました。私もこれが典拠かなと思ったのですが・・・。
     この部分でも<見栄えは悪いけれど>という、松の建材としてのマイナスが言及されています。おっしゃるように松は世を支えるとかリーダーのイメージより、「澗底孤松」のような、不遇とか孤独といったイメージを導く物として言及されていることが多いように思います。
     この部分、隔句対のようですが、平仄は整っていません。この作品は官職の羅列の間に、墨城必携のよ範文集から引っ張り出してきたような対句がはめ込まれているように感じられます(先生が問題にされている部分が、まさにそうです)。でも、平仄はほとんど整っていません。この研究班は、私は駢文発展史というか、駢文という文体の浸透を見ることが出来るのではないかと思って、作品を眺めているのですが、出典の問題をはじめ、困惑することの方が多いです。駢文は注がないと(あっても)、よくわからないと痛感するばかりです。いつもは一読者として、いろいろ教えていただいているのですが、今回はお隣に座ったせいか、先生の熱気に感染してしまったようです。以上「読書記」に対する私の散漫な読書記でした。

  2. こんにちは、コメントおよせくださいまして、ありがとうございます。

    ご指摘くださった、『世説新語』賞誉篇「庾子嵩目和嶠、森森如千丈松、雖磊砢有節目、施之大厦、有棟梁之用」を挙げなかったのは、アンフェアでした。「墓誌銘」を書いた人は、これを踏まえたのかも知れないと思いつつも、一般的に人をほめる時には用いがたい典故であるように感じられたので、自分でも少し調べてみた次第です。

    平仄は、東魏くらいのものでも、かなり厳密に合わせているものがありましたね(どれであったのか、失念)。この墓誌銘などは、合わせる気がまるでなさそうです。いやはや、定式化しているように見える、同じ北朝の金石文でも、典故の選択、修辞から、文字の書きぶりに至るまで、相当な変化があるものですね。

    典故の問題は、おっしゃるとおり、困惑するばかりですが、本読みにはこれからも長くお付き合いいただくことになると思いますので、いろいろとご教示くださいませ。駢文の専門家のご指摘は、いつでも勉強になります。

    学退敬上

  3. 古勝 隆一先生
                            2012年2月17日
    前略。
    ◎「建物の梁などには向かない」。
    社寺建築会社の専務に確認したところ、松は強度・耐久性ともに優れ、日本の古建築の梁は殆ど松だそうです。
    ◎「墓室の中に収納するものであって」。
    韓愈の文集には、「人に見せる『碑』」と一緒に「墓誌銘」が多数載せられています。時代の変化でしょうか?ところで、この「墓誌銘」の撰者は?
    藤田 吉秋・Eメール・toubokuji@nifty.com

    1. 藤田さま

      コメントくださいまして、ありがとうございます。

      私も、「その道の方」に確認してみたかったのですが、伝手がなかったものですから、今回のご教示にはまことに感謝いたしております。そうですか、少なくとも昔の日本では松を梁に使うのですね。

      碑銘と墓誌銘の相違については、『陔余叢考』巻32「碑表、誌銘之別」などが参考になるかと存じます。王勃の集には墓誌銘が一つもないようです。ただ、『芸文類聚』にすでに墓誌銘がいくつか抜粋されているようですし、唐代初期くらいには、ようやく文学作品として墓誌銘を読むような習慣があったのかもしれません。

      くだんの墓誌銘の撰者は未詳です。このところ読んでいる同類の北朝墓誌銘は、ほとんど撰者の名を記していません。依頼する側も、「名家に執筆を依頼して、その作家の別集に入れてもらう」という意識はなかったのではないか、と想像しております。

      学退上

  4. 古勝 隆一先生
                            2012年2月19日
    追伸。
    ◎「松樹子、非不楚楚可憐、但永無棟梁用耳」。
    ◎「楓柳、雖合抱、亦何所施」。

    「松樹子」は、松の若木でしょう。杜詩に例がありました。

    憑韋少府班、覓松樹子栽・杜甫
    ① 落落 出群 非欅柳
    ② 青青 不朽 豈楊梅
    ③ 欲存 老蓋 千年意
    ④ 爲覓 霜根 數寸栽

    『世説新語』言語篇は、

    ◎「松の若木は、楚楚として可愛らしいけれども、まだ当分、『棟梁』の役に立たないな」。
    ◎「(松は、成長は遅くとも千年経てば棟梁の用を為す。)楓柳は、年月が経って一抱え程に成っても、何の役に立つんだ」。

    と松と楓柳(「楓」と「柳」とではなく、2字で木名)とを対比して言っているから面白いのだと思います。余嘉錫先生の説明は穿鑿に過ぎるのではないでしょうか。
    松の成長が遅いことは、王安石の詩に例があります。

    酬王濬賢良松泉二詩(七古)・王 安石
    ① 人能 百歲 自古稀
    ② 松得 千年 未爲老
    ③ 我移 兩松 苦不早
    ④ 豈望見 渠身 合抱

    ◎『漢語連綿詞詞典』P.130
    「楚楚、可愛的様子」。『世説新語・言語』、・・・。
    ◎『漢語大詞典』4-P.1158
    「楚楚可憐、形容形態或体態嬌美可愛」。『世説新語・言語』、・・・。

    藤田 吉秋・Eメール・toubokuji@nifty.com

  5. 藤田さま

    コメントに感謝いたします。たいへん興味深いお説、ありがとうございます。

    クリアな解釈に感服いたしますが、以下の点につきまして、もし証拠をお持ちでしたら、ご教示くださいませ。

    1. 「松樹子」は、松の若木とのお説ですが、『漢語大詞典』には「樹子」は「即樹」と釈してあります。実質的には若木に相当するのだろうと納得しましたが、語義的にはどうなのでしょうか。

    2. 「楓柳」はカエデとヤナギではない、とのことですが、そうであるとすると、何の樹木に相当するのでしょうか。『漢語大詞典』には「楓柳」として、『本草綱目』が引いてありますが、これと同じ植物でしょうか。あるいは中国で「楓楊」と呼ばれている植物にあたるのでしょうか。

    3. 「永」は、直下の否定副詞「無」を強めていると読みましたが、「当分」の解釈は導けますか。用例をご存じでしたら、ご教示ください。

    なるほど、松の生長が遅いことを言っているというのは、確かにその通りとお見受けしました。しかしながら、孫綽の祖父が孫楚である以上、余嘉錫の解釈は決して穿鑿ではないと思っております。

    いろいろとお教えいただければ幸いです。

    学退上

  6. 古勝 隆一先生
                            2012年2月20日
    拝復。
    ◎『陔餘叢考』巻32「碑表、誌銘之別」。
    以上、確認しました。
    ◎「名家に執筆を依頼して、その作家の別集に入れてもらう」という意識。
    趙翼曰、「古人於碑誌之文不輕作」。東坡居士は、依頼されても「所辭者多矣」と言っています。権徳輿や韓愈に墓誌銘を依頼した人々が果たして謂われるような「意識」を持っていたでしょうか。撰者の方も諛墓などとは以ての外、心を込めて撰んだのだと思います。

    ◎1. 「松樹子」2. 「楓柳」3. 「永」
    1、杜詩は、前後皆対の絶句ですから、「老蓋」と「霜根」とが対仗を成しています。「老蓋」は老いた笠松、「霜根」は後凋の若松であろうと思います。語構成は、「松樹・子」か、と愚考いたします。
    2、「楓柳」は、『漢語大詞典』を引きました。どのような木かは分かりませんが、「楓」と「柳」とではない、と思います。
    3、『世説新語』言語篇は、『晋書』と『芸文類聚』とに異文がありました。

    *『晋書』巻56
    所居齋前、種一株松、恒自守護。
    隣人謂之曰、「樹子、非不楚楚可憐、但恐永無棟梁日耳」。
    綽答曰、「楓柳、雖復合抱、亦何所施邪」。
    *『芸文類聚』巻88
    孫興公、前種一株松、枝高勢遠。
    隣居曰、「松樹、非不楚楚可憐、但恐無棟梁用耳」。
    「楓柳、雖合抱、亦何所施」。○本條『太平御覽』九百五十三作『世説』。

    以上、ともに、「高世遠(注:世遠、高柔字也)」は出て来ません。松は若木の中は、「枝高勢遠」というほど勢いのある木です。しかし、とても棟梁とは成らない。永い日月を経てやっと棟梁の任に堪えるということを「但恐永無棟梁日耳」と言ったのだと思います。「永=当分」の用例は探しましたが、まだ辿り着けません。これ、というのがありましたらお知らせします。
    松は百木の長として類書・木部の筆頭に掲げられています。苻載(760~?)・「植松論」にも永い年月を経て「可以柱明堂而棟大廈也」と讃えられています。

    「植松論」・『全芳備祖集』木部「松」。『全唐文』巻690
    苻 載(760~?)
    楚國主人、嗜材搴異、有植美松於庭者、培沃土、灌甘澤、根柢深固、柯葉暢茂。居三十年、起盈尺、挺于累丈、如筳筋、大於拱抱、高姿杰然、若陵重雰。
    主人方凝睇結意曰、「是可采之矣」。將行斧焉。
    客有遇之者曰、「噫其甚也。是未有戛雲之姿、有構廈之材、繩墨太速、恐夭其理。今植于庭除之閒、克耳目之玩、尚見狎近。氣色不振、若徙于崧岱之閒、沆瀣之華注于內、日月之光薄于外、祥鸞嗷嗷戲其上、流泉湯湯鳴其下、岩岫重複、漠然清淨、靈風四起、聲掩竽籟。是時也、當境勝神旺、拔地千丈、根實黃泉、枝摩青天、則可以柱明堂而棟大廈也。豈遐曠之旨、舍此而取其榱・桷・棼・橑哉」。
    主人曰、「客言雖闊而岸然、余終能大之矣」。
    藤田 吉秋・Eメール・toubokuji@nifty.com

    1. 藤田さま

      種々ご教示くださいまして、まことにありがとうございます。今回は、小さな話題から出発しましたが、おかげさまで、いろいろとものを考える糸口を得ることができました。

      また、「植松論」、たいへんに興味深い作品です。読んだみたいと思います。これにつきましても、感謝申し上げます。

      学退上

  7. 古勝 隆一先生
                            2012年2月21日
    追伸。
    ◎「永」の用法。
    「しかし結局は梁や棟には用いられないな」ならば「但終無棟梁用耳」とするのではないでしょうか。「但永無棟梁用耳」の「永」は、所掲の拓本の「降年不永、奄從晨露」の「永」と同じく、「時間の長いことを指す」という通常の用法と見て良いと思います。
    藤田 吉秋・Eメール・toubokuji@nifty.com

  8. 学退さま
     いつも興味深く拝見させて頂いております。
     墓誌銘が韓愈の文集に多く見えるということについて。『新唐書』巻一百五十は韓愈の弟子である劉叉の伝記に「後以爭語不能下賓客、因持愈金數斤去、曰:「此諛墓中人得耳、不若與劉君為壽。」愈不能止。」とあり、この逸話は相当に有名で、顧炎武『日知録』巻十九「作文潤筆」には、文人の「潤筆」の例をいくつか挙げて、「文人受[貝+求]、豈独韓退之諛墓金哉」と言っており、文人がお金で墓誌を脚色したと言えば「韓愈」という前提があるが如くです。
     ブログの本論とは関係ないかとは思いましたが、あるいは藤田さまのコメントの、韓愈には墓誌銘が多いということは、韓愈であるが故の理由もあるのかな、などと考え、もしさらなるご教示を頂ければと、コメントさせて頂いた次第です。

  9. Chunxueさま、コメントありがとうございます。

    おっしゃるとおり、「諛墓」といえば韓愈、それはどの辞書にも見えていることですが、「相当に有名で」とお書きになると、読みようによっては「こんな有名なことも知らないのか」と読み手を揶揄しているようにも受け取られるおそれがありますし、また、藤田さまほどの方がこれをご存じないとも考えにくいのではないでしょうか?気にかかったので、一言申しあげました。

    藤田さまのご呈示になった問題は、「人に見せるための碑銘」と、「墓に収納する墓誌銘」とが、韓愈の文集の中では特段の区別なく並んでいる、という現象の意味を問うものであったと思います。さらに私なりに問題を追うなら、歴史的に言って、碑銘の方はもともと読み物として書かれたが、墓誌銘の方はそうでなかった。それが韓愈に至って合流しているように見えるのはなぜか。こういうことになります。

    また「諛墓」の故事とは、「韓愈が墓主にこびたような碑銘を書くことによって潤筆料を得た」ことと、私は理解してきました。つまり、韓愈は碑銘を書いて利益を得たのであって、墓誌銘を書いて得たのではない、と。碑銘と墓誌銘とでは、格式にしても(唐代では三品官以上でなければ、死後の立碑はできなかったわけですし)、石の立派さにしても、すべてにおいて差があります。ですから、利益を得たというのなら、主には指すのは碑銘の方の執筆料のことだろうと想像してきました。『辞源』にも「碑銘」としています。もしそれに対する反証がありましたら、ぜひともご教示ください。

    藤田さまがさらりと示された問題は、私にとっては興味深いものでした。墓誌銘が『芸文類聚』に抜粋されている以上、文学として読まれた起源が古いのは確かでしょうが、その後の展開がどういうものであったのか。あるいは墓誌銘を作家に依頼する人が、作家の文集に故人の伝記が収録されることをねらうことも、後には生じたのではないか(碑の場合は、ずっと古くからそういう思惑はあったと思います)。そういう問題について、今後、発見があれば書いてみたいと思っております。

    学退上

  10. 古勝 隆一先生
                            2012年2月21日
    前略。
    ◎『辞源』にも「碑銘」。
    「反証」ではありません。『唐代文学百科辞典』には、「墓誌銘:文体名。一称『葬誌』、『埋銘』、『壙誌』等。墓碑文的一種、是埋于地下的墓碑」とし、「唐代伝世的墓誌銘、数量甚多、名篇佳作也不少、具有頗高文学価値和史料価値、当然也有一些“諛墓之文”」と「諛墓之文」を「墓誌銘」に関わるものとしています。
    「諛墓」について、以前こんな文章を書いたことがあります。

    碑文の作者にとって最も心外なのは己の文章が「諛墓の文」と言われることであろう。「諛墓」の字は『新唐書』韓愈伝に付載された劉叉の伝に見える。この劉叉という人はもと無頼の徒であって、今は韓愈の食客となっている。詩の腕前はたいしたもので、盧仝、孟郊を凌ぐ程であったという。しかし、人と相容れない性格であったせいか、韓愈門下の賓客と論争して敗れ、それが原因で、もともと素行の悪い男だから韓愈の金を盗んで立ち去る。その時の捨てぜりふが、
     此諛墓中人得耳。不若與劉君爲壽。
    である。「この金は墓の中の人に諛って手に入れた金だから、俺の飲み代にした方がいい」と言うのである。ひどい奴がいたものだが、韓愈も仕方なしに見逃したという。その通り、と思ったのかも知れない。『新しい漢文教育』第25号(1997年)

     藤田 吉秋・Eメール・toubokuji@nifty.com

    1. 藤田さま

      「諛墓」についても、『新しい漢文教育』に、お書きになっていたのですね。気がつかず、まことに失礼いたしました。

      碑銘や墓誌銘を依頼する側と、書き手、そして一般読者との関係につきましては、今後少し留意してみたいと思っております。

      学退上

  11. 学退さま
     ブログが更新されます数日前に、たまたま『日知録』のあの箇所を読んでいまして、その後に「韓愈の文集に…」ということで、そういえば、と思い、もしかすると韓愈であることに意味があるのかご教示願いたいという気持ちで、コメントさせて頂いた次第でした。
     しかしそもそも「諛墓」の故事について、今まで漠然と碑銘と墓誌銘について明確に区分する意識を持たずにいたことに、思い至りました。もう一度整理して臨みたいと思います。ありがとうございました。

  12. Chunxueさま

    韓愈については、少し思い入れがあるので、つい神経質になってしまいました。思い返せば、このブログでは韓愈のことをほとんど何も書いていないので、いずれ何か書かせてもらいます。

    コメント、ありがとうございました。

    学退上

  13. 古勝 隆一先生
                            2012年2月22日
    前略。
    ◎「韓愈については、少し思い入れがある」。
    『日知録』巻19「作文潤筆」に、

    劉禹錫「祭韓愈文」曰、「公鼎侯碑、志隧表阡、一字之價、輦金如山」。可謂發露眞贓者矣。

    と言っています。この顧氏の評語「可謂發露眞贓者矣」について、丁晏氏の『日知録校正』には、

    昌黎廉於取財如此。顧氏乃摘祭文誇張聲價之辭以爲「發露眞贓」、過矣。

    と言い、瞿蛻園氏の『劉禹錫集箋証』には、

    禹錫所言與劉叉所譏、誠非虚語。

    とありました。丁氏が正しく、瞿氏は間違っていると思います。退之に学ぶ先生のご意見は?
    また、顧氏の引かなかった史料ふたつを見ることが出来ました。『唐律疏議』と『後漢書』。

    Ⅰ、『唐律疏議』巻11・職制
    諸在官長吏、實無政迹、輒立碑者、徒一年。若遣人妄稱己善、申請於上者、杖一百。有贓重者、坐贓論。受遣者、各減一等。雖有政迹、而自遣者亦同。
    Ⅱ、『後漢書』巻68・郭泰伝
    明年(169)春、卒于家。時年四十二。四方之士千餘人、皆來會葬。同志者乃共刻石立碑、蔡邕爲其文。既而謂涿郡盧植曰、「吾爲碑銘多矣。皆有慙德。唯郭有道(『文選』巻58・[郭有道碑文])無愧色耳」。

    唐律はどれほどの適用があったのでしょうか。蔡邕の発言と顧氏の「文人受賕」とは趣旨が違うように思います。
    藤田 吉秋・Eメール・toubokuji@nifty.com

  14. 藤田さま

    ありがとうございました。劉禹錫の「一字之價,輦金如山」は、私は執筆料のことではなく、いわゆる「一字千金」の意味と理解しておりました。

    ただ、韓愈が無料で碑銘や墓誌銘を書いたとも考えていません。

    唐律の職制律の条文は、『唐律疏議箋解』(p.847)によると、いわゆる「徳政碑」のことで、その規定は『大唐六典』巻4「禮部郎中員外郎」条の注に見えるとのことです。また、『箋解』では、その実例として『冊府元亀』巻700「牧守部貪黷」に載せる李彤の例を挙げています。

    学退上

  15. 古勝 隆一先生
                            2012年2月23日
    拝復。
    丁寧なるご教示に対し、深謝申し上げます。
    白楽天の「秦中吟・立碑」、「新楽府・青石」を見ると、かなり頌徳碑・徳政碑には厳しい意見が見られます。
    先日、日本橋・三井記念美術館にて金沢文庫本『白氏文集』巻38「韓愈比部郎中・史館修撰制」を見ました。丹念にヲコト点が打ってありました。
    韓愈に関する論説、楽しみにしております。妄評多謝。
    藤田 吉秋・Eメール・toubokuji@nifty.com

  16. 古勝 隆一先生
                            2012年3月9日
    前略。
    ◎「劉懿墓誌銘」。
    趙万里氏(1905~1980)の『漢魏六朝墓誌集釈』を調べてみました。

    Ⅰ.瞿中溶(1769~1842)『古泉山館金石文編残稿』一
    Ⅱ.李慈銘(1830~1894)『越縵堂文集』七
    Ⅲ.徐樹鈞(1842~1910)『宝鴨斎題跋』上

    Ⅰ.顧千里が最晩年、新たに出土したこの墓誌銘の拓本の摹本を見ていました。「此志搨本、乃葉君紉之、於友人處見之。印摹一本、以問顧君澗蘋。澗蘋時已病篤」。そして、瞿氏は「以待深於史者」という顧氏の言を承けて、詳しく考証をしていました。
    Ⅱ.李慈銘は、この墓誌銘を「其文整齊完美、蓋出其時能手若温邢之徒」と讃えています。温子升(495~547)、邢子才(496~?)らと同等の能手ならば、「いい加減に書」く、ということは無いと思います。
    Ⅲ.徐樹鈞は、「墓誌乃當時表墓之文」と言っています。「墓室の中に収納するもの」ではない可能性もあります。但し、見られる環境にあっても碑主は、「本傾亂武夫、目不知書。或嫌懿字繁重而以字之首一字行耳」だったのでしょうか。

    様々なことを教えてくれる墓誌銘でした。是非、全文の釈文をお示し下さい。また、所蔵の拓本の由来など教えて頂ければ嬉しく存じます。「搨本在郡中某姓家。因倩人往假、祕不肯出」。昔は見るのも大変だったようです。
    藤田 吉秋・Eメール・toubokuji@nifty.com

    Ⅰ.『古泉山館金石文編残稿』一
    此志搨本、乃葉君紉之、於友人處見之。印摹一本、以問顧君澗蘋。澗蘋時已病篤。猶手書復之云、

    文中「大丞相渤(志作「勃」)海王」者高歡也。「定鼎鄴宮」爲歡時事。然則劉君當在『北齊書』。乃檢歡諸臣、有劉貴。列傳與此墓志之劉懿即係一人也。墓志與傳同者、如敍其上世云「父肆州」、敍其封爵云「敷城縣進爲公」、敍其起家「大將軍府騎兵參軍」曁其餘歷官、敍其薨卒「興和元年十一月」、敍其長子元孫及次子洪徽嗣。皆可爲證據而斷之、確然無疑矣。
    唯志云、「君諱懿、字貴珍」、傳云、「劉貴」無字。蓋本有二名。
    又志云、「宏農華陰人」、而傳云、「秀容陽曲人」。則「宏農」言姓望、「秀容」言土著。非不同。故詳書之、以待深於史者。

    丁酉六月、予在呉門。紉老攜其摹本與澗老遺札示予。詢知搨本在郡中某姓家。因倩人往假、祕不肯出。遂據葉摹本録入。
    中溶以史傳攷之・・・

    Ⅱ.『越縵堂文集』七
    此偁「名懿、字貴珍」。
    蓋貴本傾亂武夫、目不知書。或嫌懿字繁重而以字之首一字行耳。
    其文整齊完美、蓋出其時能手若温邢之徒。
    「又跋」
    前跋謂是「武夫所爲」。此語非(趙氏誤「亦」)無稽也。高齊時、如斛律金、不識金字、指屋角爲之。厙狄干署名作干字、逆上畫之。時人謂之穿錐。又有武將王周者。署名先爲吉而後成其外。足證不偁懿而偁貴者、蓋亦嫌署名字不便故也。
    後人不可因史而疑碑。亦不可据碑而疑史。自非善讀書人、不必講此事也。

    Ⅲ.『宝鴨斎題跋』上
    墓誌乃當時表墓之文。

    1. 藤田さま

      コメントちょうだいいたしまして、まことにありがとうございます。

      この石刻につきまして、ぜひ、機会をとらえてご紹介申しあげようと存じますが、いかんせん、このところ、非日常的な多忙さでして、少々お待ちいただくことになるかと存じます。その点につきましては、なにとぞ、ご海容のほど。

      今後とも、よろしくお願いいたします。

      学退上

  17. 古勝 隆一先生
                            2012年3月12日
    拝復。
    ◎「劉懿墓誌銘」。
    お忙しい所を申し訳ありません。しかし、訂正箇所は以下に記しておきます。

    「長ったらしいタイトル」2カ所、「刾肆」。「刾」は正しくは「郟」。「刾」は、「刺」の俗字。墓誌拓本の「刺史」は「刾史」としています。『顔氏家訓』書証篇第17に、

    簡「策」字、「竹」下施「朿」。末代隸書、似杞宋之「宋」。亦有「竹」下遂爲「夾」者。猶如「刺」字之傍應爲「朿」、今亦作「夾」。

    瞿中溶氏は、「郟州之郟、當作陜」と。「陜(きょう)」と「陝(せん)」とは違う、とも論じております。
    また、2009/07/18「姚振宗の親友」。竹林の七賢「王戎」(2カ所)が「王充」となっています。
    ところで、「前信Ⅲ」に引いた『宝鴨斎題跋』上には、

    作史者紀前代人事。傳聞失實、亦所不免。
    墓誌乃當時表墓之文。功業縱有鋪張、名字里居、斷不至誤。

    としてありました。「表墓」を墓誌の見られる環境にある証拠とするのは無理でした。『文体明弁』に「勒石加蓋、埋於壙前三尺之地、以爲異時陵谷變遷之防、而謂之誌銘」とありました。「前信Ⅲ」は取り消します。
    藤田 吉秋・Eメール・toubokuji@nifty.com

  18. 古勝 隆一先生
                            2012年3月17日
    ◎「劉懿墓誌銘」。「郟州」・「陝州」。
    お忙しい所を申し訳ありません。「陝州」も知らずに詰まらないコメントをしてしまいました。瞿中溶氏は、「郟州之郟、當作陝」、「以郟爲陝者也」と言っていました。蓋し、「郟」は、「陝(せん)」の隸変であろう、と。

    ●『古泉山館金石文編残稿』一
    惟郟州之郟、當作陝。見『魏書』地理志(當作「地形志」)、屬恒農郡。兩漢有陝縣、屬宏農郡。
    『説文』「㚒」下云、「宏農陝字从此」。徐音、失冉切。
    又阜部「陝」下云、「宏農陝也」。音同。
    又大部有「夾」字。云、「特(當作「持」)也」。音、古狎切。
    阜部又有「陜」字。云、「从(當作「从阜」二字)夾聲」。音、侯夾切。
    又邑部有「郟」。云、「潁川縣」。
    攷『漢書』地理志、「潁川郡、郟」。師古音、夾。
    則郟與陝、一从㚒、一从夾。音亦不同。此當从夾从阜。而作郟者、蓋縁隸變。邑旁與阜旁之字、往往相混。如障蔽之障、或作鄣郡之鄣。乃移阜旁於右。非从邑也。而今『禮記』文尚有沿隸變、以鄣爲障者。
    六朝相承、阜旁字亦與邑旁相混。而移其阜旁於右如此、則以郟爲陝者也。不知者如以爲志之誤、則非矣。
    ●『説文解字注』第10篇下・「亦」部「㚒」
    「『弘農陝字从此』。漢弘農陝縣、在今河南陝州。从夾之字絶少。故著之。陜隘字从夾」。

    藤田 吉秋・Eメール・toubokuji@nifty.com

  19. 古勝 隆一先生
                            2012年3月17日
    追伸。また、誤打してしまいました。
    ◎『説文解字注』第10篇下・「亦」部「㚒」
    誤。「从夾之字絶少」。
    正。「从㚒之字絶少」。
    藤田 吉秋・Eメール・toubokuji@nifty.com

  20. 藤田さま

    コメントいただきまして、まことにありがとうございます。私の不注意で、混乱を招いてしまいまして、申し訳ございません。

    そもそも、このWordpressというサービスを利用しようと思ったきっかけは、他のサービスではunicodeが十分に使えないのに対して、Wordpressは文字を自由に表現できるから、というものでした。なるべく正しい字を使うようにつとめたいと思っておりましたが、今回は、研究会で思いついたことを即席で書き、誤字を出してしまいました。重ねてお詫び申し上げます。

    しばらく、このブログを休ませていただきます。その間、失礼致しますが、5月には再開できると存じておりますので、その節はなにとぞよろしくお願いいたします。

    では、しばらくご無沙汰致します。

    学退上

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