「中国における図書分類の歴史」


qiancunxun銭存訓(1909-2015)氏「中国における図書分類の歴史」(『ライブラリー・クオータリー』22-4、1952年)を読みました。これまで、欧米の目録学研究を読んでこなかったのですが、一九五十年代に書かれたこの論文にまず出会えたのは、幸運でした。

Tsuen-Hsuin Tsien, “A History of Bibliographic Classification in China”, The Library Quarterly, Vol. 22, No. 4 (Oct., 1952), pp. 307-324

当時、アメリカの図書館関係者を読者として書かれたらしく、ほぼ以下のように構成されています。

  • 序文
  • 伝統的な目録学の歴史
  • 近代的な図書館学との邂逅、目録法改良のためのさまざまな試み
  • 問題点と将来の展望

初めの方に、「フランシス・ベーコン(1551-1626)の学問分類は、中国の目録学の影響を受けた可能性もある」と書かれており、実証性に不安を覚えましたが、これは、アメリカの読者を引きつけるための方策にすぎないのでしょう。

伝統的な目録学史の概説では、劉向・劉歆父子の業績から、南北朝時代の七分類法の説明、四部分類の確立、『四庫提要』、四部分類以外の伝統的な目録法の説明までが、なされています。仏教・道教書の目録学は述べられていないものの、初心者が中国の目録学を知るという意味で、その基礎としては十分であると感じました。あまり概説書に登場しない許善心『七林』をSeven Grovesとして紹介するなど、なかなか念入りです。

また先日、ご紹介したとおり、『七略』及び『四庫提要』の分類名すべてに英訳を当ててくれています。こういう丁寧な作業は、欧米人にとってのみならず、我々にとっても大いに有益です。

近代以降の十進分類法の導入、その適応の努力、ハーバード燕京方式などさまざまな目録法の試行などについては、銭氏ががもっとも力を入れて書いているところです。この雑誌の主な読者層である(中国書を取り扱う)図書館員には、「中国書の整理を如何にすべきか」という目前の課題があり、その適切な分類を模索していたのでしょうから、ここに重点があるのは当然です。しかし残念ながら、私自身は近代的な図書分類に暗く、関心もやや薄いため、この部分を評価することはできません。

最後の部分には、目前の課題として中国書を分類する際の問題点、困難、その解決への展望が書かれています。この部分はたいへん力強く書かれており、参考になります。伝統的な目録学と近代の図書分類が整合しないところに分類の困難があるのですが、伝統的な中国書がもって難しい性質を、銭氏は三点挙げています。

  • 伝統的な目録学は、枠組みの中心に儒教を据えてきたこと。
  • 枠組みが簡単すぎて、詳細を組み込めない構造になっていること。
  • 枠組みに柔軟さがないこと。

これらの指摘は、実によく問題点をとらえていると思いました。

さて、こういった伝統目録学と近代図書館学との溝を如何に埋めるか、という問いが当然、その先にあり、銭氏も分類の標準化を推進すべく、大いに気を吐いています。

ただ私としては、銭氏自身が指摘したとおり、中国目録学固有の性質があまりに根深いものと感じられ、旧書(伝統目録学の埒内にある書物)と新書(それ以外の書)とを一括して分類することに抵抗があります。むしろ両者を分けておくのがよいように思います。むろん、私は図書館学の専門家ではありませんので、漢籍に日々接する一学徒としてそのような感想を抱くにすぎませんが。

銭氏の概説が書かれてから50年。あまり標準化が進んでいるとはいえないようです。裏を返せば、銭氏の問いは古びていないともいえます。

この論文は、「中国における図書分類の歴史」という題名に背かず、古代から現代までを視野に入れた堂々たる議論で、英語で書かれた目録学の礎とするに十分です。惜しむらくは、参考文献が一切なく、源にさかのぼりえない点ですが、アメリカの図書館員が中国書を参照することの非現実性、そして草創期における先行研究の欠如という、当時の事情をくむべきかもしれません。

銭氏は1909年、江蘇省泰県の出身、金陵大学に学び、上海交通図書館副館長等を努めた後、1947年に渡米、シカゴ大学の蔵書を整理し、その教授となった学者。邦訳に『中国古代書籍史―竹帛に書す』(法政大学出版局,1980年)、『中国の紙と印刷の文化史』(法政大学出版局,2007年)があります。

中国目録学用語の英訳


英語で目録学の概念を言おうとしても、なかなか口から出てこず、困っておりました。英訳との対照表が欲しいと思い、先行研究を参照して表にしてみました。

まず、銭存訓氏の「中国における図書分類の歴史」に見える、『七略』と『四庫全書総目提要』の分類をお示しします。これで、分類名は大体網羅できます。

Tsuen-Hsuin Tsien, “A History of Bibliographic Classification in China”, The Library Quarterly, Vol. 22, No. 4 (Oct., 1952), pp. 307-324

『七略』 Seven Epitomes

輯略 General Summary

六芸略 Classics

  • 易 Book of Changes
  • 書 Book of Documents
  • 詩 Book of Poetry
  • 礼 Book of Rites
  • 楽類 Sacred music
  • 春秋 Book of Annals
  • 論語 Analects of Confucius
  • 孝経 Book of Filial Piety
  • 小学 Classical philology

諸子略 Philosophy

  • 儒家 Confucianists
  • 道家 Taoists
  • 陰陽家 Astrologists
  • 法家 Legalists
  • 名家 Logicians
  • 墨家 Mohists
  • 縦横家 Diplomatists
  • 雑家 Syncretists
  • 農家 Agriculturalists
  • 小説家 Novelists

詩賦略 Poetry

  • 賦 Prose poetry
  • 雑賦 Miscellaneous style
  • 歌詩 Songs and ballads

兵書略 Military science

  • 兵権謀 Tactics
  • 兵形勢 Terrain
  • 兵陰陽 Negative and positive principles
  • 兵技巧 Strategy

数術略 Sciende and Occultism

  • 天文 Astronomy
  • 暦譜 Chronology
  • 五行 Law of five elements
  • 蓍亀 Divination
  • 雑占 Miscellaneous superstitions
  • 形法 Geomancy

方技略 Medicine

  • 医経 Medical classics
  • 経法 Pharmacology
  • 房中 Sexology
  • 神仙 Longevity

『四庫全書』 Complete Collections of Four Treasuries

経部 Classics

  • 易類 Book of Changes
  • 書類 Book of Documents
  • 詩類 Book of Poetry
  • 礼類 Book of Rites
  • 春秋類 Book of Annals
  • 孝経類 Book of Filial Piety
  • 五経総義類 Classics in genaral
  • 四書類 Four Books
  • 楽類 Sacred music
  • 小学類 Classical philology

史部 History

  • 正史類 Dynastic histories
  • 編年類 Annals
  • 記事本末類 Topical records
  • 別史類 Separate histories
  • 雑史類 Miscellaneous histories
  • 詔令奏議類 Official documents
  • 伝記類 Biographies
  • 史鈔類 Historical records
  • 載記類 Contemporary records
  • 時令類 Chronography
  • 地理類 Geography
  • 職官類 Official repertories
  • 政書類 Institutions
  • 目録類 Bibliographies
  • 史評類 Historical criticism

子部 Philosophy

  • 儒家類 Confuciannists
  • 兵家類 Military science
  • 法家類 Legalists
  • 農家類 Agriculturalists
  • 医家類 Medicine
  • 天文算法類 Astronomy and Mathematics
  • 術数類 Occultism
  • 芸術類 Fine Arts
  • 譜録類 Repertories of science, etc.
  • 雑家類 Miscellaneous writers
  • 類書類 Encyclopedias
  • 小説家類 Novelists
  • 釈家類 Buddhism
  • 道家類 Taoism

集部 Belles-lettres

  • 楚辞類 Elegies of Ch´u
  • 別集類 Individual collections
  • 総集類 General anthology
  • 詩文評類 Literary criticism
  • 詞曲類 Songs and drama

次に、ウィルキンソン氏『中国歴史手冊』(ハーバード大学出版会、2000年)の第1部「基礎」、9章「書物の探し方」に見える目録学用語を少々補います。なお、冠詞はほとんど省いてあります。

Endymion Wilkinson,
Chinese History: a Manual, revised and enlarged, 
Harvard University Press, 2000

  • traditional fourfold bibliographical classification 四部分類
  • series 叢書
  • collectanea 叢書
  • dynastic bibliographies 史志
  • classification 分類
  • bibliography 目録
  • four branches 四部
  • four separete palace repositories 四庫
  • branch 部
  • subbranch 類
  • lost book 佚書
  • recovered text 輯佚書
  • reconstituted text 輯佚書
  • rifacimenti 輯佚書
  • forged book 偽書
  • textual criticism 校勘
  • banned book 禁書

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欧米の中国目録学研究


Chinese History欧米の漢学においては、中国目録学の研究はそれほど盛んではないようですが、現在、どこまでの蓄積があるのかを確かめたいと思っております。

手始めに、ウィルキンソン氏『中国歴史手冊』(ハーバード大学出版会、2000年)の第1部「基礎」、9章「書物の探し方」に見える、欧米の研究をリストアップしてみました。

Endymion Wilkinson,
Chinese History: a Manual, revised and enlarged,
Harvard University Press, 2000

いずれ、さらに増補を加えたいと思っております。

  • Cho-yüan T’an(Cheuk Woon Taam,  譚卓垣), The development of Chinese libraries under the Ch’ing dynasty, 1644-1911, China Commercial Press, 1935.
  • Achilles Fang, “Bookman’s Decalogue”, Harvard Journal of Asiatic Studies, Vol. 13, No. 1/2, Jun., 1950, pp. 132-173.
  • Achilles Fang, “Bookman’s Manual”, Harvard Journal of Asiatic Studies, Vol. 14, No. 1/2, Jun., 1951, pp. 215-260.
  • Karl Lo, “A Guide to The Ssŭ pu ts’ung k’an”, Harvard Journal of Asiatic Studies, Vol. 27, 1967, pp. 266-286.
  • Roger Pelissier, Les bibliothèques en Chine pendant la premierè moitie du XXe siècle , Mouton, 1971.
  • John H. Winkelman, “The Imperial Library in Southern Sung China, 1127-1279. A Study of the Organization and Operation of the Scholarly Agencies of the Central Government”, Transactions of the American Philosophical Society, New Series, Vol. 64, No. 8, 1974, pp. 1-61.
  • Susan Chan Egan, A Latterday Confucian: Reminiscences of William Hung (1893-1980), Harvard East Asian Monograph, 131, 1980.
  • Hok-lam Chan, Control of Publishing in China Past and Present, ANUP, 1983.
  • R. Kent Guy, The Emperor’s Four Treasuries : Scholars and the State in the Late Ch´ien-lung Era, Harvard University Press, 1987.
  • Ulrich Stackmann, Die Geschichte der chinesischen Bibliothek Tian Yi Ge vom 16. Jahrhundert bis in die Gegenwart, (Münchener ostasiatische Studien, no. 54) Franz Steiner, 1990.
  •  Jean-Pierre Drège, Les bibliothèques en Chine au temps des manuscrits : jusqu’au Xe siècle, EFEO and Maisonneuve, 1991.
  • Timothy Brook, “Edifying knowledge: The Building of School Libraries in Ming China”, LIC 17.1: 93-119, 1996.
  • Sharon Chien Liu, Libraries and Librarianship in China, Greenwood, 1998.
  • Nancy Lee Swann, Seven Intimate Library Owners, Harvard Journal of Asiatic Studies, Vol. 1, No. 3/4 (Nov., 1936), pp. 363-390.

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七十篇か十七篇か


『漢書』芸文志に「礼古経」なるものへの言及があります。通行本である、中華書局本によって、本文を示します。

『禮古經』者,出於魯淹中及孔氏,(學七十)〔與十七〕篇文相似,多三十九篇。

中華書局本は、王先謙『漢書補注』を底本としていますが(ただし『補注』を含まず)、問題のある部分について、底本の文字を括弧の中に残しつつ、代案を亀甲括弧に入れて示したところがあります。引用部分についていうと、底本の「學七十」を誤字と認めて括弧に入れた上で、「與十七」と代案を示しています。さらに中華書局本は、次の校語を付しています。

劉敞說「學七十」當作「與十七」。楊樹達以為劉說確鑿不可易。

楊樹達の考え方は、『漢書窺管』(上海古籍出版社、1984年、211-213頁)に見え、宋の劉敞(1019-1068)の説を支持しています。中華書局本の校訂者は、それに従ったわけです。

さて、その劉敞の説は、もと『漢書刊誤』という本に書かれていたそうですが、後に失われました。しかし劉敞説は、劉元起が刻した建安本『漢書』に引用され、その建安本を本にした明の南監本や清の武英殿本にも、同じく引用されます。その経緯は、王先謙『漢書補注』の序である「前漢補注序例」に書いてあります。

さて『漢書補注』は、汲古閣本という別系統の本文を主としつつも、注記については武英殿本をも採用しているので、ここにも劉敞説が見えます。

王先謙『漢書補注』は、本文を「『禮古經』者,出於魯淹中及孔氏,學七十篇文相似,多三十九篇。」とした上で、「補注」に劉敞・王応麟・沈欽韓・葉徳輝らの説を長々と引き、自分の按語を付けています。王氏は、「七十」を「十七」と改める点については劉敞に賛成するが、「學」を「與」と改める点には賛成しない、といいます。

この説は葉徳輝に基づいており、仮にこの説に基づいて本文を作るならば、「『禮古經』者,出於魯淹中及孔氏學,十七篇文相似。」となります(「多三十九篇」は下に続くと主張します)。しかし、楊樹達ならびに中華書局本の校訂者は、王氏の説に異を唱え、やはり全面的に劉敞の説に従うべし、とし、私もそれに同意します。

『漢書』芸文志の、この少し前の部分に、「『禮』,古經五十六卷,經七十篇。」ともあり、それについても劉敞が「十七篇」と改めるべきと主張しており、銭大昭や、中華書局本の校訂者もこれを是としています。

どちらの「七十篇」も、『漢書』のもとの姿としては、「十七篇」であった、と推測します。いたって常識的な見方で、人様にお示しするのもはばかられますが、やはり誤字であっても、千何百年も伝えられてきた本文は強いもの。「七十篇」として引用するものを見かけたので、備忘のために書き留めておきます。

余嘉錫の没年


目録学者、余嘉錫の伝記については、その娘の余淑宜・娘婿の周祖謨両氏が書いた「余嘉錫先生学行憶往」(『中国文化』13期、1996年)が基本的な資料となります。この文章には、余嘉錫の晩年とその死を次のように伝えます。

1952年の秋、「元和姓纂提要辨證」の原稿を完成させたが、転倒して右足を傷つけ、脳溢血のために四肢が麻痺し、これ以降、筆を執って著述することができず、麗しい志は遂げられず、床から天井を見上げて嘆くしかなく、身の回りの世話をする人もなく、その苦痛は言い表しがたい。狭い部屋の中にいて、まるで牢屋のようで、食事の上げ下げの時にやっと人間に会うくらいで、離れて暮らしている人も五重の扉で、数十メートルも隔てられており、乙未の年(西暦1955年)の旧暦大晦日の夜、食事中に饅頭を詰まらせてしまったが、当時、そのもがき苦しみの惨状は、誰一人目撃者がなく、食事の片付けの時になってはじめて発見されたが、すでに息は全くなく、我々、余氏の子女たる者、痛恨の極みである。こうして一代の名家が恨みを抱いて亡くなり、人の世を離れた。時年、七十二歳であった。
1952年秋撰就「元和姓纂提要辨證」稿,摔傷了右股,因脳溢血而癱瘓,從此再不能提筆著述,美志未遂,仰屋興嘆,左右侍奉乏人,苦不堪言。居於斗室之中,如處囚牢,只有送飯,取碗時才能見到人,離活着的人有五重門之隔,数十米之遥,於乙未年(公元1955年)除夕之夜,吃飯時被饅頭所噎,當時挣扎之惨状,無一人目撃,直到取碗時才發現,人早已氣息全無了,為其子女者,能不痛心疾首!一代名家,就這樣含恨而終離開了人世,時年七十二歲。

この乙未の年は、西暦で言うと、1955年1月24日に始まり、1956年2月11日に終わりました。つまり、余嘉錫の亡くなった日は、旧暦で言うと乙未年十二月三十日、西暦で言うと1956年2月11日ということになります。

1996年、河北教育出版社から刊行された劉夢溪主編『中国現代学術経典』というシリーズは、なかなか有用なものでありますが、そのうち「余嘉錫 楊樹達巻」に収める「余嘉錫先生学術年表」では、「1955年、72歲。旧暦甲午除夕去世」と書いてあります。「甲午除夕」は誤りです。

中文版のwikipediaの「余嘉錫」項は、亡くなった日を「1955年1月23日」としており、「甲午除夕去世」に基づくらしいのですが、周祖謨・余淑宜「余嘉錫先生学行憶往」の「乙未年除夕」を正とすべきでしょう。

また、ほとんどすべての書物が余嘉錫の没年を西暦1955年としていますが、厳密に言うならば、1956年とすべきであると考えます。

我々が取り組んでいる科学研究費の研究計画「中国近代文献学―余嘉錫の総合的研究」では、余嘉錫の文献学をテーマとしています。「余嘉錫関連資料」と題して、略年表など、いくつかの知見をウェブサイトにて公開しております。あわせてご覧ください。

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スタンダート「イエズス会士はコンフューシャニズムを創作しなかった」


ニコラス・スタンダート氏(ルーヴェン・カトリック大学教授)による、ライオネル・ジェンセン氏(ノートルダム大学教授)著『コンフューシャニズムの創作』(デューク大学出版会、1997年)の書評。若い研究者に勧められて読んでみました。原著を読んでいない上に、宣教師関連の資料も言語も皆目分からぬ門外漢ながら、なかなか楽しんで読めました。

「コンフューシャニズム Confucianism」は、しばしば漢語の「儒」「儒教」に対応する英訳語として用いられる語彙ですが、原著は、この語彙がイエズス会士による創作であり、訳語として問題有り、と主張しているようです。「儒」という漢語自体、時代や文脈によってさまざまが意味を持っているのだから、コンフューシャニズムという色づけされた言葉を用いるのはよくない、と。

スタンダート氏は、ジェンセン氏の主張を認めつつも、「コンフューシャニズムという訳語は、17世紀のイエズス会士の創作だ」という彼の説を反駁しています。

スタンダート氏は、17世紀のイエズス会士のテクストに、その語が用いられていないことを指摘します。徐光啓(1562-1633)の「絶佛補儒(キリスト教は仏教を追い払うが、儒教を補う)」という有名な言葉を、宣教師のモンテーロは、どう訳したか。それは、“Idola resecat, Literatorum legem supplet”であって、ここには「儒」に当たる語として“Literatorum legem”、英語で言うなら“law of the literati”(知識人たちの法)が用いられており、ジェンセン氏のいうような“Confucianism”の語は用いられていないではないか。これがスタンダート氏の批判です。またスタンダート氏は、“Confucianism”の語は、19世紀になって用いられるようになった、とも言い添えています。

イエズス会士たちは、「儒」をイタリア語の“la legge de’ letterati”(知識人たちの教え)と呼んだり、ラテン語の“secta”(流派)と呼んだりしていて、固定化した呼び名はなく、「コンフューシャニズムという凝り固まった訳語をイエズス会士が当てた」という事実はまったくなかった、とスタンダート氏はいっています。

また、孔子の英訳はConfuciusで、これはイエズス会士たちのテクストに見え、「孔夫子」の音訳語と考えられていますが、ジェンセン氏は、「当時の中国側の資料では、孔夫子という言い方は一般的でなく、これもイエズス会士の造語」とします。これに対して、スタンダート氏は、イエズス会士たちが当時の中国社会に深く関与して活動を行っていたことを考えると、書面語としてではなく、口語として「孔夫子」の語があったと考えるのが自然、と論じています。

スタンダート氏の議論は、さらに「宣教師たちがどのように儒教をとらえたか」という点に向かいます。当時、イエズス会士は、宗教を「正しい宗教」と「誤った宗教」とに分けたが、儒教については、その二分法の埒外に位置する、文明的、政治的、哲学的なものとしてとらえていた、そのようにいっています。

イエズス会士たちは、コンフューシャニズムという固定観念を創作したのではない。そうではなく、興味深い儒教観を資料にのこしているのだ。この書評を通じて、そのようなことを知りました。
いずれ、ジェンセン氏の原著も、機会を見つけて読んでみたいものです。

  • 書評は、Nicolas Standaert, “The Jesuits Did NOT Manufacture “Confucianism””, East Asian Science, Technology, and Medicine (EASTM), 16, 1999, pp.115-132。
  • 原著は、Lionel Jensen, Manufacturing Confucianism, Durham, NC: Duke Univ. Press, 1997。

『老子』河上公注を読む


道は知りがたく、把握しがたい。『老子』第二十五章に「物有り混成し、天地に先立ちて生ず。寂たり寥たり、独立して改まらず、周行して殆うからず。以て天下の母と為すべし。吾その名を知らず、之にあざなして道といい、強いてこれが名を為して大という」、と。天地に先立つものでありながら、名づけることさえ難しいもの、しいてアザナをつけるなら、「道」ということになる、と。単なる道路どころの話ではない。

このような道の探索は、先秦時代から漢代にかけて、道家と呼ばれるグループにより深められた。たとえば『淮南子』原道訓に「まことに道は、天の天、地の地なるもの。四面八方にせり出し、果てもなく高く、底知れず深く、天地を抱き無形にいのち注ぐもの。ああ、泉と湧き源と溢れれば、空洞もやがて満ちわたり。蕩々とほとばしれば、混濁もやがて澄みわたる」、というのは、道についての美しい表現である。そして、そのような道をもっとも正しく語り、その核心にある著作だと認められてきた書物こそが『老子』であった。

同じく先秦時代から漢代にかけての頃、大きな力を持っていたもう一つの思想集団として、儒家があり、儒家も道に言及している。『論語』里仁篇に、「子曰く、朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり」というのも知られるが、しかし道の探究という点において、儒家はとうてい道家に及ばない。

『史記』を書いた司馬遷の父、司馬談は、道家思想への深い思いを抱いており、そのことは『史記』の太史公自序にも描かれている。そしてもちろん、『史記』の中にも老子という人物の伝記が書かれている。しかし、その伝記がきわめて混乱しており、実態をほとんど想像できない。司馬遷の時代においてすら、老子の人物像は不明瞭であったらしい。後世、それがますます混乱したのも、無理のないことであった。

老子なる人物の伝記が謎めいているのみならず、『老子』という書物の内容や、その中心に位置する道の思想もつかみがたい。そこで説明や注釈が求められた。後世、前漢の河上公なる人物が書いたという注と、魏の王弼が書いた注とが、『老子』解釈の二本の大きな柱となったが、前者の河上公注は、たいへんに興味深い『老子』観を示している。

そもそも河上公とは如何なる人物であるのか。河上公注『老子』につけられた、葛玄の序という文章によると、河上公は姓名未詳。前漢の文帝の時に黄河の岸辺に隠居して、『老子』を読み解いていた。文帝は、河上公が『老子』に通じていると聞いて召し寄せようとしたが、「そんなことでは道や徳は教えられない」と河上公が上京を拒むので、しかたなく文帝みずからが出向いてその非礼を責めたところ、河上公は手を打ってふわりと虚空に浮かび上がり、自分は帝王の指図を受けぬと宣言する。そこで文帝は河上公が神人であると悟り、礼を尽くして教えを乞うたところ、河上公は『老子道徳経章句』二巻を文帝に授け、「これをよく研究すれば、『老子』は分かるだろう。余がこの経に注をつけて以来、千七百年になるが、伝授したのは、あなたを含めて四人だけだ。人には見せるな」と言った。伝授を終えると、河上公はどこかに消えた、と。葛玄の序はそのように説く。河上公もまた、謎に満ちた人物である。

上記の逸話は、もちろん作り話に違いない。河上公注ができたのは、後漢の頃だという学者もあれば、南北朝の頃だという学者もある。その成書年代はともかく、内容には著しい特徴がある。それは道の思想を、国を治める政治思想としてとらえると同時に、自分の身体を治めるための思想ともみなしている点にある。『老子』冒頭の第一章に「これが道だといえるような道、それは常なる道ではない」とあるが、河上公によると、「これが道だといえるような道」とは政治の道のことで、他方、「常なる道」とは自然長生の道であるという。この「常なる道」に従うならば、自分の身体中にいる神を養うこともできるし、また同時に、民を治めることもできるのだ、そのように河上公は主張するのである。

これは非常におもしろい考え方だ。『老子』には、道に最も近い人間たる「聖人」の話題が頻出する。「聖人」とは、『老子』が書かれた頃の時代状況を背景に生み出された理想的人間像であるが、後世、聖人どころか、政治に携わることすらない一般人が『老子』を読むようになると、「聖人」の話題はどこか現実離れしたものと感じられたのではないか。しかし河上公は、「聖人」が国を治めるのと、身体を治めるのは、別物ではなく同じである、と、そのように説いた。こうして『老子』は、広い読者層にとって魅力的な書物となり得たのである。

このような『老子』読解は、曲解として片付けるわけにいかないところがある。というのも、中国思想の伝統には、自分にとって身近なもの、特に身体、それの類似として、政治や、宇宙の構造、そして万物の成り立ちをとらえる、そのような発想が濃厚にあるからだ。河上公の『老子』解釈をそういう伝統の中に置いてみると、あまり違和感なく自然に読める。もちろん、『老子』の作者がそういうつもりで書いたかどうかは、まったくの別問題であるが、ただ、河上公注のような『老子』解釈が後に生まれ、それが広く受け入れられたということは、吟味するに足る、中国思想史上の事実であると思うのである。

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