『老子』河上公注を読む


道は知りがたく、把握しがたい。『老子』第二十五章に「物有り混成し、天地に先立ちて生ず。寂たり寥たり、独立して改まらず、周行して殆うからず。以て天下の母と為すべし。吾その名を知らず、之にあざなして道といい、強いてこれが名を為して大という」、と。天地に先立つものでありながら、名づけることさえ難しいもの、しいてアザナをつけるなら、「道」ということになる、と。単なる道路どころの話ではない。

このような道の探索は、先秦時代から漢代にかけて、道家と呼ばれるグループにより深められた。たとえば『淮南子』原道訓に「まことに道は、天の天、地の地なるもの。四面八方にせり出し、果てもなく高く、底知れず深く、天地を抱き無形にいのち注ぐもの。ああ、泉と湧き源と溢れれば、空洞もやがて満ちわたり。蕩々とほとばしれば、混濁もやがて澄みわたる」、というのは、道についての美しい表現である。そして、そのような道をもっとも正しく語り、その核心にある著作だと認められてきた書物こそが『老子』であった。

同じく先秦時代から漢代にかけての頃、大きな力を持っていたもう一つの思想集団として、儒家があり、儒家も道に言及している。『論語』里仁篇に、「子曰く、朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり」というのも知られるが、しかし道の探究という点において、儒家はとうてい道家に及ばない。

『史記』を書いた司馬遷の父、司馬談は、道家思想への深い思いを抱いており、そのことは『史記』の太史公自序にも描かれている。そしてもちろん、『史記』の中にも老子という人物の伝記が書かれている。しかし、その伝記がきわめて混乱しており、実態をほとんど想像できない。司馬遷の時代においてすら、老子の人物像は不明瞭であったらしい。後世、それがますます混乱したのも、無理のないことであった。

老子なる人物の伝記が謎めいているのみならず、『老子』という書物の内容や、その中心に位置する道の思想もつかみがたい。そこで説明や注釈が求められた。後世、前漢の河上公なる人物が書いたという注と、魏の王弼が書いた注とが、『老子』解釈の二本の大きな柱となったが、前者の河上公注は、たいへんに興味深い『老子』観を示している。

そもそも河上公とは如何なる人物であるのか。河上公注『老子』につけられた、葛玄の序という文章によると、河上公は姓名未詳。前漢の文帝の時に黄河の岸辺に隠居して、『老子』を読み解いていた。文帝は、河上公が『老子』に通じていると聞いて召し寄せようとしたが、「そんなことでは道や徳は教えられない」と河上公が上京を拒むので、しかたなく文帝みずからが出向いてその非礼を責めたところ、河上公は手を打ってふわりと虚空に浮かび上がり、自分は帝王の指図を受けぬと宣言する。そこで文帝は河上公が神人であると悟り、礼を尽くして教えを乞うたところ、河上公は『老子道徳経章句』二巻を文帝に授け、「これをよく研究すれば、『老子』は分かるだろう。余がこの経に注をつけて以来、千七百年になるが、伝授したのは、あなたを含めて四人だけだ。人には見せるな」と言った。伝授を終えると、河上公はどこかに消えた、と。葛玄の序はそのように説く。河上公もまた、謎に満ちた人物である。

上記の逸話は、もちろん作り話に違いない。河上公注ができたのは、後漢の頃だという学者もあれば、南北朝の頃だという学者もある。その成書年代はともかく、内容には著しい特徴がある。それは道の思想を、国を治める政治思想としてとらえると同時に、自分の身体を治めるための思想ともみなしている点にある。『老子』冒頭の第一章に「これが道だといえるような道、それは常なる道ではない」とあるが、河上公によると、「これが道だといえるような道」とは政治の道のことで、他方、「常なる道」とは自然長生の道であるという。この「常なる道」に従うならば、自分の身体中にいる神を養うこともできるし、また同時に、民を治めることもできるのだ、そのように河上公は主張するのである。

これは非常におもしろい考え方だ。『老子』には、道に最も近い人間たる「聖人」の話題が頻出する。「聖人」とは、『老子』が書かれた頃の時代状況を背景に生み出された理想的人間像であるが、後世、聖人どころか、政治に携わることすらない一般人が『老子』を読むようになると、「聖人」の話題はどこか現実離れしたものと感じられたのではないか。しかし河上公は、「聖人」が国を治めるのと、身体を治めるのは、別物ではなく同じである、と、そのように説いた。こうして『老子』は、広い読者層にとって魅力的な書物となり得たのである。

このような『老子』読解は、曲解として片付けるわけにいかないところがある。というのも、中国思想の伝統には、自分にとって身近なもの、特に身体、それの類似として、政治や、宇宙の構造、そして万物の成り立ちをとらえる、そのような発想が濃厚にあるからだ。河上公の『老子』解釈をそういう伝統の中に置いてみると、あまり違和感なく自然に読める。もちろん、『老子』の作者がそういうつもりで書いたかどうかは、まったくの別問題であるが、ただ、河上公注のような『老子』解釈が後に生まれ、それが広く受け入れられたということは、吟味するに足る、中国思想史上の事実であると思うのである。

【序】

昨年の夏、2011年7月9日、京都大学人文科学研究所では、夏期講座として、「名作再読|道を語る」と題する講演会を行いました。私もそこで、「道とは何か|『老子』河上公注を読む」というお話をしました。今回、その趣旨を所内の広報誌に載せるよう求められ、内容をまとめましたので、「学退筆談」にも転載しておきます。

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「『老子』河上公注を読む」への7件のフィードバック

  1. 古勝 隆一先生
                            2013年3月23日
    ◎「河上公注『老子』につけられた、葛玄の序という文章」。

    『老子道徳経河上公章句』(王卡点校・中華書局・1993年刊)P.317に、

    宋人刊刻老子河上公章句、始節録葛玄序訣冠於卷首、如四部叢刊影宋本、天禄琳琅叢書影宋本、宋景定刊纂圖互注本、皆是其例。或以爲葛玄序訣卽爲原本河上公章句之序、其實不然也。

    と注記がありました。「河上公注『老子』につけられた、葛玄の序という文章」との表現は、正確ではないのでは?藤田 吉秋

    1. 藤田さま

      ご指摘、ありがとうございます。この序文につきましては、主に日本人の学者が議論を重ねており、武内義雄・大淵忍爾・楠山春樹・小林正美・堀池信夫といった諸先生が、多角的な検討を加えてこられました。

      王氏が「宋人刊刻老子河上公章句、始節録葛玄序訣冠於卷首」というのは、明らかな事実誤認で、敦煌から出た唐写本にも、この「序訣」を冠している写本は少なくありません。大淵氏の「老子道德經序訣の成立」(『道教史の研究』岡山大学共済会書籍部、1964年)では、宋刊本にも載せる序訣の内容は、早くも東晋時代には成立し、その後、河上公本の『老子』に附されてきた、とお考えです。さまざまな異説がありますが、南北朝時代に序訣の一部(宋刊本にも載せる部分)が『老子』の序文となっていたことは、ほぼ定論となっていると思います。

      これにつきましては、以前、拙著『中国中古の学術』(研文出版、2006年)の中に「賈大隱の『老子述義』」という論文を収め、そこで簡単に触れたことがあります(262-269頁)。ご覧くだされば幸いです。

      「葛玄の序という文章」と書きましたが、それは、諸本に葛玄の名が記されてきたものの、本当に葛玄が書いたという証拠はないので、「という文章」と加えました。

      では、失礼いたします。

      学退拝復

  2. 古勝 隆一先生
                            2013年3月23日
    拝復。
    ◎「明らかな事実誤認」。
    王氏は、「今敦煌所出唐人鈔寫五千文本道德經、其經文前卽冠以葛玄序訣」といっていて、「敦煌から出た唐写本にも、この『序訣』を冠している写本は少なく」ないことは認識しています。「始節録葛玄序訣冠於卷首」は「事実誤認」ではなく、宋人が『老子河上公章句』を刊刻する際に、始めて「葛玄序訣」を「河上公注」の序文と看做して巻首に冠した、ということではないでしょうか。「河上公注『老子』につけられた」と先生の謂われる所の「葛玄序訣」は、『河上公注』の為の序文ではなく「『道徳経』経文のみのものへの序」であるという堀池氏の所説に王氏の主旨は近い、と考えますが如何でしょう。藤田 吉秋

  3. 藤田さま

    ご返信、ありがとうございます。さて、王氏の考えはおっしゃるように理解できますので、事実誤認と言ったのは勇み足でした。しかしながら、河上公注と「序訣」とが、元来、無関係であったとする説は、あまり信じられません。それならなぜ「序訣」の第二段に河上公の話題が書かれているのか、理解できません。極端な説であるように思います。

    先にいただいたコメントに、「「河上公注『老子』につけられた、葛玄の序という文章」との表現は、正確ではない」とおっしゃるのですが、これがよく理解できません。どのあたりが不適切なのでしょうか?「つけられた」という表現は、誰がつけたのかにまで言及しておりませんし、問題ないと思いますが。小生の誤解などがありましたら、ご指摘ください。よろしくお願いいたします。

    学退拝復

  4. 古勝 隆一先生
                            2013年3月23日
    拝復。
    ◎「第二段に河上公の話題が書かれているのか」。
    「河上公注と『序訣』とが、元来、無関係であった」とまでは思いませんが、「河上公者、莫知其姓名也」より「時人因號曰河上公焉」に至るまでの一段は、『道徳経』の伝授を語っているのであって、河上公注の序文の一節とはいえないのではないか、と考えました。この一段は、葛洪の『神仙伝』「河上公」にもそのまま使われています。
    ◎「河上公注『老子』につけられた、葛玄の序という文章」。
    「葛玄によって河上公注『老子』の為に書かれ、つけられた(序文)」と解釈していました。
    藤田 吉秋

  5. 古勝 隆一先生
                            2013年4月21日
    ◎「道の思想を、国を治める政治思想としてとらえると同時に、自分の身体を治めるための思想ともみなしている」。
    ◎「『聖人』が国を治めるのと、身体を治めるのは、別物ではなく同じである」。

    河上公注には、「道の思想」を「政治思想としてとらえる」意識は乏しいのではないでしょうか。第60章「治大國若烹小鮮」の王弼注と河上公注とを比べると、その傾向は明瞭であろうと思います。
    王卡氏は第3章「是以聖人之治」の河上公注「説聖人治國與治身同也」の「同」字を刪っています。「是を以て聖人の治は」以下に対する注解として「聖人の治国と治身とを説く」は付けられていて、「同」字は衍字であろうと思います。

    第60章「治大國若烹小鮮」。
    【王弼注】
    不擾也。躁則多害、靜則全眞。故其國彌大、而其主彌靜、然後乃能廣得衆心矣。
    夫恃威網以使物者、治之衰也。
    【河上公注】
    鮮、魚也。烹小魚、不去腸、不去鱗、不敢撓、恐其糜也。治國煩則下亂、治身煩則精散。
    人得全其性命、鬼得保其精神。
    【王卡氏「河上公章句之主要思想内容」P.8-11】
    天道與人事相通、治國與治身之道相同、二者皆本於清虛無爲的自然之道、這是河上公章句的基本思想。故陸德明經典釋文概括此書要旨爲「言治國治身之要」。
    河上公解釋「常道」爲「自然長生之道」、而非「經術政教之道」、這未必符合老子原義、但卻表明了作者輕視治國而偏重養生長壽之道的傾向。第六十四章注云:「聖人學人所不能學。人學智詐、聖人學自然;人學治世、聖人學治身。」更清楚表明了作者輕治國而重治身的思想。

    藤田 吉秋

  6. 藤田さま

    ご無沙汰しておりましたが、平常に復帰しましたので、あらためましてよろしくお願いいたします。

    さて、河上公注と王弼注とを比較した場合、政治に関する興味は王弼の方が強いというのは、私もそのように思います。

    しかし、だからといって、河上公注に政治思想が含まれないことにならないはずです。第四十七章「不窺牖見天道」の河上公注に「天道與人道同,天人相通,精氣通貫。人君清淨,天氣自正;人君多欲,天氣煩濁。吉凶利害,皆由於己」とあるように、君主の問題、政治の問題は、河上公注の思想の不可欠の要素です。王卡氏の言うとおり、河上公注において「治国(治世)」と「治身」を比べると、後者により大きな意味が置かれていることは間違いありませんが、第六十四章の注を根拠に「輕治國而重治身」と総括するのは行き過ぎと思います。

    このあたりは、意見の分かれるところと思いますが、私は「言治國治身之要」とした陸徳明の方が、比較的、バランスがよいと考えます。

    学退敬復

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